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【旅】和銅採掘露天掘り跡〜催鋳銭司・多治比三宅麻呂の痕跡を求めて〜

和同開珎の催鋳銭司であった多治比三宅麻呂の痕跡を求めて秩父市にある和銅遺跡を旅した。前記事のとおり聖神社を訪れた後、和銅採掘露天掘り跡へ向かった。


和銅採掘露天掘り跡への道のり


地図上で確認した際は、少し山に入る位置であることから徒歩で行くことが不安だったが、聖神社の近くから分かりやすい誘導看板が置かれていたため迷うことはなかった。

徒歩での目安時間の看板
目的地までの看板が数多く置かれていた

看板に従い舗装道路から脇道に入っていく。観光客を絶対に迷わせないという地元住民の気持ちの入った矢印に従い奥へと進んでいく。

矢印に従い奥に進むと案内板を発見した。

「和銅」に関する地名の案内板

和銅に伝わる地名として「殿地(どんじ)」「銅洗堀(どうせんぼり)」「鋳銭房(ずせんぼ)」などの解説が掲載されていた。銅の産出、献上、運搬にちなんで残された地名とある。
和同開珎の催鋳銭司だった多治比三宅麻呂が名付けた名前も存在したのだろうか?上級官僚だったらあり得るのでは・・・?と想像を巡らせる。

さらに奥に進んでゆく。のぼり旗が道案内をしてくれたので迷うことはなかった。のぼり旗は比較的新しく、見知らぬ誰かが和銅遺跡の保存に尽力していることに感謝の念を抱きつつ歩みを進める。

矢印による誘導が続く。

橋の名前のように見える文字だが、実際は俳句が書かれている。これ以外にも道のところどころに俳句の書かれた板が飾られていた。

橋を渡ったところにある解説板には和銅遺跡が「13」という数字に縁起があると記載されている。
 ・和銅13個のご神宝
 ・聖神社の創建日が2月13日
 ・13戸の氏子
 ・美の山を流れ下る13谷
 ・春秋祭が13日開催
といった13にまつわる話が多数あるとのこと。
ちなみに多治比三宅麻呂の名が刻まれている多胡碑にはキリスト教と関連する噂がある。そしてキリスト教では13は不吉な数で有名だ。オカルトチックにはなるが、13繋がりで関係があるならば面白い。


和銅採掘露天掘り跡へ到着


しばらく道を進むとついに目的地の和銅採掘露天掘り跡に到着した。

巨大な和同開珎モニュメントは直径4mもあり、高さは5mもあるらしく離れた位置からも存在感があった。

間近でみるとなかなか迫力が凄い。主要な道路から離れた場所に、このように巨大なモニュメントを建設しているのは和同開珎発祥地としての誇りを主張しているかのようだった。

裏側を確認したが特に何もなかった。

「日本通貨発祥の地」とあるが現在は富本銭が日本最初の通貨と必ず注釈が付くようになってしまった。しかし、日本最初の流通貨幣である和同開珎の歴史的価値が下がるものではないだろう。お金は流通してこそ価値があるのだから。

多治比三宅麻呂の名前のある看板

巨大モニュメント近くには和銅遺跡についての解説板があった。
この解説板の文書でついに「多治比真人三宅麻呂」の文字を発見。和銅遺跡周辺では多治比には一切触れていないと諦めかけていたが、やや奥まったところにある和同開珎の巨大オブジェクトの近くで名前を発見できて感動した。

多治比真人三宅麻呂が記載されている解説板
「催鋳銭司の長官に多治比真人三宅麻呂」の記載がある

元明天皇から命じられて催鋳銭司として和同開珎を発行したであろう多治比三宅麻呂。しかし、その名前が取り上げられることは少なく多治比と関連深い名字の自分ですらネットで調べるまでその存在を知らなかった。
日本人なら誰もが知る和同開珎に関する役所の長官であったにも関わらず、そこそこ歴史好きの自分ですらネットがなければその名に辿り着くのが困難だったことは悲いと同時に、歴史の奥深さを感じる。

だが、こうして現地の看板に名前が残されているのを発見し、間違いなく歴史に名が残っているのを確認できたことはよかったと思う。



和同開珎オブジェクトの近くにある階段を登ろうとしたが、がけ崩れのおそれがあるとして通行止めになっていたのが残念だった。しばしの間、この地の空気を堪能したあと立ち去ることにした。
ちなみに平日のせいでもあると思うが自分に以外に訪れていたのは3名だけだった。

古地名・どうねんぼう [銅洗掘(どうねんぼり)]

帰り道で「どうねんぼう」の案内板を発見した。
「どうねんぼう」は古地名であり、和銅石や鋳造した銭を洗い流した沢を意味するようだ。やはり地名や名前には歴史が残されていることが多い。

来た道とは異なる道を利用して帰ったが、こちらにも誘導板が数多く設置されており迷うことはなかった。改めて歴史を保存している現地の人々に感謝した。


帰り道


山中を少し歩くと民家が見えてきた。

ここにも解説板があり帰り道で通った銅洗掘について更なる解説があった。上流、中流、下流で呼び名が変わり、源流に近い場所では「銅泉(どうせん)」、中流では「銅洗掘(どうせんぼり)」、できた和銅銭を洗い浄めるのが「銅銭掘(どうせんぼり)」と呼ばれるとある。

歩みを進めると、聖神社へ向かう途中でみつけた看板に戻ってきた。ここからは駅まで同じ道を通り聖神社・和銅遺跡の旅は終了となった。


和銅遺跡での多治比氏の痕跡は・・・


和銅遺跡では聖神社に続いて多治比氏の痕跡は一切ないのかと諦めたところ、和同開珎の巨大モニュメント近くの案内板に多治比三宅麻呂の名前が記載されているのを発見できた。

多治比三宅麻呂は群馬県高崎市にある多胡碑にも名前が刻まれており、また多胡碑と和銅遺跡では羊伝説が共通して残っている。もしかしたら多治比と羊と多胡碑と和銅遺跡の伝説には、何か繋がりがあるのではないか・・・?
そんな想像を巡らせながら和銅遺跡を後にした。

それにしても学校の歴史の授業や、地元の郷土資料や、名字の由来を紹介した本などでも和同開珎と多治比の関係性に触れたのを見聞きしたことがなく、知る機会を得られないまま人生の大半を過ごしたことを残念に思う。もっと若い頃に気付きのきっかけがあればと、つくづく感じてしまった。

#和銅採掘露天堀り跡

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