自己紹介
私は山奥に住んでます。
兵庫県豊岡市日高町観音寺に生を受け、早還暦を迎え6年経ちました。
小さい頃はいじめられっ子で小学校から帰り道によくいじめられ、泣きながら家に帰っていたことを覚えています。
泣きながら帰ったら親父からは、なぜ向かっていかないのかと怒られ、また泣きべそをかくといった幼少期でした。
そんな幼少期ですから、学校の成績もパッとしない、出来の余りよくない子供でした。
親からは、顔を見ればいつも勉強しろと口癖の様に言われ、親父からの強迫観念にさいなまれていました。
でも人は脅迫では動きません。動いても主体的ではありません。いじけてしまうだけです。
ですから勉強大嫌い人間に育ってしまいました。親とすれば子供の将来を考えれば勉強した方が良いから、という親心から出た言葉でしょうが、その言葉を投げかけられる当人にとってその言葉は脅迫以外の何モノでもありません。
出来の悪いところにフォーカスした言葉のみをどれだけ投げかけられても自分からやろうという事にはなりません。
ですから私の子供時代はあまり良い想い出はありませんでした。
他人と比較されておまえはダメ人間だ、とレッテルを貼られた人間にどうして自己肯定感、自己愛が持てるのでしょうか?
そんなこんなで、大学にも行かず(行けず)親戚の紹介で大阪に出て就職しました。
大阪では大手スーパーのマネキン交換作業をする仕事をしていました。軽トラに裸のマネキンを積んで京阪神中を走り回ってました。
家業が百姓なので4年ほどして呼び戻されて但馬の地で再就職・・・他責の念で世間を恨み、世の中に流され若い20代を何の目的も見出せずに30歳まで過ごしていました。
しかし、30歳の時に転機が訪れました。
その頃、私は勤め人で働いていましたが、その会社が倒産の憂き目に遭い、その上B型肝炎を患い1ヶ月以上の入院を強いられることとなりました。いわゆる泣きっ面に蜂ってやつですね!
そんな中、無謀にも独立、起業という道を選びました。
なにもそんな状況で独立せんでもいいやろ! とお思いになるかも知れませんが、私は就職という選択肢はなぜかありませんでした。
今から思い返しても定かではありませんが、それまでから独立願望はありました。
でも、自己重要感の希薄な自分には出来ないと思い込んでいました。それがこの逆境に遭遇することになり決断できたのかも知れません。
もう何も失うものも無いどん底だから挑戦する事だけが選択肢に残った感じでした。
そして、親の反対を押し切り無理矢理独立を果たしました。
当時、オリジナルTシャツ屋という職業に対する認知は皆無でした。私は小さい頃から絵を描くことやデザインに対して興味があり、それを活かした仕事をしたいという願望がありました。しかし、親から言葉は絵なんか描いてメシが食えるなんて甘いことを考えていてはダメ、世間をなめていてはダメ、お前にそんな能力があるとは思えない。独立するときにも親からは金銭面の援助はありませんでした。ですから、400万円の開業資金は信販会社からリースを組んで始めました。
スタートから約2年間は売上/月20万も無いぐらいでした。返済金が12万、仕入れが6万他、経費が若干、こんなんでやってられるか!と言いたくなる状況でしたが・・・、にも関わらずあまり苦にはなりませんでした。なんせ、好きなことをしていましたから・・・。
嫁さんはスーパーのレジ打ちのアルバイト、子供はまだ5歳、4歳です。 要するに私はひも状態ですね。こんな私によく付いて来てくれました。感謝です!
あれから30年、現在60歳と成りました。
私の尊敬する偉人は、日本地図を作った伊能忠敬です。彼は57歳頃から自分の夢に取りかかったと聞いています。
伊能忠敬の話を聞くにつけ勇気を頂けます。
近頃、とてもいい予感があります。でも環境は厳しいですが・・・!
趣味でテニスをやっています。若い頃とは違った意味でまだまだ上手くなると勘違いしています。
仕事でも不幸に鈍感に、これからが本番だと勘違いをしながらやっていきたいと本当に思います。
この世に生を受けたことに感謝しながら・・・(^^;)!!
株式会社 絆工房
https://kizunakobo.jp/