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TRPG制作日記(159) ドン・キホーテ2

以前、「琵琶法師と演劇」を扱ったときに、ギルドの職人たちが聖書の教えを誰にでも分かるように、文字ではなく視覚的に、楽しく伝えることを意識していると書きました。

面白くてためになる。

それは日本の物語文学においても言えると思います。日本書紀を起源に、源氏物語や平家物語に至るまで、その思想の根底には儒教、神道、仏教があることは間違いありません。

文化とは宗教の表現なのです。

ダンテの『神曲』は、この系統に属する物語であり、そこにはカトリック神学が確かに表現されています。

難しいことを分かりやすく伝える。

大切なことを、広く伝える能力。直感的には、それはとても素晴らしいことのように思えます。

しかし、ダンテ、ボッカチオ、ラブレーの三人を見てくると私たちは別の発想をする誘惑に駆られます。

大切なことを広く伝えるのではなく、広く伝わること、そのこと自体に何らかの価値があるのではないだろうか?


前回、私たちはラブレーの戦略を見ました。ダンテがキリスト教的神学による普遍的真理を問題にして、そしてボッカチオはギリシャ哲学を吸収することで人間を問題にするようになりました。

創作とは真理を問題にするべきなのか、それとも人間を問題にするべきなのかという問いとは別に、楽しさを、ただ楽しいことを追求するという別の道があることをラブレーは私たちに教えてくれます。

しかし、前回、教養を身につける以外の道が大切であることは問題にしましたが、もっと根本的に、教養を身につけることそのものを問題にすることはありませんでした。

今日は、再びセルバンテスの『ドン・キホーテ』に戻ります。


これまで触れてきた三人の文学者を列挙しておきましょう。

真理のダンテ(1256年生まれ、イタリア)『神曲』

人間のボッカチオ(1313年生まれ、イタリア)『デカメロン』

娯楽のラブレー(1483年生まれ、フランス)『ガルガンチュアとパンタグリュエル』

今日、取り上げるセルバンテスは1547年、スペインで生まれた『ドン・キホーテ』で有名な作家です。

ダンテ、ボッカチオ、ラブレー、セルバンテスとちょうど一世紀ほど時代がずれているので分かりやすいです(ボッカチオとラブレーの間だけ大きく期間が空いています)。


『ドン・キホーテ』の主人公ドン・キホーテは、スペインをイスラム教からキリスト教の手に取り戻したレコンキスタの騎士、に起源を持つイダルゴ(郷士)の末裔です。

レコンキスタが終わり、イスラム教徒を倒し、カトリック教会がスペインを支配するようになった時代の貴族です。

ドン・キホーテはやることがないので騎士道物語を読みあさり、ついにはレコンキスタの騎士に目覚めて冒険に出ます。

そして、彼は本で学んだことを実践し、現実と書物の区別が付かないために多くの人々に迷惑をかけます。

彼は書物に書かれていることと現実が食い違っているときには、現実が間違っており書物が正しいと思う完璧な観念論者です。


さて、ラブレーの『ガルガンチュアとパンタグリュエル』においては楽しいことも重要だということを書きました。

純粋な楽しさには真理がある。

偉い学者になれるようなすばらしい学問も大切かもしれないけど、それだけではなくて楽しいことも大切です。よく学び、そしてよく遊ぶことが重要なのですと結論づけてしまいそうです。

しかし、時代に乗り遅れて、騎士になるための素晴らしい本をたくさん読んで騎士を目指すドン・キホーテはまともなのでしょうか?

スペイン人は貴族を素晴らしいものだと考え、レコンキスタの騎士、イスラム教徒からスペイン人を解放してくれたレコンキスタの騎士を素晴らしい存在だと考えたかもしれません。

騎士道は、それ自体が素晴らしいと思ったかもしれません。

キリスト教徒として、カトリック教会の守り手として正しい生き方を目指す人にはそれなりの敬意が払われるべきだと考えたかもしれません。戦前の武士道を絶賛する日本の政治家のように。

キリスト教と騎士道は正義なのです。


フランスのラブレーが『ガルガンチュアとパンタグリュエル』で新しい道を見つけたときに、スペインのセルバンテスは『ドン・キホーテ』で古い道を絶ちました。

セルバンテスが現れるまでは、ギルドの職人達は、そして多くの演劇家たちは聖書や古典の素晴らしさを疑う必要はありませんでした。

聖書は素晴らしい、古典は素晴らしいと信じていれば良かったのです。創作するのは表現であり内容ではありませんでした。

表現者は古典を模倣して、そしてそれを分かりやすく、人々を聖書と古典に近づけることを考えていれば良かったのです。

しかし、ラブレーとセルバンテスにより、エンターテイメントを古典に近づけるのではなく、むしろ表現をエンターテイメントに近づけなくてはならないという逆の発想に辿り着きます。

古典をエンターテイメントで伝えるのではなく、むしろエンターテイメントが持つ何かを人々に伝えなくてはならない、少なくとも聖典や古典の普遍的価値を素朴に信じてはならないという考えに至ります。


この文脈におけるエンターテイメントを「現実(リアル)」と呼ぶことにしましょう。エンターテイメントが面白いのは、そこに文学的な意味での現実が含まれているからと考えるのです。


『ドン・キホーテ』に描かれているのは、この時代にはレコンキスタが終わっているという現実です。

そして、この世界には昔は素晴らしかったことだけど、今は必要とされていないことを今でも素晴らしいと信じている人が存在すること、すなわち観念論者が存在しているという現実です。

主人公であるドン・キホーテは悪い人ではありません。

彼は貴族の生まれであり、読書家で、行動力と不屈の意志を持ち、優しくて悪を憎む、つまり「良い人」です。

しかし、彼は「現実」が見えていないこと、その一点においてのみ迷惑な人となっています。

ある意味で、努力家であることが彼の欠点なのです。


以前、『ドン・キホーテ』を例にして演劇の、演じることの危険性というものについて触れました。

主人公のドン・キホーテは、まさにレコンキスタの騎士を演じることによって迷惑な人物になっています。

しかし、『ドン・キホーテ』を読めば明らかなように、問題は演じることではなくて迷惑な人物を演じることです。

むしろ、ドン・キホーテに欠けているのは演じることの過剰ではなくて、演じることの欠如です。彼は騎士道物語で頭がいっぱいになり、その場その場で適切な人物を演じることができないのです。

騎士を演じなくてはならないときにだけ騎士を演じる、それができればドン・キホーテは素晴らしい人です。

演じることのバリエーションを増やす。

そこにTRPGなどのロールプレイの本質があります。


私たちが表現をするときに、情報源は二つあります。聖典や古典や伝統という学ぶことにより身につけるもの、そして感覚の向こう側からやってくる聖典や古典や伝統という宗教以上の何かです。

こうして、リアリズムが始まります。


今日は以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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