
TRPG制作日記(155) 神曲
アメリカ合衆国と関係が深い日本の日本人にとって、キリスト教といえばプロテスタント長老派のみが正解で、カトリックやロシア正教会、イングランド国教会は存在していないも同様、もしかしたらプロテスタント福音派ですらカルト、エホバの証人や統一教会は、もはやキリスト教ではないという認識かもしれません。
しかし、仏教が浄土真宗だけではないように、キリスト教もプロテスタント長老派(カルヴァン主義)だけではありません。
しかも、調べてみればすぐに分かりますが、キリスト教で最大の信者数を抱えるのはカトリックであり、そして歴史を学ぶとキリスト教は、カトリックと正教会の二大勢力だった時代があります。
カトリックとは、どのようなキリスト教なのでしょう。
今日はダンテの『神曲』について書きたいと思います。
ダンテは西暦1265年のイタリアに生まれた、シェイクスピアよりも三百年ほど前の時代の詩人です。
この時代、そして今でもイタリアはカトリック、しかも1054年にローマ・カトリックとコンスタンチノープルを拠点とする正教会が大分裂してちょうど200年後に生まれました。
正教会の保護していた東ローマ帝国はまだ存在しており、正教会は今のロシアのように虐められるような存在ではありませんでした。
とはいえ、もともとはキリスト教正教会(オーソドックス)のほうがキリスト教の代表のような顔をしていましたが、そのような時代は過去になり、徐々にカトリックの力が増してローマ教皇こそがキリスト教の頂点という時代になってきています。
プロテスタントといえば、ご存じ個人主義。神と個人の直接的な関係を大切にします。正教会は教会を大切にしますが、どちらかといえば国ごとの教会が存在している感じです。
いっぽう、カトリックは日本のような宗教です。大組織万歳、神の目に見える顔であるローマ教皇を頂点にしたピラミッド組織で、教皇は神なので間違うことはなく、そして彼の言葉は神の言葉です。
聖書の言葉と教皇の言葉に違いが見られたときは、教皇の言葉が優先されるのは当然です。
なぜなら、聖書は神により書かれており、教皇は神の代弁者であり、作者の意見が作品の解釈に影響するのは当然のことだからです。
読者が大好きな小説の解釈を論じているときに、そこに作者がいて、私はそういうつもりで書いたわけではないと言われたら、誰がその意見に逆らうことができるでしょう。
作品と読者の間には、作者の解説が介在します。
それがカトリックです。
さて、十六世紀から始まる二回目のカトリックとプロテスタントの分裂と、一回目の正教会とカトリックの分裂のちょうど間に生まれたダンテは『神曲』と呼ばれる叙事詩を書きます。
神曲は地獄編、煉獄編、天国編と三つに分かれており、主人公は詩人と淑女ベアトリーチェに導かれて地獄から天国に昇っていきます。
カトリックの死後の世界では地獄、煉獄、天国と三つありますが、煉獄というのは聞き慣れない言葉かもしれません。
これは地獄と天国の間で、一般的には、死んだ者は生前の行いによって天国と地獄に行き、そして地獄に堕ちた者は永遠に地獄で、そして天国に昇った者は地獄に堕ちることはありません。
しかし、罪の軽い者は死後、天国に昇る機会を与えられます。
彼らが行く場所が煉獄です。
煉獄には、傲慢や嫉妬、暴食や愛欲など本能に負けてしまっただけのキリスト教徒、あるいは善人だったが哲学者やアジア人だった者など、キリスト教徒ではなかった人が含まれています。
地獄に堕ちたらおしまいですが、煉獄に行った人は頑張って天国に昇っていきます。基本的には、人は煉獄に行くようです。
ダンテも七つの大罪である高慢を犯しているので、死後は煉獄に行って頑張って天国に昇らないとなりません。
さて、宗教と文学は何が違うのでしょうか?
前回、演劇は教会と同じように共同体の場と書きました。テキストを持つことやイデオロギーを持つこと、そして共同体を育むことなど文学と宗教は共通点が少なくありません。
しかし、文学と宗教は決定的に違います。
たとえば、ある演劇の演者や小説家やTRPGプレイヤーが教会に行ってお祈りをしてキリスト教徒は最高だった、楽しかったので次は仏教徒を演じてみようとか友人と話しながら歩いていたら、その人はキリスト教徒でも仏教徒でもなくて不信仰者です。
また、ダンテのようにカトリック教徒でありながら、ローマ教皇を筆が踊るまま地獄に堕としていると、彼が神を愛してローマ教皇を尊敬していたとしても神の敵です。
ダンテは自分が嫌いな人たちを、間違っても天国に来ないように喜々として地獄に堕としています。
お供である詩人ウェルギリウスを含めて、煉獄とはダンテが尊敬して、そして愛する人が集まるところなのです。
究極の淑女ベアトリーチェを除いて、ダンテが愛する者達は天国ではなく煉獄にいます。
この発想が、そもそもキリスト教徒としては許されないことです。煉獄ではなくて天国を目指してほしいところです。
共同体があり、イデオロギーがあり、そして神を信じたり仏を信じたりしておきながらも、文学者が宗教者ではないことは明らかです。似ていても二つは同じではありません。
一点、分かりやすい違いは「演じる」ということに対して肯定的か、あるいは否定的なのかです。
私たちは必ず誰かを演じています。
親といるときは子どもを演じます。子どもといるときは親を演じます。友人といるときは友人を演じて、技術者として仕事をするときはただ技術者であるだけではなく技術者らしく振る舞います。
私たちは必ず何かを演じていて、その向こう側には何もありません。
しかし、宗教は演じるという人間の本質に対して否定的です。キリスト教徒であることはキリスト教徒になることでありキリスト教徒を演じることではありません。
私はキリスト教徒を演じていると考えている時点で、もはやその人はキリスト教徒ではないのです。
このように考えると、文学者は信者よりも誠実さに欠けた人に思えるかもしれませんが、そうではありません。
なぜなら、演じている自分を本当の自分だと考えているという点においてあらゆる宗教の信者達は誠実さが欠けているのです。
ハムレットを演じている人が自分を本当にハムレットだと思うことは、誠実ではありません。
誠実な態度とは、むしろ何かを演じていることを意識して、そして相手もそうであることを理解することです。
役者は役を演じています。
ダンテは、そして多くの小説家は神を演じています。
そして、TRPGプレイヤーはキャタクターを理解して、キャタクターを演じて楽しみます。
創作とは神を演じて、神を模倣することでもあります。
何を正しい生き方だと考えるのかにおいて、文学と宗教は異なっています。
キリスト教徒の次は仏教徒を演じようというのは、文学者にとっては視野を広げる向上心の表れなのです。
最後に、七つの大罪と聞くと漫画などの影響で大きな罪だと思われがちですが煉獄であることから分かるように、実際にはもっとも軽い罪、そして神が人間に与えた人間らしさそのものです。
七つの大罪は、他の罪とは異なり、人間が人間であるためには絶対に回避することができません。
怒りを感じ、人を愛して、そして好きな食べ物を見つけてしまうことは人間の重要な本質です。
そして、七つの大罪を犯した者は地獄ではなく煉獄へ行き、そして天国に昇ることが許されているのです。
今日は以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。