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経済と宗教、どちらが大切か? -衆議院選挙2021秋(2)-
旅人が砂漠をさまよっています。飢えと渇きに苦しみ、そして常に水のことを考えています。彼はありふれた、普通の人間です。死の危険を感じています。もし水をみつけることができなければ旅人は死んでしまうでしょう。歩いていると左にオアシスが、そして右にはダヴィンチの有名な絵画、モナリザがありました。
さて、この旅人はどうしたでしょうか?
まず間違いなく、モナリザに向けて駆けだしたでしょう。モナリザを抱いて死んだはずです。
このような話を書くと、一部の人は、いや、そこはオアシスだろうとか、この旅人は芸術が好きだったのだろうという話をするかもしれませんが、もしそのように思ってしまったのならあなたは知性と教養が高すぎます。しかし、同時に、人間のことをあまり理解していないのかもしれません。
確かに、モナリザを抱いて死ぬというのは珍しいですが、これが教会であれば誰もが納得するでしょう。
もし砂漠にオアシスと教会があり、教会を選ばない人が多いのであればそもそも宗教は生まれないのです。
第二次世界大戦、どれほどの日本人が日本のために戦ったでしょう。
私たちは生にしがみつくよりも、宗教や国家、思想に夢中になって自分の人生を投げ出したいという欲求があるように思えます。
誰もがただ生きることよりも、善く生きることが大切だと思っているというように思えます。
この問題に関して、ハリー・フレデリック・ハーローは猿を利用した実験を行いました。それまで、私たちは赤ちゃんは母親から乳をもらい、そして生存のために愛着を持つものだと信じていましたし、社会的な欲求は生物学的な欲求が満たされてはじめて生まれると信じていました。
しかし、現実世界を見ると明らかなように、私たちは生物学的な欲求よりも社会的な欲求を優先します。
宗教や思想団体が生まれるのはそのためです。
それだけではありません、私たちは選挙においても、自分の人生よりも宗教を優先する傾向があるように思えます。
砂漠でオアシスを選ぶことは、生物学的な欲求を大切にすることは教養と勇気がいることなのです。
マルキ・ド・サドは『ジュスチーヌまたは美徳の不幸』の冒頭で、哲学の目的とは自分のためにも他人のためにもならないキリスト教の倫理を、なぜ私たちが守らなくてはならないのかを明らかにすることだという趣旨のことを書いています。
彼は正しく生きることで暴力を受け、それでもイエス・キリストへの愛を忘れない少女を描きました。
サドの世界では、神は現実世界で少女を助けることはありません。
しかし、少女はそれでも神を愛することをやめません。なぜなら、彼女は真のキリスト者だからです。
どれほど苦しくても、彼女は盗みや殺人、姦淫を否定するのです。物質的な豊かさよりも精神的な豊かさが大切だからです。
しかし、ちょっと待ってください。
暴力に屈せず、自分の信仰を守り続ける聖女たちの生き方は、本当に正しいのでしょうか?
人間は神の御心を守るために生きているのでしょうか?
また、そもそも自己犠牲、信仰のために自分の人生を破滅させるような生き方は神の御心を守っているのでしょうか?
この問題に関して、倫理を逆から考える人々がいます。まずは自分の生活をきちんとしてから、そして宗教や文化活動、文学や芸術を楽しむべきだという考え方です。
私たちには家族や友人がいます。仕事があります。
そして、家族や友人を大切にして、仕事をこなして、自分たちの生活を整えてからそれ以上のことをするべきだという考えです。
家族を捨て、恋人を捨て、友人や仕事を捨てて、ただひたすら神に尽くす生活をせよというのは反社会的だという思想です。
むしろ、逆に、自分の人生の物質的豊かさを確保してから、それから精神的な豊かさを求めようという考えです。
このことから、政治への態度が二つに分かれることが予想されます。
一つ目は、政治に宗教を求める態度です。
私たちは身の削り、楽な人生よりも苦しい人生を楽しみ、そして手に入れた富をすべて神に献上する。
ただひたすら神道や仏教、儒教という日本の伝統を守るために、自分達の人生を捧げる。そのための政治であって欲しいという、ただ生きることよりも善く生きることが重要であるという立場です。
私たちのために日本があるのではなく、日本を守るために私たちは努力しなくてはならないという思想です。
いっぽう、逆に経済、あるいは科学を求める態度があります。
日本の科学技術を発展させて、そのことにより日本に多様な商品、豊かな生活を確保することを最優先にするべきだという考えです。
砂漠でオアシスとモナリザがあったら、オアシスを選べ。神社とオアシスがあってもオアシスを選べ。
オアシスに行ってから、それからモナリザでも神社でも行けばいい。それが正しい生き方なのだという立場です。
この立場には、もう一つポイントがあります。
それは神道は神社が、仏教は寺が、儒教は剣道や柔道、茶道などのそれぞれの団体が担うべきだという思想です。
つまり、国家が税金で特定の宗教に深く関わるなという思想です。
この考え方の要点は、日本には多様な宗教があるので、特定の神社をひいきするのは不公平であるということを示唆します。
それだけではなくて、日本の文化にはアニメや漫画、そしてデジタルゲームなどの豊かな文化があります。
これらも重要な日本の伝統を担っているのに、神道や仏教、儒教という伝統的宗教を上位において、それを国家が守るのは不公平ではないのか、という考えも含まれています。
国家は宗教や文化に関わるべきではなく、まさに社会が宗教や文化を担うべきだと考えます。
さらに、科学技術を発展させて、国民の生活を豊かにすれば、自然と日本人は神社や寺、そして儒教に基づく伝統的な文化に携われるようになるので日本文化が守られるという考え方もあります。
日本で剣道や日本画が衰退するのは、日本人が日本文化に興味を失ったからではなくて生活に余裕がなくなったからだという考えです。
だから、まずは物質的な豊かさを優先するべきだという考えです。
今回の衆議院選挙はとてもシンプルです。この二つの立場の片方が自由民主党であり、もう片方が日本共産党です。
そして、シンプルなほど二つの陣営に分かれています。
日本共産党はマルクス主義の系統に属します。
そして、マルクスとエンゲルスは少女をひたすら痛めつけてその美しさを際立たせようとするサディズムに否定的でした。イデオロギーから科学へ、という本をエンゲルスは書いています。
まずは生活、それから文化。
というのが、現代の共産主義の創始者であるマルクスとエンゲルスが考える人間の理想的な生き方です。
宗教や倫理よりも、経済と生活、科学を重要視します。
中国を見ていれば、良く分かります。科学立国中国です。
いっぽう、日本共産党とは逆の立場である自由民主党にもはっきりとした理念があります。
共産主義の否定、そして日本らしい日本の確立です。
逆に、日本共産党は、日本社会がそれぞれの段階で必要とすることを行うという理念があります。
片方は日本らしい日本の確立という宗教的目的を持ち、また片方は日本社会の問題を片っ端から潰していくという臨機応変さを大切にします。
10月31日に開催。
宗教対科学、
次はどちらが勝つのでしょうか?
楽しみです。
今日は以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。