『稼ぎ』と『仕事』

【稼ぎ】と【仕事】は違う、という捉え方がある。

あるHPからの一部抜粋。

『私が暮らす群馬県上野村では昔日から、「仕事」と「稼ぎ」は違うものだと考えられてきた。村に暮らす人間がおこなわなければならない営みを、村人は「仕事」と呼んできた。それに対して「稼ぎ」とは、村の営みとしてはしなくてもよいのだけれど、生活のために、つまり稼ぐためにおこなう労働をさしている。「さて仕事に行くか」と、「これから稼ぎに行く」といった感じで、村ではこの二つの言葉が日常のなかで使い分けられてきた。』
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-326.html

少し調べてみると、江戸時代でもこのような考え方をする庶民(特に職人の間で)は多かったようで、落語にすら残っている。

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 現代人である我々にも、このような捉え方は未だに有効な時があると思う。「仕事にやりがいを見つけろ!」と言われたサラリーマン時代が私にもあったが、ここで言う仕事は【稼ぎ】であり、やりがいが【仕事】に相当するものである。

 【仕事】というのは、昔の村やコミュニティでは、公共の水路を掘ったり、順繰りに皆の家の茅葺き屋根を葺き替えていったり、共同で橋を架けたりすること。
公共性というものを当たり前の事と認識しており、家族のためや地域の仲間たちのために労働力と心意気を持ち寄って初めて成り立つことであった。だから、個人の【稼ぎ】ために【仕事】を休む事などは考えもしないし、優先順位は明らかに【仕事】が上で【稼ぎ】はいつでも二の次だったであろう。

 【仕事】を行政サービスに仕立て上げてしまった現代(道路作りもゴミ捨ても公共建物も)では、それはまるで空気のように「あって当たり前」のようになり下がり、あるいは民間サービスであれば金を払えば必ず受けられるものとなり、『心意気』のようなものは必要とされなくなってしまった。それは、行政/民間サービスする側から見れば、ただの【稼ぎ】であり、【仕事】として想い入れる事は「やってもいいけど、その必要は無い」ことになってしまうのだから、当たり前と言えば当たり前。想いを込める、というコストをかけた分だけ損をしている、という議論も成り立つわけだ。

 しかし、ヒトというのは感情の動物でありかつ集団生活動物であるがゆえの性質、

『公共性に貢献したい心意気』

という本能を持ち合わせていると思えるフシが多くある。公共性に貢献する=何かに所属している(帰属)意識 が健全に得られて、集団的猿属としてはどうしても欲しい感覚である “安心” というものが得られるからではないだろうか。
 
 もしそうだとすると、現代人が多くの時間と労力を費やしている かつての【稼ぎ】にやりがいや意味を見いだそうとするのは、『心意気』込めようとする行為であり、かつての【稼ぎ】を「仕事」と呼んでしまうのは、ともすると個人的活動である【稼ぎ】だけにうつつを抜かしている自分への反抗や警鐘なのかもしれない。

 仕事についてもし悩みがあるのならば、まずは今就いている仕事が自分にとって【稼ぎ】なのか【仕事】なのかを自問自答してみるといいかもしれない。あるいは、今の仕事の何割が【稼ぎ】で何割が【仕事】だと捉えているのか、という視点で分析するのもパワフルだろう。今就いている仕事が100%【稼ぎ】であると分かって、どうしてもやり切れない気持ちがあるのなら【仕事】に相当する事を新たに始めたらいいだろう。

 なんにせよ、村的な共同体を離れ、核家族化2世3世の世代である我々には、そんなこと=【稼ぎ】と【仕事】の違いも曖昧なままでライフスタイルを決めている事自体が、言い知れぬ不安の一部を為している事に氣がついてみるのも悪くない。

もちろん、氣がついている人で不安な人もたくさん居るだろうが、それはそれでまた別のお話(笑)。

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