しなやか
先日Twitterのスペースでとても有意義な時間を過ごした。
Twitterで知り合って、よくお世話になっている詩人の高橋紋白(もんしろ)さんと、僕が長年付き合いのある声楽家の伊達路子さんとゆっくり会話を楽しんだ。
まず高橋さんに僕から「スペースで愛の話でもしましょう」とお声掛けをした。
高橋さんは、そういう突拍子もないことにもいつも快く乗ってくださる。
僕はだいたい日本時間土曜の22時にスペースを開いていることが多く、今回もまた土曜22時開始。
高橋さんとお話をするのは正月以来だったので、まずは近況などを話し、愛の話に流れて行った。
そうこうしているうちに路子さんも合流。
普段彼女はブルガリアに住んでいるが、今は夫と日本に滞在中で、彼女も日本から繋がる。
ニューヨークは朝、日本は深夜。
外の景色は違えど、同世代で今を共にする。
時間や空間の概念が分解してきている今日この頃。
また、「愛の話」と言っておきながら、住んでいる場所もやっていることもバラバラな3人だから、いろんな話題が飛び交う。
けれど視点はいつも愛に在る。
自然とそこにいられる人たち。
時折訪れる沈黙もまた心地良い。
クラリネット奏者のいびきの旋律を聴きながら(かわいかった 内輪ネタ)。
間(ま)に焦りで対応すると、最近あったどうでもいい話をしてしまいがちだけど、間にこそ心地良さを響かせると、ただ落ち着いてその時間を楽しむことができる。
みんなで話さなきゃに集中するのではなく、何にも話さず、その瞬間に共に在るというのは不思議な感覚で、何か壮大なことをやっているような気にもなってくる。
きっと周りからは器用に生きているように見えている3人だけれど、実は周りに合わせるのが全く得意ではないから、ああいった感じで何のプレッシャーも、遠慮もなく話したいことが話せるというのは本当に楽だなと思う。
僕がもっと若かった頃は、SNSがなかった。
その代わりにたわいもなく語る時間というものがあった。
その舞台は、カフェだったり、飲み屋だったり、深夜の公園だったり。
そこで未来のことを語ったりしたものだった。
落ち着いたしなやかな時間。
そういったことが、物理的に一緒にいなくても今できている。
年を重ねたらそういう時間は持てないだろうと当たり前のように思っていた。
現実を語ることが大人だと思っていたのだね。
僕も高橋さんも路子さんも、ある程度、現実や社会というものを経験してきた。
だからどのような自分で存在して、どのような時間を過ごしたいかにより意識的になっているのだろうと思う。
物理的には離れているが、みんな同じ場所に立っている感覚。
人生のタイミングが同じ人たちだから、今までのことをニュートラルに捉え、場の中にやわらかでポジティブな波を自然と広げられていたのだろうと思う。
機会があれば、このような場がまた作れたらと思う。
太陽
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