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間違いという種

先日、久しぶりに明らかに「間違った」という体験をした。
それほど大きなことではなかったけれど。

しかし以前だったら、焦って間違いを即修正するという姿勢を取っていただろう。
けれど今回はまず落ち着いてみた。
自分の中で何が起こっているのか観察してみた。

なぜにそれを僕は間違いだと認識しているか。
確かにそれは3次元的には明らかに間違いだけれど。
なぜ起こったことに反発するのか。
なぜ間違うことはいけないことだと思っているのか。

そして、ひとまず昼寝をした。

それを放ったらかしにしておいたら、自分の中でどのような反応が出るのか知りたかったから。
すぐに修正して、「ふぅ~、危なかった」みたいな、今までのようなスリルは味わわない。

ブルックリンから見たマンハッタン

僕は自分に対して寛容でありたいと思っている。
自分に寛容であれば、他にも同様に寛容であることができるから。

自分が間違うことに対して批判をしているのであれば、他が間違うことに対しても何らか批判をする。
だからまず自分の間違いを受け入れてみる。
批判しない。
いけないことであると反発しない。
突き放さない。
赦してみる。

世の中というものを見ていても、リスクを回避しようとしている人が多いように思う。
「間違わないように、間違わないように」と、間違わないことにエネルギーを注ぎながら生きている人は多いし、以前の僕もそのようにして生きていた気がする。

どうしてそんなにビクつきながら生きているんだろう?
大らかに生きたいんだろう?
だったら今そうなっていればいい。

夏の夕暮れ時  ブルックリンにて

自分に寛容になりたい人にとっては「間違い」は、実は大きな宝にもなり得る。
それがあるからこそ、また学び、より寛容さを享受できるから。

また、失敗から生み出された発明品も実はたくさんあって、私たちが現在日常的に使っているものの中にもそういったものは多くある。
だから広い視点に立てば、本当は間違いというものはない。
目の前の失敗や間違いに大袈裟に反応する必要もない。
それらを材料にして、私たちは新しいものを創造することが可能だから。

ただ、この2限の世界では間違いという概念がある。
だからまずは認めること。
焦って取り繕おうとしないこと。
そうすれば、それは自分にとっての新しい種になる。

その種を残念に思ったり、切り捨てようとするのをやめて、やさしさでその種を見守り育てるような姿勢で在りたいなと思う。

太陽

あとがき
今朝は随分涼しい朝だった。
夏真っ盛りも少し落ち着いてきた感じがある。
だいたい8月中旬にもなるとニューヨークは徐々に秋めいてくる。
今回の写真は、夏の夕暮れ時のものを。
風や気持ちの良い空気感を感じていただければ。


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