感想『カナリヤ』-あなたと向き合い受け入れるということ-

前置き

前回の『カムパネルラ』の感想に引き続き、米津玄師のアルバム『STRAY SHEEP』を噛みしめてゆきます。今回は『カナリヤ』について。歌詞の解説なんておこがましいことはできないので、今回も曲を聴いての所感や考えたことを書きます。

前回の記事はこちら

参考は以下です。(歌詞カードが手元にない人用に歌詞のリンクも貼っておきます)

「あなた」と向き合うということ

「好きな人の好みは?」「 好きになった人が好みだ」
そう答えるようになったのは中学生だった頃からだろうか。人を属性や性質で分類化する見方が嫌だった。「***さんって~だよね」と言われるのが、自分という複雑な人格の一部分だけを見て類型化されるのが嫌だった。
よく私は人物の認識を薬棚に例えるのだけど、人はよく引き出しのラベルには「クラスメイト」「苦手な人」のような属性や性質が書いて、その各引き出しの中に人の名前の書いてある札をしまってしまいがちだ。でも私は「引き出しのラベルには私の名前を書いておいてその中に「真面目」だとか「頑固」だとかいった性質の札をいれてほしい」と、親しい人などにはよくそんな話をした。
性質Aを持っているところの私が好きなら、私が性質Aを失ったら好きではないということで、さらには性質Aを持っていれば私である必要もないということだろうと。そんな関係はほしくない。私という人物そのものと向きあって、私の新たな側面が見える度に性質の札を出し入れして、そうしあって関係を構築してゆきたいのだと。

あなたも わたしも 変わってしまうでしょう
時には諍い 傷つけ合うでしょう
見失うそのたびに恋をして
確かめ合いたい

この一節には私の欲しかった関係が見事に表現されていた。
そうだ、引き出しに入るのは必ずしも好ましいものばかりではないだろう。それでもそれも込みでの「あなた」として受け入れてもらえるのなら、それは他の誰とも成立し得ない唯一無二の「わたし」と「あなた」の関係だ。
相手と真に向き合ったその関係を、わたしは本当に美しいと思う。

ひとりひとりをひとりひとりとして遍く肯定するための全身全霊の配慮

あなたとなら いいよ
歩いていこう 最後まで

インタビューにて米津玄師は「今の苦しみに喘いでいる人たちに対してできることは、その人たちに「この世に生きていても大丈夫だよ」というメッセージを込めた」「変わっていくことを肯定したいという思いがすごく大きかった」と語っているが、人々の変化を肯定する言葉として、この曲を耳にする様々な人ひとりひとりをひとりひとりとして遍く肯定する言葉として「あなただから いいよ」という言葉のチョイスは本当に秀逸だと思う。
漠然と「誰だって、生きていていいんだよ」と言われても詭弁にしか聞こえない。けれどひとりひとりの顔を見たように「あなただから いいよ」なんて言われたら、寄り添うように「歩いていこう最後まで」なんて誘われたなら、生きてみても良いのかもしれないと思えてきてしまう。

この曲は誰もを傷つけずに優しく包むために、米津玄師なりの最大限の配慮というか、思いやりが至るところに込められているように感じる。私には音楽の専門的な良くはわからないし、曲を作った本人でないから確かなことは言えないけれど…緩やかに心を安らがせる旋律に、いつもならあえて入れる汚しの音もいれないで、だれも傷つかないようにそっと寄り添うように慎重に歌詞の一つ一つの言葉を選んで…曲のあらゆるところが全力でもって「あなたを肯定する」というメッセージを伝えてくるように作られている、と感じる。
自分の伝えたいメッセージを最も美しい形で表現し、確実に相手に届ける事ができるのだから、米津玄師という音楽家は本当に職人だと改めて思う。
果たしてこの曲を聴いて心が救われる人が一体何人いるだろうか。そんな人がきっと何人も何人もいるに違いないと私は確信している。

やはり『STRAY SHEEP』というアルバムは美しい作品だと思う

前回の記事で書いたことだが『STRAY SHEEP』というアルバムは死者への祈りから始まる。そしてアルバムの最後に込められたのはすべての生きる人を肯定する全身全霊を込めたメッセージだ。
細かいことは言わない。私の心がそう感じるからそう言おう。『STRAY SHEEP』というこのアルバムは、2020年という時に米津玄師が出すアルバムとして本当に美しい作品だ。

この記事を読んでいる人達は、きっと『STRAY SHEEP』を既に聴いた人たちが多いだろうけれど、そしてひとりひとりがそれぞれにいろんなことを感じたのだろうけれど…
どうかこれから新たに『STRAY SHEEP』を聴く誰かが、その人なりの気付きや救いを得られますように。この作品が誰かの希望の種になりますように…