君をパートナーに選んだ理由-あなたじゃなくていい-

前回書いた米津玄師『カナリヤ』の感想で書ききれなかったことを一つ書こうと思う(前回記事はこちら
『カナリヤ』の歌詞についてインタビューで「あなただから いいよ」の部分は本当は「あなたじゃなくてもいいよ」だったという話あった。それを聞いて思い出した、僕の「あなたじゃなくてもいいよ」にまつわる話である。
僕には今、生涯を共に生きると心に決めたパートナーがいるのだけれど、その人をパートナーに選んだ理由の一つに「あなたじゃなくてもいいよ」が関わってくるのである。

選んだのは「あなたでなくていい」ひと

大学時代、僕には親友と呼べる人が何人かいた。その中のひとり(仮にAさんとしようか)は「あなたでなければ駄目だ」というほどに僕以外の誰にも心を開けない人だった。別のひとり(Bさん)は人当たりのいい人で僕以外にも何人か心を開ける人がいて、共に生活することができるだろう人にも何人か心当たりがある人だった。どちらも僕にとっては大事な人で、幸せになってほしいし、幸せにしたい存在だったけれど、僕はこの二人親友のうちのどちらかをパートナーに選んだ。
そう、タイトルの通り「あなたでなければいけない」Aさんではなく「あなたじゃなくていい」Bさんを僕は選んだのだ。もちろんこれはパートナーを選ぶ数ある理由のうちの一部でしかないけれど、けれど僕は確かに「あなたじゃなくていい」ひとだからBさんを選んだ。

もしもプロポーズの言葉が「あなたじゃなくてもいいのだけど結婚しよう」だったとしたら、こんなに不自然で心ときめかない言葉はない。「あなたしかいない、あなたじゃなければ駄目なんだ、結婚しよう」この方がずっと心惹かれる甘美な言葉だろう。
「けれども僕はあなたじゃなくていいを選んだよ。」それだけ聞いたら誰だってなぜだと疑問に思うだろう。けれどそこには、僕なりの理由が2つある。1つは「その後続いていくだろうBさんとの関係を美しいと思ったから」もう1つは「Bさんのその決意を美しいと思ったから」だ。

その関係が美しいと思った

Bさんは「あなたじゃなくてもいい」ひとで、僕も(Aさんを引き合いに出しているのだからお察しだけれども)自分は「あなたじゃなくてもいい」ひとなのだと思っている。お互い「あなたじゃなくていい」ひとだから、二人の関係が良好であり続けることは容易ではない。パートナーとしては替えのきいてしまう互いがかけがえのない存在同士であり続けるには、互いの弛まぬ努力が必要に違いないことはわかっていた。でも、だから良かった。

家族という存在は料理に例えるならば味噌汁だと思っている。ケーキのような特別な存在ではなくて日常の存在。けれどその一方で、パートナーとは最も近い他人だとも思っている。普段は自分のそばにいることが当然のような存在だが、元は他人同士がくっついた仲だ。パートナーが僕の日常であることは当然のことではない。
そう考えているからこそだ。「あなたじゃなくてもいい」互いだからこそ、日常のありがたみを忘れることは無いだろう。それに二人がずっとかけがえのない存在同士であれたのならば、それは互いが弛まぬ努力を続けている何よりの証拠だ。互いが大事であり続けるために、互いを思い尊重し合える関係だ。それってすごく美しい関係だと僕は思う。
そして、その関係をBさんとならきっと実現し続けてゆけるだろうと思えた。だから僕はBさんをパートナーに選んだ。

その決意が美しいと思った

僕がBさんを選んだように、Bさんもまた僕を選んでくれたから僕らはパートナーであるわけだけれど、Bさんが僕をパートナーにすると決めたあの時、僕はその決意を美しいと思った。
Bさんは「あなたでなくていい」ひとだから、他の誰かとパートナーになることもあっただろう。なのにBさんは他の誰でもなく僕とパートナーになることを選んでくれた。Aさんにはこれはできない。Aさんは「あなたでなければいけない」人だからそもそも選択肢が僕しかない。<選ぶ>ことができない。Bさんはいくつもある選択肢から僕を選んでくれた。だからこの思いは本当に有り難いものなのだと思った。
そして同時に儚いものだとも思った。もし僕が手を握り返していなかったら、きっとBさんは他の誰かと歩む未来を探しただろうことは容易に想像ができた。この思いは今この時にしかない儚いもので、けれどもBさんはこれで、これから過ごす何十年という時を前述の通りあれだけの労力を尽くしてまで人生をともにする相方として僕を選ぶ決意をしたのだ…そう考えるとBさんのその覚悟はその感情は儚いけれどもとても美しいと思った。
だからだ。それだけ稀有で儚く美しい思いに応えて、この人と美しい関係築いてゆきたいと思ったのだ。

あなたじゃなくていい がいい

Bさんであるところの僕のパートナーは、結局のところは選択をしてくれたわけで、つまりは「あなたじゃなくていいけど、あなたがいいのだ」と言ってくれていたわけである。これまで話せば何故と問う人はだいぶ少なくなるだろうけれど、「なんだ、結局「あなたがいい」がいいのか」とまとめられては困る。「あなたじゃなくていいけど、」がなくては困る。
選び・選び続けているからこそ、この関係は美しいのだ。日常になりきってしまったあなたではなく、日常になってなお変化し続ける一個人であるあなたとと向き合い続けられている関係が、僕は欲しかったのだから。