1989年大河「春日局」vol.4 太陽!ゲスト女優番外編002大原麗子
vol.4
✅産まれながらの将軍家光。
しかしながら、
◆父の秀忠を次第に忌み嫌うようになる。
自分の名前は、大御所家康から諱を戴いており、
父(秀忠)からは戴いてはおりません、と。
これは「徳川三代」での家光の台詞です。
◆実は?家光の光は、光秀の光を戴いているのではと?
そんな歴史家もいる。
徳川家光(とくがわ いえみつ)
(竹千代→徳川家光)
演:江口洋介
(幼少〜少年期:井手麻衣人→比嘉武尊→伊藤淳史→舘坂優→大沢健)
秀忠・お江与の長男。幼名は竹千代(たけちよ)。
長じて三代め征夷大将軍となる。
おふくの養育の影響もあり、少年期は
大坂の陣について堂々と父に意見する。
聡明さを伺わせていたが、長じるにつれ城を密かに抜け出して
遊興にふけるなど素行の乱れが生じる。
おふくや土井利勝を悩ませることになる。
吉原の遊女・紫との悲恋の影響で
女性に屈折した感情を抱くようになる。
◆ここから女嫌いとなって、男色傾向に走る
※江口洋介は、太陽にほえろ!後番組の
「ジャングル」の次「NEWジャングル」で
新人刑事を演じています。当時新人俳優。
芸能界デビュー作品です。
◆ある事件で、家光は一切女に興味を持たなくなり、
男色傾向に走った将軍である。春日局は、
女に興味を持つように努力をしていく。
この事が大奥誕生の背景に繋がる。
この事件は、後の大河ドラマ「葵徳川三代」で
詳細に描かれた。「春日局」では描かれていない。
家光はお江の侍女。古五(こご)に乱暴を働く。
竹千代に乱暴され子を孕んだと古五は訴えるが、
お福の計らいにより伊丹権六(いたみ ごんろく)が
身代わりになり磔にされた。その後に、
古五も密通の罪で首を刎ねられた。
訴えた侍女も殺されたのだ。
青山忠俊とお福の調査で、
決定した事は、家光の小姓の伊丹権六が
「お前が身代わりになれ」と。
お福は、「それが家臣の務め」だと。
これは「春日局」では描かれていないが、
「葵 徳川三代」では詳細に描かれた。
これは史実である。
身代わりの家臣を処刑され、古五(こご)も
母親ともども始末された少年竹千代は、
衝撃を受け、
それ以降女性と距離を置くようになった。
✅三代家光を取り巻く女たち
鷹司孝子(たかつかさ たかこ)
演:中田喜子 ★
京都から迎えた家光の正室。
家光の意向により、
半ば別居に近い生活を余儀なくされる。
しかし孝子は家光に対し不快感を示すことはなく、
むしろ家光の心情を重んじている。
また幕府側と自分との間に立つおふくを気遣い、
おふくも亡くなるまで孝子を御台として尊重していた。
◆上記古五(こご)事件のトラウマが残り、
しかし、孝子は夫婦でありながら、
一切男女の睦み合いを家光は拒み、
二人の間には子は出来なかった。
この事は、春日局も心を相当痛めていく。
乳母の立場と家光を次期将軍にする
家康からの命との狭間で、かなり悩み続ける。
古五(こご)事件、で検索しても
何も出て来ません。念のため。
お楽(おらく)
演:若村麻由美
家光の側室。家光がかつて恋した遊女・紫に生き写しの
面影を持つ。
江戸市中の市で売り子をしていたところをおふくに見出され、
江戸城に上がる。やっと家光との間に嫡男・竹千代を儲けるが、
おふくによって我が子と引き離される。
◆竹千代は、徳川家の嫡男として
産まれた男子の幼名。だから家康も、家光も
幼名は同じ「竹千代」である。上記は
第四代将軍 徳川家綱を指している。
勿論元服してからの名前。
◆若村麻由美は涙ながらにお福(大原麗子)に訴えるのは名シーン。何故、我が子にお乳を飲ませてはいけないの!?
泣いても突き放すお福。乳は乳母の役目だと。
奥のしきたりを身をもって訓える大原麗子。
例外は絶対認めない。泣いて自分の乳を搾り出す楽。
奥のルールを自分が決めた以上は従って貰うと。
お振(おふり)
演:森山祐子
家光の側室。
◆振は春日局の養女として大奥に入り、寛永13年(1636年)、
家光の手がついて初めての側室となる。
これは、家光が男色を好み女性を近づけないため、
跡継ぎが生まれないことを懸念した春日局と祖心尼が、
振を男装させて近づけたといわれている。
Wikipediaでは、
五郎太丸(ごろうたまる)演:内大輔
長福丸(ながとみまる)演:本田太郎
和姫(かずひめ)演:亀井亜由里
と記載だが、
→和姫は誤り。
◆秀忠の娘と混同してはいませんか?
◆五郎太丸は、徳川 義直(とくがわ よしなお)である。
尾張名古屋藩の初代藩主。尾張徳川家の祖。
◆長福丸は、ながとみまる、と読む。
福をとみ、と読ませる。
徳川 頼宣(とくがわ よりのぶ)の事。
は、紀伊和歌山藩の初代藩主。紀伊徳川家の祖。
◆Wikipedia表記では和姫となっているが、
誤りである。恐らく転記ミス、またはリンクミス。
正しくは、千代姫。
寛永14年(1637年)閏3月5日、
家光にとって初めての子である長女・千代姫を産む。
その後体調を崩し、お振は、
3年後の寛永17年(1640年)8月21日に死去した。
お振は、千代姫(尾張藩主徳川光友正室)の生母。
この千代はかなり豪気な女性だったらしい。
この徳川光友の息子が、八代将軍となる
徳川吉宗である。しかし、母親は千代姫ではない。
◆尚、千代姫は、寛永14年(1637年)閏3月5日に誕生、
同年7月16日に宮参りを行い、天海により「千代姫君」と命名。
この天海は南光坊(なんこうぼう)の尊号を持ち、
天台宗の坊さん。これが、実は明智光秀だったとも言われる。
となると、光秀は生きていたことになる。
vol.5 次回は家康の子供たち。秀忠の弟妹。