ひのもと歴史蘊蓄ばなしI◎本能寺の変★日付の裏に隠された真相
光秀は何故(なにゆえ)に6/2を
本能寺討入り(襲撃日)に選んだのか?
姫洲和彰流。
誰もあまり注目しない、
①「本能寺の変★日付の裏の真相」
②更には光秀には黒幕は居なかった!
これは実は2019年に私が出した結論です。
これを終え、
太陽にほえろ!マカロニ時代残りに戻ります。
マカロニ時代★★秀作四編(内一編は紹介済)
マカロニ時代★★★優秀作五編
マカロニを語るのに外せない🟢🟢四編
最後に、
マカロニ時代★★★★最優秀作品一編
と続けます。
太陽にほえろ!から一旦離れ、
「日の本歴史蘊蓄ばなしI」として
姫洲和彰の
【本能寺の変★日付の裏に隠された真相】を
お話ししておきたい。
春日局。お福ちゃんの父、斎藤利三の主君の
明智光秀が起こした一世一代の襲撃事件。
この事件が起きた
天正10年旧暦6月2日(1582年)の謎。
そもそも光秀は何故に6/2を襲撃日に
選んだのか?➡︎たまたまでは無かった?
じつは、いつかは討たなければならない。あやつを。
しかしながら、
6/1では早過ぎる、6/3では遅すぎる、のでは
なかったのか?
これが、討ち入りの本当の理由ではないか?
光秀の心の内を覗いてみたい。
少しずつ一から十に分けて。
一、
天正10年、1582年6月2日、
本能寺の変の際、
信長は、実は光秀軍から逃れ、当該場所に
イエズス会を頼って落ち延びようとした、
と伝えられる。
(但し 真実は謎に包まれている)
ニ、
本来ならば 信長はイエズス会の助けで、
堀川を舟で大坂に逃れようとしていたと、
と言う推理を唱える人もある。
即ち、信長は早い時点で逃亡を企てた。
だからこそ 光秀隊が突入した時、
姿が見当たらなかった。
その証言をしている史料も 現存している。
三、
もしくは、このイエズス会に通じる
狭い洞穴の地下路を通って、
その中で イエズス会が仕掛けた爆薬で爆死した とも。
・・・そう仰る一部の推理家もある。
イエズス会は硝石の輸入で
裏で暴利を得ていた事実がある。
神や天皇を超えようとしていた事に怒った
イエズス会が信長を抹殺したという説
の、裏付けである。
だからこそ
信長の遺体が 本能寺で発見されないまま
だったのではないか?
爆死したとなると?
四、
さらには光秀自身は、
実は本能寺には 行っていないという、
最近の研究も発表されて 新史料も出てきた。
光秀隊は二手に分かれ、光秀自身は南の、
今の京都市南区上鳥羽あたりに
嫡男の逃亡を阻止しようと待っていた?
との推論が 2020年秋に出されて
新聞発表された。
(※全国紙ではなく、京都新聞?)
また、歴史家小和田哲男氏のYouTubeの
「小和田チャンネル」でも公表されました。
戦国小和田チャンネル
五、
そもそも、前日から 降り続いた雨の中、
光秀軍一万三千人の軍隊が、
当時は橋が無く、雨で嵩が高くなっていた
桂川をどうやって渡ったのか?
一人あたり 当世具足30から40kgを身につけて。
短時間で渡るのは、無理ではないか?
・・過去に実際に 検証してみたドキュメンタリー番組も
あった。
・・実際には難しいというのが、結論だったと記憶している。
六、
また、映画やテレビドラマであるような、
早暁の討ち入りは無かったのではないか?
これは 後世の創作 としか言えないのではないか?
七、
討ち入りに同行した家来の
本城 惣右衛門(ほんじょう そうえもん)の覚書 。
彼は、変が終わって凡そ60年過ぎて、
80-90歳の頃に、この手記を纏めている。
60年も前にあった本能寺の変を
思い出して書けるのでしょうか?
・・皆様は如何ですか?
60年前の事が手記に纏められますか?
それに、旧暦の6月2日は、
現在の7月15日前後頃であり、
早暁というならば、
あたりは凄く明るかった筈だ。
夏の真盛りでクーラーも扇風機もなかった時代。
暑くて仕方なく涼を求めて、
外に出てくるのが自然だ。
また1万3千の歩兵隊の足音と馬の嘶き(いななき)で、
信長はおろか 周囲の同行した雑兵達も
事前にその騒めきに気づいているはずなのに。
そうではない?のか。
こうなると、
本能寺の変が起きた事に相違はないだろうが、
もう少し、当時の状況に疑いの目を持ち、
もっと再度検証の必要があるのでは?
史料が残っていないから、仕方ないかも知れない。が。
八、
信長の遺体が、現場で見つからなかった事が、
そもそもこれが、疑いの出発点でありはしないか?
また、本城 惣右衛門たちも、「殆ど誰も人は居なかった」
と手記では書き記されている。
一方、信長の首塚が、何故
現在の 富士山の麓 にあるのか?
ある僧が 信長の首を持ち去ったと言う 言い伝えもある。
九、
光秀が討ち入りした、この六月二日、そのものに
皆があまり知られていない、裏に隠された謎が
あるのではないか?
光秀は何故この日を選んだか?
(※これが、私の着眼点です)
(調べてみようと思った、私の動機です)
ここからは歴史家 呉座勇一氏と
同じ記述と些(いささ)かも変わりません。
光秀にとっては、
何としてでも、六月二日までに
信長のみならず、嫡男信忠をも
葬らなければならなかった、のではないか。
しかも同時に。
片方では意味がない。それは何故か?
信長が計画したある事を
どうしても阻止しなければならなかった、からだ。
しかし、
なかなか 信長、信忠が一緒に葬れる場所がない。
同時に二人がいる場所も、事前に把握が難しい。
だが、あることで、
光秀が直前に把握した事に狂いが生じた。
光秀の思惑の中で、全く予定に無かったことが
起きてしまった。
🟣信忠のスケジュール日程 が
突然に、変更されたのだ。
これは【千載一遇】!
光秀にとってチャンスが一気に高まった。
↑この部分は、事前に光秀が計画して出来るものではないのだ。
↑だからこそ、これは、
光秀が単独で行った、
当初から考えていた「信長の 暗殺(殺人)計画」
とは、言えなくなる。
黒幕と相談、談合することも
周囲の状況下で出来なかったのだろう。
🟣(私は、黒幕はいなかったと言える・・)
私はそう思う。
光秀からすると、
考えてもみなかった、突然に巡って来た。
このチャンスを逃すと、
また光秀が慈しんだ領民は 惑うばかりと
判断したのだろう。
何故なら京都丹波は信長から頂いて、
慈しんだ領地なのだから。
◎六月二日に 信長親子は
何を起こそうとしていたのか?
また、光秀は、事前にそれを信長から知らされていた筈。
光秀にとっては親戚となる、
ある人間と一族を救出せんがため、
それを守ろうとした、と、私は推理している。
★信長の命により、
その一族「殲滅作戦部隊」の出発日が
六月二日と予定 されていたからだ。
また、その部隊の責任者が、嫡男信忠であった。
しかしながら、
突然の信忠自身の勝手な予定変更で、
二人同時に討ち取れる可能性が生まれた。
信長も、前日になり
持参した茶器を披露するため、本能寺に宿泊すると言う。
その情報を得た信忠も、信長に挨拶をしたいと、
堺から本能寺へ。(この頃には織田家を嫡男信忠に譲っていた)
・・これが変更された予定。
光秀にとってみれば、
これは、二人を同時に抹殺出来る
願ってもないチャンス!
先程も申しましたように、
光秀が事前に計画できるわけがない。
全く光秀にとっても
全く予想外の偶発的な出来事だった。
一方で、邪魔な秀吉は近くにはいない。
これが出来るのは自分しかない。
今しかない!
光秀が、信長にもう付いていけないと
自心の中で確信を得たのは、
事前の同年5/17日だったのだろう。
(変の二週間前・・)
家康の饗応(5/15→17)を解任され、
皆の前で罵られた時。
光秀には何の落ち度も無かったのに・・・
と思える。
しかし、それでも我慢の光秀は、
同時に自分の領地丹波も取り上げられ、
秀吉の援軍の命をうけ、
さらに迷いに迷ったのだろう。
本当にどうするか?
信長からしてみれば、
領地を取りあげたら、あの超真面目な光秀は
死に物狂いで、攻めるだろう。
との目論見があったろう。
中国攻めから、秀吉とともに、
そのまま唐(から)入りさせれば、
日本にそう簡単には戻ってこれない・・・と。
信長自身は、いつかは、唐の国で
「野垂れ死に」してくれればいい・・と
考えていたのだろう。
用済みの家臣はさっさと死ね。と
信長はお前は最早不要だ。
お前がいたら丹波は
嫡男信忠に任そうとしているのに、
光秀お前が、信忠相手になんやかやと
口出しして来よる。
光秀からすると、愛妻がいない今、
幼い子供たちは誰が面倒をみるのか。
上記のように、唐入りさせられれば、
本当に日本に戻ってこれない・・・。
どちらにしても、今の光秀にとってみれば、
中国地方へ援軍していれば、
6/2には自分が間に合わなくなってしまう。
他方で、予定された6/2の信忠の四国への出陣は、
何としてでも止めないといけない。
だからこそ、自分が立ち上がらないと・・・・
光秀はこの時、
信長と信忠の二人の打倒を
決めたと思われる。
一方で、
皆が知っている言葉。
光秀は、敵は本能寺!と言ったと言う。
しかし、本当にそう言ったであろうか?
この言葉の裏には、家臣の前で
敵は信長、信忠!とは言えなかった。
はっきり明言できなかったのではあるまいか?
自軍に敵の間者(スパイ)が
潜んでいるかもしれない。
二人の主君が敵だと、
五宿老には伝えていただろうが。
馬上で光秀がそう言ったかは、
これも謎である。誰も聞いてはいないだろう。
コレも後世の逸話であろう。
兎に角、前日(6/1)に
本拠の亀岡を出立したのだろう。
西、東の分岐点の老ノ坂で、
日付が変わった6/2に
家臣達に攻撃目標地点、本能寺を伝達した。
やはり、
秀吉の援軍に行っている場合ではない。
西に向かおうとする全軍を、
東に(本能寺に)向けさせた。
降り出した雨の中を。・・
これが本音だったと推察する。
・・どんな予定だったのかは、
・・誰を助けようと思ったのか?は・
ネットでご自身で調べてください。
・・検索キーワードは、
徳川家康
堺見物
織田信忠
長宗我部元親です。
また、
長宗我部氏と
石谷(いしがい)氏と
斎藤利三と
光秀が
この四家は縁戚関係であった。
いしたに、ではありません。
※石谷(いしがい)家文書・・
参考になさって下さい。
だからこそ、
光秀は放っては置けなかったのだ。
自分を頼って、信長との関係修復を請いてきた
長宗我部氏を、男光秀は、裏切ることは、
どうしても出来なかったのだ。
現代からみたら、
珍しく 男気(おとこぎ)のあった武将
だったと思う。
十、
本能寺の変には、黒幕は一切存在しない。
さらに言うと黒幕と談合している時間、
打ち合わせの文(手紙)。
そういう暇も余裕もなかった筈。光秀には。
(これまで色々と推論されてはいるが、
私は 黒幕の存在は一切なかったと確信したい。)
黒幕がいたとすると、
かなり以前から計画されていた殺人となるが、
そうではないと考える。
光秀は黒幕と思しき人と談合した形跡が、
一切ないからだ。
もう、誰彼と
相談することも無くなっていたのではないか?
全く光秀は、孤独だったのだ。
相談していると「謀反」を疑われる。
一番心の中を打ち明けられる愛妻も母も、
もう居ない。
本能寺の変、以前に妻ひろ子は
もう既に死んでいた事実が、
2019年に発表されましたね。
ひろ子の位牌が見つかったからだ。
妻の葬儀を光秀が挙行したこと。
当時、戦国武将は、本妻でさえ、
葬儀はしないのが通例である。
相談できるのは、
自分を信じ付いて来てくれる家臣だけ。
しかし、家臣もいまは信用出来ない。
一気呵成で、
決行直前に打ち明けたのではないか?
私は、以上の観点から
光秀単独による 天のみが味方した、
全く偶発的な「切羽詰まった犯行」だと。
そうとしか思えない。
↑上記の 直前の信忠のスケジュール変更は、
誰にも見抜けないこと↑↑
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