春日局の当時の権勢が四人の男の死を齎(もたら)した事件。寛永5年「豊島事件」
春日局。血生臭い特別エピソード編として、
少し追加して
お話しておきたい事があります。
皆様。日本人なら誰でもご存知の事件。
1701年。
浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が
吉良上野介(きらこうずけのすけ)に斬りかかった、
松の廊下の刃傷沙汰。
実は
この事件の73年前に。
同じ江戸城内で。
日本初の刃傷事件があったのです。
この事件の原因になったのが、お福ちゃん。
春日局である。
春日局拝領する一年前。お福が50歳の時。
寛永5年(1628)8月に起こった豊島信満事件。
首謀者の名前が、
(とよしま のぶみつ)と読みます。
西の丸廊下で起きました。
旗本だった豊島信満は、自身が口利きして
まとめた井上正就の嫡子の縁談を、
正就から
「あの縁談はなかったことにして欲しい」と
突然の申し出に憤慨し、正就に斬りかかった。
井上正就(いのうえ まさなり)は、
譜代大名、江戸幕府老中。
Wikipedia解説↓
詳細はこちらを読んでください。
元和8年(1622年)、5万2,500石をもって
横須賀藩主となる。
この頃より江戸幕府老中職につく。
旗本で幕府目付・豊島信満は、井上正就の嫡子・正利と
大坂町奉行・島田直時の娘とを縁組し、
仲人を務めることに約定していた。
しかし、当時権勢並びなき春日局が
正就に鳥居成次の娘と縁組みするように
持ちかけ、正就は直時との縁組みを破談した。
仲人としての面目が丸潰れとなった
ことを恨んだ信満は、寛永5年(1628年)
8月10日、登城した江戸城西の丸廊下で
行き会った正就に対し
「武士に二言は無い」と叫んで脇差で斬りつけ、
井上正就は殺害された。
番士の青木義精が信満を羽交い締めにして
取り押さえたが、信満は脇差を
自分の腹に刺し貫いた。
脇差は羽交い締めにした義精にまで達し、
結果、正就と信満、
それに巻き添えを食った義精が絶命した。
井上家はお咎めなしで
正利へのお家相続が認められた。
豊島家は老中酒井忠勝の配慮により、
信満の嫡子・継重の切腹と
御家断絶の処分のみが下り、
他の一族への連座はなかった。
大坂町奉行島田直時は
この事件への責任を感じて自害した。
◆武士の子は、親がやった事の責任を
死を以て償わされるのです。
お家断絶に繋がるひとつの事例です。
この時、息子は12歳くらいだった?
上記の切腹画像は、
葵 徳川三代で放映された時のもの。
父の豊島信満は、実際にはいない。
江戸城の廊下で刺し殺されている。言わば自害。
その腹を貫いて、青木義精を刺し殺した。
切腹は12歳の息子のみだった。
◆春日局も、事情聴取を受けるが、
家光からはお咎めなし。
良かれと思って薦めた縁談話が、
春日局の権勢に翻弄され、武士の面目が、
三人の、いや12歳ほどで切腹させられた息子
まで、計四人の生命が絶たれたのだ。
江戸城内で起きた初の陰惨な事件でした。
◆春日局の顔色を常に見ていないと、
男でも江戸城での自分の出世が望めなかった事が
理解出来る事件だったのだ。
この一件を見ても、
春日局の権勢権力が当時では江戸城内の下々まで
及んでいた事が分かるのです。
大河「春日局」では放映されませんでしたが、
「葵 徳川三代」では放映されました。
放映は最後の方のエピソードで、確かに放映されました。
一介の旗本が幕府老中に斬りつけ殺した事は重大。
また江戸城での刃傷沙汰は、その後
あと五回繰り返されます。
そのひとつが、
有名な「松の廊下の刃傷沙汰」です。
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