見出し画像

PRESIDENT Onlineより 我の2年から3年まえの確推論と、同じではないか?やはり、これやねん!?


特に、最近の
PRESIDENTに
掲載された記事は、我の2年から3年前
の確推論と、同じではないか?
やはり、これやねん!?
これしか、光秀の心を射抜いているものは。

↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓

2024年9月30日 08:00
PRESIDENT Online

「信長への怨恨」でも

「黒幕がいた」でもない…


最新研究でわかった
明智光秀が 
本能寺の変を起こした本当の訳

なぜ明智光秀は
主君・織田信長を討ったのか。
歴史評論家の香原斗志さんは

「きっかけは
 織田信長による
 突然の四国政策の変更だった」という―。

本能寺の変の原因は「明智光秀の怨恨」ではない

土佐国(高知県)の豪族から
身を起こして急速に勢力を拡大し、
四国をほぼ統一した戦国武将が
長宗我部元親である。

その快進撃を、
所詮は四国ローカルの話だと
思う人が多いかもしれない。

明智光秀像(本徳寺)
(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons)

ところが、
元親は戦国から天下統一へと向かう
歴史の大きな流れに、間接的にではあるが、
きわめて大きな影響をあたえた可能性がある。

天正10年(1582)に
織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変は、
元親の動き方によっては
起きなかったかもしれないのである。

本能寺の変の原因については、
さまざまな説が提唱されてきた。

ドラマなどでよく描かれるのは、
光秀が信長の安土城(滋賀県近江八幡市)で、
徳川家康の饗応に失敗し、
信長から叱責されて恨みをいだいたというものだ。


この話は江戸初期に書かれた
『川角太閤記』に記されている。


↓↓ここからは、我の文面。

※これは、かわすみたいこうき、と読む。

太閤記、と名が付く記録は、
他にもあるが、全て江戸時代。
光秀が生きていた、同時代史料ではなく、
光秀を、後世になり、
最初から悪者扱いした史料。

光秀が死んで、🔷我はそうとは思わないが🔷
主君信長を殺した奴を討ち取った秀吉が、
部下に書かせたもの。要するに自慢話です。
当時の、週刊誌みたいなものです。
よって、あまり信用度がかなり低いです。

↑↑↑
まずはここまで、我。

書かれている内容は、
↓↓↓

光秀が準備している料理が悪臭を発していたので、
信長は激怒して光秀の饗応役を更迭。
家康の接待役でした。

光秀は体面を傷つけられて、
用意した料理を器ごと城の堀に
投げ捨てたのだという。

ここから、また我の加筆。
↓↓↓
🔷は我の、加筆。

まずは、どんな時も冷静な光秀が、
そんな事をするだろうか?
愛妻が心を込めた料理を放すなんて。
🔷放す(ほかす)、、とは、関西語で、捨てる、こと。

🔷この料理は、夫光秀のために
妻ひろ子が、わざわざ取り寄せた
滋賀の「鮒寿司」だったと。
鮒寿司を、信長自身が、
食べた事が無かった、のでは無かったか?
だから、信長は、
魚が腐って、臭いがが充満している。
と、難癖、いちゃもんを付けている。

更には、同席の家康も食べた事は、鮒寿司を。
無かったのかな?

それで、光秀に文句を言うだけでなく、
殴る蹴るの暴行を、来客の前で働いたと云う。
また、近習の蘭丸も、嫌味を言ったと。
まあ、蘭丸は信長の愛妾だったらしい。
信長は男色愛好家。

食事を用意した、妻ひろ子の気持ちーも
考えて、じっと我慢の光秀であった。

↑↑↑ ここまで。

しかし、

そもそも『川角太閤記』の内容は
信用できないとされているうえ、
同様の話は

信頼できる史料には
まったく書かれていないので、
かなり以前から俗説として退けられている。


こうした怨恨説が
長く語られてきた背景には、
儒教の影響が指摘できる。

江戸時代には歴史上の人物を
儒教の基準で批判したため、
暴虐で独りよがりな人物だという信長像が定着し、
それに耐えかねた光秀が怨恨を晴らすために
信長を討った、と考えられるようになったのである。


しかしながら。

最も有力とされる「四国説」
明治以降も怨恨説は根強かったが、
大正から昭和初年には、

🔴これから述べる「四国説」も
提唱されるようになった。

そして、高柳光壽氏が
1958年に上梓した『明智光秀』
(人物叢書・吉川弘文館)で。

ここからの🔷は
我の追記です。

🔷たかやなぎ みつとし と読みます。
我の誕生の一年前の出版です。
1958年は、昭和33年です。

光秀が信長にいだいたとされる怨恨が
一つひとつ検証のうえで否定されてから、
怨恨説はドラマなどを除いては、
ほとんど相手にされていない。

🔷今更、怨恨説を
唱える人は、最早、時代遅れの感あり。

その後は、
黒幕説も数多く提唱された。

朝廷、足利義昭、本願寺教如、イエズス会など
バラエティに富んだ名が、

謀反の「黒幕」として挙げられたが、
いずれも否定されている。

🔷ここも、我の確推論と同じ。

そして、現在では
「四国説」がもっとも有力とされている。

簡単にいえば、
信長が梯子を外すように四国政策を変更したため、
立場がなくなった光秀が
信長への謀反を起こした、という説である。

長宗我部元親は
天正3年(1575)、
名門の土佐一条氏を四万十川の戦いで破り、
土佐国を完全に統一した。

その後、四国全土を攻略しようとしていた元親に
手を差し伸べたのが信長だった。
そのころ信長は大坂本願寺(大阪市中央区)と戦っており、
本願寺に味方をする阿波国(徳島県)の三好氏に
手を焼いていた。

長宗我部元親像(秦神社所蔵品)
(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)


🔷この文面での、我から追記。
↓↓↓

この大坂本願寺の戦いで、
永く信長に追随した家来、
佐久間信盛が、追放されている。

父の代から、
織田家に従ってきた信盛を
追放してしまった。
しかも、光秀の前で。

🔵織田信長の功臣として、
30年近く尽くした佐久間信盛。
1580年(天正8年)に
織田信長から19ヵ条の折檻状を
突き付けられたあげく、織田家を追放さる。

🔷この事件があったことも、
心理的に、生真面目な光秀を
追い込んだとも、考えられる。

↑↑↑
我の追記

そこで、
阿波国にも進出しようとしている元親に、
阿波三好氏を攻略させようと考えたのだ。
天正6年(1578)10月には、
元親の嫡男に「信」の字をあたえて
「信親」と名乗らせ、
元親が四国全土を攻略することを容認している。

織田信長が行った手のひら返し
このときから元親の取次役として、
交渉を一手に担ってきたのが明智光秀だった。

なぜ光秀が取次役に選ばれたかだが、
元親の事績を記した『元親記』によれば、
元親の妻が光秀の重臣である
斎藤利三の義理の妹である縁によるという。

🔷この、斎藤利三、さいとうとしみつ、
この娘が、斎藤福。お福ちゃん。
51歳のとき、天皇から、春日局の称号を
頂戴します。🔷

ところが天正8年(1580)に、
10年におよんだ本願寺との戦いが
和睦によって終結すると、
信長は急遽、四国全土に広がろうとしている
元親の勢力を危険視しはじめた。

🔷これは、オオザカと云う。
よって、正しくは「大坂本願寺」です。
おおざかほんがんじ、です。

天正9年(1581)9月ごろ、
信長は光秀を通じて元親に、
お前たちに与える支配地域は
土佐国と阿波国の南半分で
これで我慢するように伝えている。

しかし、3年前に信長から、
四国全土を攻略していいと言われ、
実行に移していた元親にすれば、
いまさら、手のひら返しをされるいわれはない。

敢然と拒んだが、
それに対して信長は、阿波一国を
三好康永、すなわち、当初は
元親に攻略させていた阿波三好氏出身の武将に
統治させることにした。

そして、
天正10年(1582)1月、
光秀を通じて元親に、
領土は土佐一国だけで、
納得するように伝えたのである。

🔷この頃から
光秀は、ほどよく睡眠も
取れていなかったのでは無いか。
🔷何とかしなければ、
という思いが、、あり、
部下や家族にも、相談出来ない状況が続いて、
疲労困憊では無かったか?
🔷自分だけでなく、
仲間、家族、親戚を心底から
大切にしていた武将であった。

四国征伐=明智家の存亡の危機

この時点で取次役の光秀は、
道理に合わない要求を元親に
次々と伝える役を負わされ、
元親からは色よい返事を得られず、
苦しい胸の内をかかえていたと想像される。
しかも、「領国は土佐一国」と伝えてからは、
元親からは返事を得られなかった。

ここから先は

1,883字
この記事のみ ¥ 1,000

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?