🟠「2000年 葵 徳川三代 蘊蓄GOES ON!」第4蘊蓄 そのE「三成最期」から。
第十三回「三成最期」から
ピックアップした蘊蓄です。
The Battle of Sekigahara, 1600
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映像は、最後の方です。
高時村(たかときむら)は、
滋賀県伊香郡にあった村。
現在の長浜市の北東部、木之本地区の南東部、
北陸本線・木ノ本駅の東方一帯、
高時川の中流域にあたる。
この山中の岩窟に隠れていた三成。
名付けて、
「石田三成の隠岩窟(オトチ洞窟) 」。
近江国(木之本)にある。
別名:大蛇の岩窟・オトチの洞穴。
オトチとは(オロチ)
=大蛇のこと。
所在地:長浜市(旧:滋賀県伊香郡)木ノ本町古橋
標 高:410m
比高差:林道の登り口から230m
家康の命を受けた田中吉政(虎姫・三川城主)
の手のもの、即ち吉政の家臣。
所在地:長浜市三川町
(旧・東浅井郡虎姫町三川)
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家臣名は「田中長吉(ながよし)」と言う。
これに捕縛さる。
主の名前、田中吉政(よしまさ)は、
初代筑後国主。
現在の長浜市三川町の生まれ。
宮部継潤の家来となり、その後に
秀吉の直臣に取り立てられ、
関白秀次の筆頭家老として配属された。
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天正18年(1590)には三河岡崎城主として
五万七千石を与えられ、関ケ原の戦いでは
東軍に属す。
即ち、秀吉の豊臣家をその後は身限り、
東軍徳川方に付いている。
岐阜城攻めなど功を挙げ
石田三成の本城佐和山城を攻略。
さらに石田三成を捕らえた功などにより、
筑後国三十二万石を与えられ
柳川城を居城とし
国内に支城を配して統治を行う。
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🔵田中吉政の主、
宮部継潤(みやべけいじゅん)は、明智光秀と
同年の、享禄元年(1528年)の生まれ。
この武将、宮部継潤については
各自探索されるべし。
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ストーリー蘊蓄と台詞
山中で、あの宮本武蔵がまた登場。
徳川軍捕獲隊に見つからないように
身を隠している。
※このシーンは、恐らく創作でしょう。
日本に一つしかない、国民放送局の。
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✴️A→これが映像シーン。↓が解説。
「出てこい!燻し(いぶし)出すぞ!」
ここに、木こりの風貌の男が。
刀を抜いて構える捕獲隊。
「何ものぞおー?」
「薪拾いに御座ります。
生憎病を得て、休んでおりました。」
「かぶり物を取れ!」
「取れっと、言うのに、、!」
「い、石田三成じゃあー!」
持った鎌を構え、隊に立ち向かう。
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「我は 田中吉政が家臣、田中長吉也!」
この時の三成の顔にご注目。
昔馴染みの男、田中吉政の名前を聴いて
驚いたその顔。
🔺映像でも、これを聴いた三成は
吃驚した顔をしていた。
皆さん解りましたか?
映像では、瞬時です。
こういう撮影は巧い、日本国民放送局の
撮影スタッフは。
戦国時代では、常に礼儀が重んじられる。
「我は何しに来たか」と。
「何処の誰か」これを物申す。
◆島津義弘と同様です。
この時、三成の心は揺らぎ、
鎌を持つ右腕が急に錆びつく。
その時、家臣は三成の右腕を打ち、
そのまま捕縛さる。
大津城にいた家康のもとに連行さる。
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何故か?
🟠石田三成 と 田中吉政は、
同郷のよしみの間柄なんです。
吉政の家臣と聞いて、驚き、急に
気持ちが萎えたと云うしかない。
また、映像には現れていないが、
🟣その時、三成は腹痛で病んでいたが、
捕縛されたあと、
医師の勧める薬は拒否したため、
吉政は熟慮のうえ、健康によいという理由
付けをして「ニラ粥」を勧めたので
三成はそれを食したといわれている。
◆これは、あとの映像で描写されている。
処刑の前日なのか、
映像では「井ノ口村のニラ雑炊は美味かった」と。
◆この時の映像では、ニラ粥ではなく、
ニラ雑炊となっている。
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🟤また吉政に会った三成は
太閤から給わった脇差しを吉政に授けたと
(寸延短刀 石田貞宗:東京国立博物館蔵)。
「名物石田貞宗(さだむね)」
これは、人の名前でなく、
上記の短刀の名前である。
手厚くもてなされた礼であるといわれている。
(三成も捕縛されるとき、
「他の者よりはお前に捕らえられた方がいい」
という旨の発言をしたという)。
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✳️B→ここも映像シーン。
家康と、東軍の諸将と
東軍に与した豊臣恩顧の武将たち。
そのお歴々の登場前に、
地に座された罪人三成。
「は、は、はーっ!
み、つ、な、りぃー!」
「生捕りとは無様(ぶざま)やのおー!」
と福島正則。
「己れ如きが、天下(てんが)に乱を起こすとは。
笑止千万!身の程を思い知れえ!っ。
何とか申さぬかあー?
んがああー!?」
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「武運拙(つたな)きは三成の残念也。
願わくはお主を生捕りにして、
斯様に引き据えてみたかった。」
「ほざいたな?」
「ほ、ほぁあーはっ!は、はーは、は、あ!」
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「黒田長政でござる。
武門の常とは申せ、かかる事態に至りたるは
さぞ不本意の事と存ずる。
お察し申す。」
◆再起を願わんと、
巌窟で時を稼いだ三成を、
武将としての、その気持ちを 慮(おもんばか)る。
かつての豊臣恩顧武将としての
心尽(こころづくし)を、
戦いを終え、敗戦の将に対して
それを肩時も忘れないでいる。
そんなシーンである。
🟣さらには、天正6年(1578年)9月。
22年前、信長に対した荒木村重の謀反に際して、
村重を翻意させるために乗り込んだ有岡城にて、
長政の父、如水(黒田官兵衛)が
数年間牢獄で幽閉され、為に片足不随に
なった事も、併せて思い出していたか?
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黒田長政1568年生まれ。
当時は松寿丸時代。まだ十歳ころか。
関ヶ原合戦時は32歳くらい。
父 如水も再起を願わんとしていたに違いない。
頭の良い長政であるから、
色々な事を考えていた筈だ。だから家康は、
自分の手足として、
その動きに逐一配慮していたと思える。
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🔴戦後は、戦前の諸将への寝返り工作。
これらの戦功により戦後、家康から
御感状(福岡市博物館所蔵)を賜り、
関ヶ原の戦い一番の功労者として、
子々孫々まで罪を免除するという
お墨付きをもらい、筑前国名島に
52万3,000余石を与えらる。
この長政に名島(現在の福岡)の統治を
命じている。
瞬間激怒症の福島正則とは対逆である。
福島正則は1561年生まれ。
尚、正則も相応の功を得る。
「辱い」
※かたじけない、と読む。
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こういうところは、
此れまでの遺恨を自ら拭い去る、
そんな男らしさを感じる。
流石はスニーカー。山下真司の芝居。
勝敗の遺恨の根は、
ここで断ち切る黒田長政である。
またここで、長政は自分の、陣羽織を
三成に肩掛けをしてやる。
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ここは、史実だったか。
◆このシーンは、どの映画でも
他のテレビでも同様である。
寒いのではなく、
もう一度、戦いたい武将の、気持ちを
思い出させているシーン。
互いに戦う時は、もう来ない事を知っても、、。
同じ戦場で戦った武将としての情である。
この日、旧暦9/22は、
現在、現代に置き換えるならば、
10/末頃となろうか?
阪神タイガースが日本一となった日も
程良く寒かったですね。
この時期でのビール掛けは
風邪引くでえー!注意せんとおー。
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次のシーンは、
三成の残った復讐心を掻き立てる台詞。
小童への恨み、辛みが。
捕縛されたこの場では、
罪人としての自分としては、
今更どうしようもないが、
◆これが「やんぬるかな」の三成心境。
男として。当該武将として。
当然の心の絶叫。燻りつつまだ、
さらに燃え上がりたい男の発言。
諸将の前に於いて、これが瞬爆す。
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「小早川秀秋に物申す!」と三成。
「爾(なんじ)に二心知らざるは、
三成痛恨の極みなれど、
義を捨てて役に違(たが)い、
寝返りを打った爾は、
武人の風上にも置けぬ卑怯者なり!
この場に平然と着座するを
恥とは思わんのかあっ!」
ここで、家康、秀忠、忠吉が
上座に登場してくる。
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「頭が高い!」と福島正則。
「頭が高い!三成殿」と正純。
まあ、まあ、と抑える家康。
「寒いのおーう。」と家康
皆は、床几から座を外し
立膝で総大将家康の前に、伏す。
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「長政殿、縄目を解かれよ。」
「はあ?」
「縄目を解かれよ。
仮にも19万4千石の大名じゃ。
縄目を解かれよ。」
「は、はあー。」
秀忠に、
「床几を与えよ!」
「面を挙げられよ。」
「お久しゅう御座る。」
「大義!」
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「三成殿。
所詮、戦の勝ち負けは
その日の天候がごときもの。
晴れる日もあり曇る日もあり。
が、十万の軍勢を率いて敢然と
挙兵に及びたるは、気宇壮大にして雄渾!
武人として思い残す事はござるまい。」
「お言葉痛み入る。」
ここで、秀忠に家族の去就を振らす。
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「三成殿。ご嫡男重家殿は17日。
大坂城を出られ妙心寺に入られたと聴いた。
ご安心あれ、仏門に帰依する者には、
手出しは致し申さん。」
「そは、有り難き御計らい。」
「父上をはじめ、
ご家族は気の毒な事であった。」
と家康は付け足す。
◆ここで、他の家族全員は
討ち取られたのを改めて悟った三成の眼。
当然、そうなっただろうと。
◆燃え上がる佐和山城を見て、
既に解ったが、
総大将から確たる報告を受けたら、
止む無しの無念が、この場で込み上げる。
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「申し残す事は?」
床几から離れ、
再度、地面に着座する三成。
「然らば、腹蔵なく申し上げなん。
三成が内府殿の誘いに乗り、
やむ無く挙兵に及びたるは、
唯々太閤殿下のご遺命に従い、
豊臣家の弥栄(いやさか)を
願い奉らんが為なり。
◆ 弥栄(ヤサカ)は、
元々は「イヤサカ」と呼びます。
いよいよ栄えるという意味
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内府殿は大老の身にありながら、
専横の限りを尽くし、
豊臣家の御安泰を脅かす行い多々あり。
これを誅する者あらざれば、
君臣の道を問う者は疎(おろ)か、
天下の治世千千(ちぢ)に乱れるのは必定。」
「黙らっしゃい!!」と池田輝政。
「続けよ!」と家康。
「つらつらと惟(おもんみ)るに、
小早川の裏切りありて、
勝てる戦を失いしは、
生涯の痛恨事なれど、
今となっては、是非もなかるべし。
願わくは、内府殿。
並びに豊臣家の禄を喰(は)みしお歴々。
些かも、太閤殿下の御恩を忘れる事なく、
秀頼君へのご奉公を構えて願い上げ奉る。」
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「申すに及ばず!」と藤堂高虎。
「己れこそ!
ご幼少の秀頼君を謀(たばか)り、
無益の乱を起こした張本人に非ずやっ!」
と、怒りまくる福島正則。
ここでも、瞬間激怒症が起きる。
「無益の乱や、否やは
後世に於いて定まるものと存ずる。」
「大口を叩くな!」は正則。
「御静かに!」と井伊直政が。
「加えて言上仕る。
此度(こたび)、三成に加担の諸大名は、
内府殿と事を構えること、
必ずしも本意ならず。
何れも豊臣家大事の忠義者なれば、
その義お汲取りの上、
ご勘定在らん事を、請い願い奉る。」
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◆ 豊臣家大事の忠義者は、
多くは、戦死してしまった事に対して
残った忠義者には、格別の勘定を、と。
しかし、決して許さないのが、狸の腹の中。
「仰せの趣、承っておく。」
※しかし、「必ず助けるとは言っておらず」。
徳川への豊臣諸侯の楯突きは絶対に許さん!と。
「ご無礼はご容赦、、。」
「ーん。ーん。は、は、はー。
正純。
追って沙汰を致すまで、
三成殿を帥(そち)に預け置く。
粗相の無いように、な。」
「心得ました。」
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一旦は、戻ろうとする家康だが、
何をか言わんやと再度三成に向かう。
ぼんやり秀忠も、何かあるのか、と
家康に付き従う。
「さらば、でござる。」
もう二度と、その傲慢顔を見ることは
あるまいにと。
どうせ、天下に大争乱を引き起こしたお前は
この世から(おさらばになる)意味合い。
🔴その決定権は家康にある。
八つ裂きにしようと、煮て食おうと、
武士のしきたりに即して、
斬首となる事になるのは必定。
この世に不要は罪人は、断罪されるのだ。
この事だけは解っている、ぼんやり武将。
側に侍っていた秀忠も、武士の端くれ。
三成に向け、立って首を垂れる。
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🔴大戦闘が終われば、
もう敵でも味方でもなく。
現代でも、
サッカーの「ノーサイド」の如く。
大相撲でも、野球でも、
戦いは「礼に始まり礼に終わる」。
これが日本人のしきたり、である。
🟠但し、仕掛けた戦闘の報いは
必ず受けなければならない。
それが「もののふ(武士)」の礼節である。
こうなる事は、解っていた筈だ。
大勢の裏切りを三成が、
その「信じられない光景」を、
その眼で目の当たりにした時に。
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以下、日付は全て旧暦である。
現在の暦は、旧暦のほぼ一カ月あと、とご推察あれ。
九月二十六日。大坂城にて、
秀頼とその母、女狐に謁見。
天下御免の「もののふ」たちは、、
豊臣恩顧の武将たちも同行で、秀頼の前。
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「此度は、関ヶ原の合戦に於いて、
赫赫(かくかく)たる戦果を挙げたる段。
執着の極みに存じ、ま、する。
豊臣家存亡の危機を凌ぎたる忠節は
他に並ぶもの無し!
秀頼に成り替わり、心から
御礼申し上げる。」と女狐。
「過分なるお言葉。
恐悦至極に存じ奉りまする。
三成を初めとする君側の奸臣を
弓矢にて征伐いたし、これを
遠ざけるに至りました事は、
ひとえに太閤殿下の御威光あっての事。
唯々、有り難き御事と心得、
一層の精進を心掛ける覚悟に御座りまする。」
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「殊勝なるもの言い。感じ入りました。」と淀。
🔴これまで、淀を演じた女優の中でも最上級。
小川真由美は、台詞の抑揚が巧い!上手い!
彼女以外の、淀は見るに堪えず。
特に2023年大河などは、、。
大河ドラマ始まって以来の
史上最低の視聴率だったらしい、な?
そりゃそーやろ!
時代考証小和田先生の責任ではない。🟠
「此度、功労ありし諸侯に、
秀頼君より別して、
お祝いの品を賜る。」
この時の弁者は、
片桐且元ではない。
「は、はーはあ!」と全諸侯首を垂れる。
家康は、おい何とか申さぬか、と
眼と首で指図する。
このうっかり、ぼんやり、に。
【はあ?何ですか?】と。
その場の状況が飲みこめていない
ぼんやり三男。
更に顎で、指図してやっとこさ。
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「御前に侍りまするは、
豊臣の朝臣、徳川秀忠に御座りまする。」
◆この時は、徳川は豊臣の臣下である◆
◆朝臣とは、Wikipediaより。
朝臣(あそん、あそみ)は、
684年(天武天皇13年)に制定された八色の姓
やくさのかばね
の制度で新たに作られた姓(かばね)で、
上から二番目に相当する。
上から一番目の真人(まひと)は、
主に皇族に与えられたため、
皇族以外の臣下の中で事実上、
最も上の地位にあたる。
古くは「あそみ」と読み、
阿曽美や旦臣とも書いた。
制定された背景
この朝臣が作られた背景には、
従来の臣(おみ)、連(むらじ)、
首(おびと)、
直(あたい)などの
姓の上位に位置する姓を作ることで、
姓に優劣や待遇の差をつけ、天皇への忠誠
の厚い氏(うじ)を優遇し、
皇室への権力掌握をはかったと思われる。
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「畏れながら三成の乱治まりと言えども、
奥州の上杉、九州の島津ら、
不貞の逆臣、未だ征伐するに至らず。
不祥秀忠、身命を擲(なげう)って
此れらを平定し、秀頼君の御下命に添わんと
欲する次第に御座りまする。」と、秀忠。
「ほおー!よくぞ仰せ下された。」と女狐。
「がっーはー!」とぼんやり。
声だけは、デカい。
「若君、此方は千姫のお父上なるぞ。
母は小江と申して、妾(わらわ)の妹。」
「内府殿。
かくなる上は、両家の縁(えにし)を
盤石なものに為らしめんが為に、
千姫の大坂入りを早めとう存じまするが。」
「有り難くも、晴れがましき御計らいかな。
毛頭依存は御座りません。」と、家康。
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場面は変わり、
罪人として 三成の市中引き廻し。
九月三十日の事。
処刑の前日。
家康の命を受けた田中吉政(虎姫・三川城主)。
「世話になったな、吉政。」
「井ノ口村のニラ雑炊は美味かった」
吉政は、三成の同郷の幼なじみ。
最後にご所望は?
「別にないが、少々喉が渇いた。
白湯が呑みたい。」
映像では、
「生憎この辺りには、
人家も御座りませんので、」と、
三成の希望に捕縛した吉政の家来
「田中長吉」はこのように返答している。
これが、このシーン。
「田中長吉」は三成を捕獲した武将である。
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🔵その後六条河原で処刑さる。
斬首とは、打首である。
首を切り落とされる事。
刀で切った時に、鮮血が迸るのです。
皆さん、想像してみて下さい。
人の身体には、血に圧力が、かかっている。
これが、一気に噴き出す。
処刑場は、京の六条河原。
極悪人を皆への披露場所は、京の三条河原。
現在の三条大橋の袂あたりでしょ。
◆現在では、
夏にはカップルが涼んで
デートを楽しんでいる場所に、
420年程前に、
三成の首が、晒されていた事を、
現代の若者はご存知だろうか?
京都への観光客も含めて、、ね。
このように、、、。
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この木ノ本町古橋は
三成の母の出身地であり、
三成が幼少の際は、法華寺にて修行したとも
伝わるため、縁のあるこの古橋に
逃げ延びたようです。
◆◆現在も、過去も、犯罪者は
過去に逃げ戻るのは現実のようですな。
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🔵三成の逃亡劇の足跡🔵
伊吹山に逃れた三成は、
東にある相川山を越えて春日村に逃れる。
春日村から新穂峠を迂回して
姉川に出た三成は、曲谷を出て七廻り峠から
草野谷に入った。
その後、小谷山の谷口から
高時川の上流に出、古橋に逃れた。
◆七廻り峠は、
正確には、ななまわりとうげ。
◆ななまがり、ではおまへん。
※ 姉川の谷間にある吉槻と草野川の谷間
にある鍛冶屋を結ぶ峠である。
「旧道、七曲峠」の標識が麓の吉槻にあって、
昭和の中頃までは主要道であったそうだ。
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9月21日、家康命で三成捜索の山狩。
田中吉政(近江・三川城主)の追捕隊に捕縛。
✴️A→これが映像シーン。
一方、9月18日に東軍の攻撃を受けて
◆小早川勢が主体で◆
三成の居城・佐和山城は落城し、
三成の父・正継を初めとする
石田一族の多くは討死した。
全員ではない。
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9月22日、大津城に護送。城の門前で
生き曝し➡︎その後家康と会見。
✳️B→ここも映像シーン。
9月27日、大坂に護送され、
9月28日には小西行長、安国寺恵瓊ら
と共に大坂・堺を罪人として引き回される。
🌌C→ここも映像シーンで。
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9月29日、京都に護送、
奥平信昌(京都所司代)の監視下に。
10月1日、家康の命により
六条河原で斬首された。☪️
享年41。首は三条河原に晒された。
辞世は
「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と
ともに消えゆく 我が身なりけり」
生前親交のあった、
春屋宗園・沢庵宗彭に引き取られ、
京都大徳寺の三玄院に葬られた。
8092字