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令和6年干支と、年金相談で分かったこと。当ブログ管理人🟠姫洲和彰。私は何者か? あれこれ蘊蓄。

干支は甲辰(きのえたつ)。
十二支や干支は、
数や方角のみならず、
其々独自の意味を持ってます。
「甲」は「第一位」の意で、
「優勢」である事を表す。
真っ直ぐにそそり立つ大木を意味しています。


因みに【日本人の常識】蘊蓄として。

昔の小学生は成績評定でも、
「甲乙丙丁」のトップ成績は「甲」です。
大学の成績表でも、使われていましたな。
最近では、優良可の三文字が普通かな?


この際、皆様覚えてください。

「甲(こう)」・「乙(おつ)」・
「丙(へい)」・「丁(てい)」・
「戊(ぼ)」・「己(き)」・「庚(こう)」・
「辛(しん)」・「壬(じん)」・「癸(き)」

これらを十干(じっかん)と呼びます。
其々の意味は、各自探索仕るべし。

最近でも、契約書にも順列として、
「甲乙丙丁」の記載をしますね。
これは中国での表記に倣ったもの。


また、

「辰」は十二支の中でも、
唯一の架空の生きもの。
「龍(竜)」を意味します。
水や海の神として祀られてきた龍は、
竜巻や雷(いかずち、いかづち)などの
自然現象を起こす大自然の躍動を
象徴するものであり、
「龍が現れると、めでたき事が起きる」と
伝承されてきました。



筆者は、京都、龍谷大学文学部哲学科の
昭和58年卒業生でござる。
ために「龍」にはかなり惹かれるんです。

但し、応援野球球団は
龍(たつ)ではなく虎(とら)ですが。
今年2024連覇が出来ない場合の虎は、
またまたダメ虎になります。
シュガーと綿飴仁丹。
今年の成績はこの二人の頑張り次第です。

我の予想は、当たっている。

阪神・岡田彰布監督(66)が1月24日、
大阪市内のホテルで開催された「関西プレスクラブ 
新年会員交流会」のトークショーにゲスト出演し、
今季の構想について語った。
レギュラーは近本、大山、中野の3人のみ。
昨季クリーンアップを担った佐藤輝、森下の主砲2人に
レギュラー確約を与えず、
佐藤輝にはキャンプで三塁特守を命じる方針だ。
外野では両翼を巡り激しい競争が勃発する。

やはり、岡田はんは、野球を舐めて掛かっている奴には
レギュラーは渡さないと云う事だ。それ、見いぃー!


まずは、何度も、例年言い続けていますが、
毎年のセパ共に、先に41-42勝を
七月一日までに達成し、二位の球団に
少なくとも1.5ゲーム差以上の開きを
付けているチーム。
この時に首位になっているはずです。

そのチームが、最後にはゴールイン!
します。これは間違いない筈です。

そしてマジック点灯は、残り試合数に
寄りますが、恐らくは早くて7/20前後に
少なくともマジック25ぐらいが
点灯しますでしょう。


🔵この二つの組み合わせ、
甲辰(きのえたつ)では、
「成功と云う芽が成長していき、
 姿を整えていく」と
いった縁起の良さを表している年なのです。

とは言え、まだまだ立ち塞がる雑多で
見えざる色々な逆境を跳ね返し、
己れの努力、戦略を結実させて、
令和六年の一年間。
皆様の繁栄に繋がらんと希望、します。
(昭和天皇陛下の締めの言葉風ですが)


🟠姫洲和彰。
これは、太陽!蘊蓄話のペンネーム。
本名は別にあります。

私の先祖は、実は、どおも、
肥前松浦党の海賊に与していた一族から
佐賀県に流れた土着民のようです。
肥前風土記に私の先祖の名前が発見できます。

10世紀後半頃から日本に住み着いて
現在の佐賀県伊万里市あたりに
移転した一族のようです。


◆10世紀(じっせいき)は、
西暦901年から西暦1000年までの
100年間を指す世紀。
1千年紀における最後の世紀である。
日本では平安時代中期に差し掛かる頃。
つまり鎌倉時代が始まる前のころ。

源氏物語の、文献初出は11世紀初め。
時は1008年(寛弘五年)ですから、
それ以前から、生きていた一族です。

静岡大学小和田先生の推察では、
◆明智光秀の生年は、享禄元年(1528年)
と云われますから、その500年以上前から
土着していた民族なのです。九州肥前国に。
三英傑(信長、秀吉、家康)の三人よりも前に、
地球の空気を吸っていた事になります。


ひょっとして、、

時の朝廷に逆らい反乱を起こし、出奔し
瀬戸内に、自分達が生きるユートピアを求め、
海賊行為を繰り返していた「藤原純友」とも
交流があったのかも知れません。
これはひょっとするかも。

そうであるならば、
私はその末裔と理解しています。

関東にもあるのです。○○氏は。
この別系の一族○○氏にも
少し触れておきましょう。


九州佐賀の私と同じ
○○氏(私の本名)を名乗るが、
これは関東茨城県で○○城を持つ
戦国武将だったようです。
◆但し当時は大名ではなく、
また、そんな呼び方はしません。
ただ1700年代に、大名を名乗ってます。
関東の○○氏は。

◆大名とは、Wikipediaより。
江戸時代には主に石高1万石以上の所領を幕府から
禄として与えられた藩主を指す言葉。
1万石未満の武士のうち幕府直属の武士を直参という。
ただし大名の対義語である「小名」が
その間に存在するため、この定義には曖昧な面がある。


この一族は、
徳川三代家光の側室「お楽の方」の二人いた弟。

その一人の弟は那須家に養子入りし
那須資弥と名乗ってます。
なすすけみつ、と。
那須氏の一族であったことは系図をみると
間違い無さそうです。更に
那須資実(なす すけざね) の子が、
○○氏を名乗る。

また○○氏は、
現在の栃木県である下野国那須郡金田村が
起源(ルーツ)であり、
中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)
長家流の氏族が、
この○○氏であろうと、推測されます。
なお、上記の同じ○○氏(私の本名)は
謂わば歴史ある武将名として、残っています。


○○城と云う城のあるじ、であったと。
この○○氏は関東にも広がっています。
京都にも数家、ありますが、
私の親戚では有りません。
これは、関東の○○氏から流れたのでは
無かろうかと、勝手に解釈しています。

筆者の亡き親父のお父さん。即ち
筆者の父方の祖父が、筆者の幼少期に
正月の挨拶に行った折に、

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