日記(22/04/14)
前回のnote更新から今日までのあらすじ
朝目標立てる作戦は悪くなかったけど、二度寝して全てが無に帰す。小林オニキス。誰が生活習慣終わり人間のサイハテじゃい!!!!!!!!!!!!!!!!
は?
日記を1週間近くサボったせいで、どんな温度感で書いていたかを忘れてしまった。ついでに何をしたかもあやふやである。
金曜のバイトで調子に乗った生徒に内心キレながらも授業したこととか、親戚の農家の手伝い(お米の種まき)とか、学校が始まったこととか、何かとバタバタしたり惰眠を貪ったりしていた。惰眠貪ってんじゃねーか。
つくづく環境って大切だと思う。部屋にいると副交感神経が優位になり何もしたくなくなるから。かといって出不精だから人生詰んでる。専業主夫になれるなら喜んで嫁ぐかも。嘘。価値観とか趣味とか合わなかったら別れる。変なところ正直だから自分に嘘がつけない。もともと好きじゃなかったものを好きになることはなかなかない。何かの漫画(確か惡の華)で、好意の無い人間から寄せられる好意ほど気持ち悪いものはないって言ってた気がする。恋愛的な好意に関しては、賛同できるところがある。
恋愛のアンチ(?)なので、その話は今日でここまでにしたい。
あとは何書こうとしてたんだっけ。俳句と、価値観とかの話だっけ。
とりあえずそれを書いたら寝るかレポート書くかする。
最近、内輪で俳句を詠んで送る企画があった。第二回。
第一回では、秋の安楽寺を兼題として詠み、審査員特別賞受賞(秋深しインターネット闇深し)と、6位入選(ゆるやかに色づく紅葉ゆるやかに)を果たした。
今はまだ第2回の審査中なので、あまり踏み込んだことは話せないが、今回は、石寒太編著「ハンディ版 オールカラー よくわかる俳句歳時記」を買って臨んだ。ちゃんと春の季語のページを読んだ。
ぶらんこという言葉を表すのに、それ以外にも、「鞦韆(しゅうせん)」、「ふらここ」、「半仙戯(はんせんぎ)」などといった呼び名があることを知った。こういう類語、同義語をセットで見れるのはありがたい。
英語においても、synonym(シノニム)つまり類義語やantonym(アントニム)つまり対義語を知れるのが役に立ったりする。こういうのが載っているのをthesaurus(シソーラス)と言ったりする。
さて、私は先にも示した通り、恋愛に対してあまり良いイメージを持っていないため、アンチ・リア充俳句を詠むことがある。例えば、猫さかるという季語を使ったり、カップルが夜桜を見る情景が見て取れる句を詠んだり、純粋な憎悪を込めた句を詠んだり。審査員のお姉さんは言葉を食べるのが好きらしいが、私の詠むそれは、ひょっとしたら毒リンゴかもしれない。でも他意は無いんです。特定の人ではなく一般に向けてのアンチテーゼなので。(物は言いよう)
さて、俳句にそんな思想をぶつけて良いのかという疑問が残るが、ぶっちゃけ何か作品として昇華しないとこの感情はうまく収まってくれないような気がする。誠に勝手な話だが、負の感情はどこかに放出しないと、正気を保てなくなりそうな時がある。
では、それをどこに放出するか。
TwitterのTLか?
見てくれる人は多いだろうし、考えを共有したいのであれば、よいのかもしれない。しかしながら、相反する思想を持った人が少なからず存在することが考えられる。ましてや、愚痴を淡々と垂れ流すだけでは芸がない。
それをせめてネタというテイで昇華することで、人がムッとするかもしれないツイートを人によってはエンターテインメントとして受け取れるようなものとして放出することができるのではないだろうか。
そんなことを考えてツイートすることがある。全部ではないけど。
ネタツイの利点はいくつかある。
一つ目は、純粋に面白い。(個人の感想)
後で見返してもあんまり嫌な気分にはならないだろう。それはネタであるのだから。
二つ目は、他人に興味を持ってもらえる。ただ自分の日常とか意見とかを垂れ流しても、それが読み手に取って魅力のあるものでなければ、スルーされてしまう。はたから見たら、「なんかキャンキャンちっせ~犬が吠えてますわ」って感じ。誰の目にも留まらない。ミュートの対象ですらある。
それが、せめて人を不幸にするツイートでなく、「笑い」として瞬間を彩れたら素敵なことだと思う。そんな高尚なものではないけど。
三つ目は、自分を悪者から遠ざけることができる。
悪者から遠ざけるの意味は二つある。
第一の意味は、悪意を持った人への威嚇。多分効果はないけど。小動物としての本能ゆえの威嚇。
第二の意味は、自分を悪者にしないことができるかもしれないということである。これが本体である。
自分を悪者にしないとは、どういうことか。それは、役(ロール)の活用である。
例えば、むしゃくしゃして、何か人の悪口を言いたくなったとする。
そんなとき、どうするべきだろうか。普通に人の悪口を言うか。何も言わずにへらへらとするか。否。
私はこういうとき、誰も傷つかない範囲で悪口を言う。
この世には、様々な考え方をもった人間が存在する故に、下手なことを言うと、誰かの地雷を踏むことがある。マジョリティー、マイノリティーうんぬん。
しかしながら、人間は、「自分が正しい」「自分が何かに勝っている」と思いたいもので、無意識に他者の意見を退けることがある。
自分が多数派に属しているときは、少数派の小さな声をかき消し、自分が少数派に属しているときは、小型犬のようにきゃんきゃんと吠えるだろう。声を上げない人だって存在するだろう。
何かを見下したいけど、誰も傷つけたくない。
そんな考えの中うまれたのが、いわゆる「右折巨乳」である。
右折巨乳って何かって?そんなもん訊くな。調べるな。知っても何の得もない。
ツイート主曰く、優先度が
右折車<左折車・直進車<横断歩行の歩行者 であるが故のツイートだと釈明している。
また、ツイート主の住む自治体で「茨城ダッシュ」という違反行為(信号が青になった後、対向車がいるにもかかわらずすぐに右折する行為)がはびこっていたことも関連している。交通安全の啓発を兼ねた狂気のネタツイであった。
しかし、その根底には何かを見下したいという願望があった。
先ほど優先度がうんぬんで示した通り、右折車の優先度は最も低い。
言い換えれば、右折はザコである。
自分よりザコのもので、人を傷つけないちょうどいいものが、右折だったのだ。
つまり自分より弱いと思われる概念を利用し、憂さ晴らしと悟られない範囲で憂さ晴らしをしていたのだ。仮に悟られたとしても、右折は遍く車の運転者がする行為であり、特定の誰かを貶めるものではない。
様々な情報が行きかうストレス社会を我々は生きている。そんな中で、ストレスを発散する経済的・時間的・心理的余裕はあるだろうか。
ふいに発した言葉が、誰かの地雷で、誰かを傷つけてしまうかもしれない。
それがまた、ストレスとなって、負の循環が生じる。
狂気とは、ネタツイとは、ひょっとするとそれを脱する鍵なのかもしれない。
だって笑いの原因は「認知のずれ」だったりするし。
その証拠に、一番面白いひらがなは「ぬ」だとされている。
「はいはい、どうせ『め』でしょ」って思ったら、最後にくるっとして、「うおおおおおそこで回るんかあああああああ!」というみたいな。ごめんたとえ分かりにくかったかも。
まあ自分にとっての正義が誰かの悪で、その逆も然りっていうね。
その中で、突飛な発言が、人間の価値観を超越して、いさかいを生じさせないものになるのかもね。まあそれが度を過ぎると宗教とか厄介なものになるのかもしれないけど。
そんなわけで今日の更新はこれでおしまい。良いインターネットライフを。
それでは、おやすみなさい。