
「自分の存在価値とは?」対話カフェそもそも レポート#43
【開催日時】
2024年9月14日(土)
13:30~15:30
「自分には存在価値なんてない……」
そんな不安にとらわれたことはありますか?
どんなときにそう感じましたか?
生きているだけで偉い。
生きているだけで価値がある。
そんな意見もありますが、本当?
ていうか、そもそも存在価値って何?
10代・20代で対話したレポートです。
はじめの問い、テーマに思うこと
まずはテーマについて抱いている問いや、思うことを挙げていきます。
「お金を生み出せることに存在価値があるのか?」
「自分の存在価値を他者に委ねるのは危ない?」
「なぜ人と比べてしまうのか?」
「若い人が自分の存在価値を見失いがちなのはなぜか?」
「自分の存在価値に囚われずに生きていくにはどうしたらいい?」
「存在価値は可視化できる?」
「どんな存在価値があるのか?」
「存在価値を感じていないと生きるのは難しい?」
「存在価値を見出すにはどうしたらいいのか?」
「存在価値を感じるのはどんなとき?」
「なぜ存在価値を求めるのか?」
これらの問いが挙がりました。
どんな存在価値があるのか?
まずは具体的な例をあげていきます。
「さっそく質問です。お金を稼げることは存在価値に入りますか?」
「そのひとつだと思います」
「存在価値は大きく分けるとふたつ。ただ存在しているだけで感じる価値。もうひとつは、お金を稼ぐとか、人の役に立つとか、何かすることによって感じてもらえる存在価値」
「存在しているだけの価値とは「生きているだけで、何もしなくても価値がある」というイメージですか?」
「そうですね、結局ほぼ無いと思いますけど、ゼロってことはないのかな」
「親が子に向ける愛とか。そういう両親はいると思います」
「親とケンカしたとき、親から「まあ生きてるだけでもいいか」と言われたことがあって。生きている事実があるだけで価値があるんだなと」
「誰かが安心してくれている、そこに価値がある」
「主観の価値と、客観の価値があると思っていて。先ほどのお金のことは後者に当てはまる。お金は数字で見えて、かなりの人が同じ認識を持てる」
「友達ができたときとかも、自分に価値を感じる」
「他には、自転車に乗れたとか。自分の中で嬉しいことだと、誰も見てくれていなくても自分だけが感じる価値として存在するんじゃないかな」
「それは成功体験とか、できるようになる喜びとかですか?」
「もっと広い。成功じゃなくて失敗してても、行動できた、とかだけでもいい」
「がんばっていこうと前向きに思えたことなら、価値になる」
「私も、お金を稼げることには価値があると思う。稼ぐことに限らず、自転車乗れたとか、ちょっとしたスキルの積み重ねで、自分を肯定してあげられる」
「今のとめっちゃ近いんですが……夜遅くに帰ってきて、お風呂に入れなかったときって「何やってんだろう」と思う」
「でも重い腰を上げてお風呂に入ったときに、「人間としてちゃんとできてる」って思うから、存在価値を感じる」
「自炊めんどくさいけど自炊したほうが自分を好きになれるって友達が言ってて。そういう人間の生活ができたときに、感じるのかなと思いました」
「質問です。もし宝くじ当たって3億円入ったとしたら、存在価値はめっちゃ上がるんですか?」
「迷ってはいるんですけど……お金があると将来役に立つし、充実した生活を送りやすい。その観点だと価値はある」
「稼ぎは少ないけど、絶対誰かのためになる仕事って、見る人によっては価値がないのかもしれない。とくにお金の価値を重く見てる人には」
「そんなことを最近考えていたので、問いにしました」
「実際に1,000万くらいもらってもいいと思える仕事で200万しかもらえてないとか、そんなズレがある場合、自分だったら1,000万もらえるはずなのに!と否定が入ってしまう」
「そのギャップを埋めるにはどうしたらいいんだろう」
「とりあえずまとめると、金融資産があることで、それなりの存在価値はある、ということですね」
「それって、誰にとっての価値なんでしょうか? 誰が価値を感じているのでしょうか?」
「裕福な環境に育った人や、裕福な人が多いコミュニティにいる人は、お金を持っていることが重要視されていると感じたことがあって」
「私はその人たちの気持ちもわかるけど、別の軸で考えると、お金が無くても誰かのためになっているならそっちも価値がある」
「整理しておくと、「お金がある人には存在価値がある」という意見がありました。これには「お金がない人には存在価値がない」という意味を含んでいませんから、誤解のないようにお願いします」
「お金を持っていることに価値を感じるのは誰?という問いには、そう感じる裕福なコミュニティがある、という答えになります」
「客観的な自分の存在価値は、コミュニティに依存するんでしょうか?」
「自分が重視していることと、周りが価値を高く見ていること、どのように折り合いをつけていくのかが大事に思いました」
「一旦整理します。いま、4つの問いを同時進行している形になっています」
・お金を生み出せることに存在価値があるのか?
・存在価値は可視化できる?
・どんな存在価値があるのか?
・存在価値を感じるのはどんなとき?
「これらを並行して扱っていることとさせてください」
「存在価値を感じたときのエピソードを、他にもあげていただけますか?」
「具体例をもう少しあげておくとたぶん対話がしやすくなると思います」
「逆に、存在価値とか感じたことないです、って方はいますか?」
「ネガティブなときに「存在価値がないんじゃないか」って考えることはあります」
「私はふたつあって……。まず、長期休みになると何もできなくなるんですけど、そんなときに「自分の存在価値ってなんだろう?」と思う」
「何かをがんばってたり、友達といるときは、どこかしら頼られているとか、いないといけない存在になれていると思えて元気になれる」
「私は未経験の職種に転職したんですが、そこではあまり存在価値を感じられない。どうやったら会社に貢献できるかわからなかった」
「年数が経って、貢献できる方法がわかったとき、存在価値があると思えた」
「休日は楽しく過ごしているので、存在価値とかに囚われずに生きています。やりたくないことをやらなくていい、自由なとき、存在価値のことは考えない」
「楽しい時間に夢中になってるときは、確かに存在価値のことは考えない」
「休日は存在価値そのものを見てない。働いても貢献できていないときは存在価値がわからない。見てないと、わからないの違いはあると思う」
「今のお話は「存在価値に囚われずに生きるには?」の問いの答えにもなっていますね」
「楽しいとき、自由を感じているときは、そんなに囚われずに過ごせそう」
「私が存在価値を感じるときはふたつあって……ひとつめは、人を笑わせたとき。もうひとつは、価値観が大きく違う他者との付き合いを通して、自分の価値観を受け入れてもらえたときに、自分の存在価値を感じました」
「自分を受け入れてもらえたわけですね」
「私が存在価値を感じるのは、他者や家族に良い影響を与えているときや、恩返しできているとき」
「あと、自分で自分に納得しているとき。充実していると、存在価値があると思える」
「私は今まで存在価値を考えてこなかったけど、先ほどのお話のように、楽しいから忘れていることが多かったように思う」
「楽しいことに没頭しているときは忘れていられる。それが終わって、現状が何も変わっていなければ、自分の存在価値を考えてしまう」
「存在価値を感じるのって、一度「存在価値がない」と思ってからなのかな?と皆さんの話を聞いてて思いました」
「何かしなきゃいけないけどできてないとか、何したらいいかわからないとか、そこから「できた」「わかった」と思える状態が、存在価値を感じるのかな」
「若いときは存在価値を見失いがち、という問いと、今のお話は繋がるように思う」
「若いと、何したらいいかわからないって状態が多い。だんだん年をとっていくと、できることや影響を与えることが見えてくるから、存在価値も見えてくる」
「年を重ねるごとに、よく見えてくる、と」
「解像度が上がるって感じですね」
「考えてみると、これまでのお話は、どうやったら存在価値に囚われずに生きていけるか?の問いの答えも出てきていますね」
「私は、存在価値に囚われないことを良いことだと思ってます。存在価値を感じないときが「良い」と思う。皆さんは、存在価値を感じる瞬間を良いこととしているように思う。そこは認識を確認したい」
「では、「私には存在価値がある」と思える瞬間にポジティブな印象がある方は挙手をお願いします」
全員が挙手しました。
「これはコンセンサスが取れました。では、存在価値を忘れてるくらい没頭している時間もポジティブだと思う方は?」
「何に没頭してるかに依ります」
「なるほど、確かに。悪事に没頭しているのはよくない」
「では、善行に没頭すると限定した場合はいかがですか?」
こちらも全員が挙手。
「では、ここもコンセンサスが取れました」
「どうやったら存在価値に囚われずに生きていくか、没頭以外の方向はあるのでしょうか。この問いは一旦保留にさせてください。次の問いに進みます」
若い人が存在価値を見失いがちなのはなぜか?
ひとつ答えは出ましたが、改めて考えてみます。
「さきほどと違う視点や意見があればお願いします」
「若ければ若いほど価値があることもある、と思っていて。それは、未来の可能性。可能性の幅が広ければ広いほど、また可能性があるだけで、存在価値になる」
「つまらない人生であることが見えている人だと、あまり存在価値を感じられないのかも、と思う」
「こういう種類の存在価値は若い人のほうが多いと思います」
「私は、年を重ねたほうが経験も増えて制限もなくなってくるので、存在価値を感じやすいと思う」
「可能性に価値を持つのは難しい」
「私は、相手に依存するからじゃないかなと思いました。例えば恋愛のいざこざで自殺する人とかは、存在価値がわからなくなって、そうしちゃうのかなと」
「相手に依存して、関係がダメになって、自分の存在価値がわからなくなって……という人は多い気がする」
「経験を重ねるにつれて、依存に頼らない自分が確立されていくと思う」
「恋愛で依存したときの存在価値って、相手の中にあるみたいなイメージですか?」
「承認欲求に近いイメージです」
「私が思うのは、経験だけじゃなくて、そもそもの目的がない。それで、勉強とか、学生生活のモチベーションとかが無くなって、自分を否定したくなる」
「あと、自分と他者との比較や、自分と目標とのギャップもあると思います」
「若いとメンタルの上下も激しいので、ちょっとした失敗で落ち込みすぎちゃうから、存在価値も見失いがちなのかなと思いました」
「目的がないと、確かにがんばれないですね」
存在価値の判断は、ほぼ主観?
判断しているのは誰?
「ここまで聞いてきて、存在価値のエピソードや定義は、ほとんど主観ばかりのように思えました。誰かから「君には存在価値があるよ」と言われたことはあまりないと思います」
「他者からから信じられると、がんばろうと思えて、存在価値を感じることはあります」
「それも、きっかけは「信じられる」であって、存在価値があると認定しているのは自分では?ということなんです」
「客観的な事実があって、それを自分が認めるってことですね」
「そのとおりです」
「価値があると言われることはあんまりないですけど、「価値が無い」と言うことはわりとあるような。◯◯するやつは生きてる価値ない、とか」
「確かに、否定されることはありますね」
「もし会社で昇進したら、社内での価値は上がっていますよね。それを感じるのは自分だけど、影響が外に大きい場合は、自分で決めたと言っていいのか気になります」
「そうですね、どれだけ社会的価値が高まったとしても、本人がそれに価値がないと思っていたら存在価値はないことになるので、主観なのかな?と思ったんです」
「他者が100%決めることってほとんどないんじゃないかな、と」
「客観的に99%価値がある場合で、本人には価値がないと思っていても、それを本当に価値がないと言い切るのは何かひっかかります」
「ただ、他者が決める存在価値と、主観の存在価値、この2つは分けて話したほうがいいかなとは思いました」
「確かに客観視で否定はありますものね」
「否定された人が、その内容に存在価値があると思っていたら、存在価値があることにもなると思います」
「アンチが多い人も、アンチを呼ぶだけの何か行動をしていて、そこに価値があると思えていたらそうなりますよね」
「私は、他者から仕事を批判されても「私はここに価値を生み出しているから」と思える。主観が多いのかな、と思うので、主観中心でもいいのかなとは思います」
「まあ、主観と客観をごっちゃにしないように、ってくらいですね」
「自分が俯瞰しているところはあると思っていて……本当に主観だけだったら、価値とかは考えないと思います。主観でありながらも、自分の中の客観みたいなのもあって、そこもすべて主観と言っていいのかという危うさは感じます」
自分の存在価値を他者に委ねてしまっていいのか?
100%委ねるのは危険?
「恋愛とかで、「彼が私のことを必要としてる」が唯一の存在価値になっている場合はどうでしょうか?」
「それは危険すぎると思います」
「同意します。超わかります」
「しちゃいけないと思います。そうじゃない、という人はいますか?」
「危険じゃない可能性も私は持ちたい。例えば熱心な宗教の信者は、神を信じているからこそ、安心して暮らしていると思うんです」
「自分でどうしようもできないことをすべて神に預けてしまう。これは安泰であると思っていて……これを人間相手にやるのがいけない。人間は変わる可能性がある」
「絶対に変わらないものに委ねるのはひとつの道だと思います」
「世界を見渡すと、そういう人は多そうですね」
「恋人の思う自分の存在価値が自分のイメージより上だった場合、釣り合うようにがんばろうとしたり、付き合うことで自分の価値を高く感じたりすると思うので、そのパターンも健全かなと思いました」
「恋愛だけじゃなくて、受験とかも、偏差値とか大学のネームバリューとか、依存しすぎるのはよくないけど、そこに価値を置くのは悪くはない」
「信仰先をたくさん作ることは、依存先をたくさん作ることにもなるので、これも健全なことだと思います」
「価値基準の話も同じで、自分の価値の判断基準をいろんなところに持っていく。そのほうが、価値を見誤りにくくなるんじゃないかな」
「それで言うと、自分は友人のグループを何個か作っていて……どこかで仲が悪くなっても違うグループに居場所があった」
「いろんな場所に自分の存在価値を生み出せる場所があると、どこかを失っても、他の場所で価値を生み出せる。分散していくといいなと思いました」
「とてもおもしろいです。存在価値は単一じゃなくて、グループやコミュニティごとにあるわけですね」
なぜ人と比べてしまうのか?
どうしても比較してしまう?
「自分が全然動けてないときに、インスタのストーリー見て、めっちゃ楽しそうとか思ったときに、「自分何もできてないじゃん」って思ったりする」
「同じような経験がある方は?」
ほとんどが挙手しました。
「みんなある、ということで」
「他人と比べたりするのは、そもそも社会がそういうふうにできているから。競争社会だから。他者と競いあうのが前提になっている」
「それが悪いと言うわけじゃないんですけど、比較したくなるのはそういう理由なのかな、と」
「SNSの影響は大きそうですよね。どこ見てもキラキラしてる」
「充実してるところしか載せてないですよね」
「……と、わかっていても、見たら落ち込む?」
「ですね……」
「私は、そういったキラキラした情報に価値を置きたくない。先ほどの他者の評価とつなげると、後輩の仕事のミスの尻拭いをしているとき、自分の価値観上がっていると思っていて。自分がいるから後輩が守れてるんだ、みたいな」
「それってキラキラしてないんですよ。泥臭いし、怒られる。地味だし、光ってないけど、価値がある瞬間だと思ってます」
「人前には見せないところや、他者との地味な時間に、私は価値を置きたいなと思ってます」
存在価値を感じていないと生きるのは難しい?
生きてるのがつらくなってしまう?
「というよりも、つらくなったときに存在価値がないと、生きてる理由がなくなるから……」
「それだけで死ぬかっていうと微妙ですけど、まともな生活は送れなくなりそう」
「つらくなったときに、存在価値が支えになる?」
「命綱、じゃないですけども……」
「命綱、いい表現ですね」
「命綱として、どんなものが挙げられますか?」
「自殺を考えたときに、「君が死んだら悲しいよ」とか言ってくれる人がいればギリギリ踏みとどまれることもあるだろうし」
「生きてるのがつらい。かつ、存在価値を見出せない。この2つが揃っている状況で生きるのは相当難しいと思う」
「これは共感する方、結構いますね」
「死にたくなるまではいかないけど、無気力になったりはします」
「自分、空っぽだなあって思えて、メンタル落ちます」
「私は死にたくなるくらいの経験がないのでわからないけど、そうなったときに、例えば「お腹が空いた」とか、そういうのでちょっと踏みとどまれるのかな?と思ったりします」
「「なんだ、お腹は空くんだ」みたいな」
「原始的欲求が命綱になってる感じですね」
「私は、自分が誰のためにどんな感じで役立っているか結構考えてしまう。毎日同じ生活が続くと、誰のためにがんばってるんだっけ?って結構わかんなくなって……自分空っぽだから振り返らなきゃと思って、今やってることが誰のためになっているか振り返る時間を作ってます」
「私は、存在価値を自分自身で感じられていないと、つらいと思います」
「存在価値が命綱というのはわかるんですけど、逆に縛りにもなると思っていて。存在価値に縛られすぎて、それ以上の価値を見出せなくて死んじゃうとかもある」
「できると思ってたのにできなかった、とか」
「自分に対する期待、みたいな?」
「そうです、期待に近いかな。それが縛りになっちゃうこともあるなと思います」
「私は最初の意見の通り、存在価値から逃れたい、忘れたい、囚われないというのが根源的に大事だと思います」
存在価値を見出すにはどうしたらいい?
どうすれば見つかる?
「これは、自分の存在価値ですか?」
「そうです、自分の存在価値で」
「存在価値を感じたエピソードとかがいいかもしれないですね」
「私は、今日のこの場がいろんな人の存在価値を知れたから、「自分が感じたことのない存在価値の人の話を聞く」のはいいと思います」
「他人の価値観を聞くのは、見え方が広がる」
「私の場合は……今日の対話もそうですし、このあと帰っておいしいもの食べるとか、これって昨日自分が死んでたら絶対にできないこと」
「つまり、この世界にある比較的良いものに触れるための媒介として自分の肉体が機能している。肉体そのものが、自分にとって役立っていると思えるときはあります」
「ただこれは、感じているというより、理屈で考えたらそうだよね、という面はありますね」
「生きてるだけで偉い、に近い」
「何かを大切にしてみる、というのはどうでしょうか? 例えば道端の石ころを拾って、そこに意味付けをする。意味づけしていくと、自分にも意味づけされていく」
「なるほど、相手を大事にするとか」
「相手を大事にすると、それが自分に返ってくるから、価値としてつながってくるんじゃないかな」
「なぜ石ころだったのかが気になります」
「あえて、あまり価値がないもの例えで出しました」
「ペットはいいかも。ペットを大切にするし、自分のおかげでペットは生きているんだとも思えますよね」
なぜ私たちは存在価値を求めるのか?
なぜほしいんでしょう?
「存在価値って目に見えるものか、ちょっとわからなくて。ふわふわしてる。数値化されてない。そこがまだわかってないです」
「いま自分が持っている存在価値はあたたかいものだと思っていて、ありがとうとか、愛してるよとか、あたたかい言葉を投げかけるのが、さっきの大切にすることにつながっている」
「ただ、それが返ってくるかは別じゃないですか、そこが定量化できない。送ったぶん、返ってきてほしいじゃないですか。返ってこない場合もある」
「シンプルに、わからないから求めているのではないでしょうか?」
「さっきの「ふわふわしている」とも通じますね」
「そうです、形としてわからないから求めている」
「今、必要としてないとおっしゃる人も、実はわかるなら欲しいと思いませんか?」
「今の自分だったらそうなんですけど、もし縄文時代の自分がいたら、そんなこと考えないと思います。僕らは自己ってものがあるから、それに対して評価がほしい」
「もし自己が希薄な状態だったら、存在価値なんて存在しないと思います」
「じゃあやっぱり、社会状況との関わりも……」
「あるかなと思います」
「明治時代の人は存在価値を考えたと思いますか?」
「明治は考えてそう。縄文はないかな」
「文化的な生活が出てきてから?」
「個人主義的な社会になってからかも。文明の発展より、個人主義の発展なのかも」
「今は就活とか進学とかで、自分の価値を見つけて伝えないといけないから大変ですよね」
「要所要所で求められますものね……」
「見つけて言語化するの大変ですよね」
「キャリアのことで悩んでると、存在価値のことが気になるんだと思います」
「ひとつは、ふわっとしてるからかなと思います。前提がふわふわしているので、求めても掴みづらい」
「残り時間少なくなりました。何か言っておきたい方はどうぞ」
「私は存在価値から逃れたいんですけど、それには楽しいというのが一番の方向だなと思っていて。でも、楽しいがどこから生まれてくるのかわかってない。そもそも楽しいがどこから生まれてくるのかをいつか掘り下げたい」
「また、楽しいことは肯定的に評価されているけど、それを本当に肯定していいのか、問いにしてみたい」
「存在価値を忘れるために楽しいを使っていいのか?も気になります」
「私は、今日ここに来るまでは「価値がある」って表現を「誰かの役に立つ」って意味で使ってたんですけど、今日話してみて必ずしもそういう意味合いではないとわかった」
「例えばお金があれば価値があるとか、それは私自身にはどうでもいいんですけど、役に立つどうこう以前に価値がある、という認識の方がいらっしゃることを知れました」
「今日話してて、存在価値に縛られてるな、って思うことが多いことに気づいて。お風呂に入ることも、「入らなきゃ人としての生活送れてない」って、自分が自分を縛ってるところもあるなって」
「存在価値があることで、一歩踏みとどまれることもあるけど、逆に縛られすぎるのも良くないのかなと思いました」
このあたりで時間いっぱいとなりました。
ファシリテーターの思うこと
自分の存在価値がわからない、という悩みは多いと思います。
対話を通して見えてきたのは、そもそも存在価値という言葉がふわっとしており、何が存在価値にあたるのかわからないということ。
はっきりしないものがわからないのは、当然のようにも思いました。
また、何もできていない自分や、がんばれない自分を認識したときに「自分には存在価値がない」と思うこは、「存在価値が欲しい」と言えるのかもしれません。
誰かの役に立つこと、何かに向かってがんばること、前向きに生きること、大切なものを増やすこと。
こういった行いを通して、自分の存在価値が得られるかも……というヒントが得られました。
参加してくださった皆様、ありがとうございました。
次回の開催案内
次回は2024年9月28日(土)開催。
テーマは「教養とは?」です。
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