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「長生きしたい?」対話カフェそもそも レポート#49

【開催日時】
2024年12月7日(土)
13:30~15:30

日本人の平均寿命は、男性81才、女性87才。
制限されず日常生活を過ごせる健康寿命の平均は、男性72才、女性74才だそうです。

平均寿命くらいまで生きたいと思いますか?
そうでもない?
老いへの恐れはありますか?

長生きや老いについて、
10代20代で対話したレポートです。

はじめの問い、テーマに思うこと

テーマについて抱いている問いや、思うことを挙げていきます。

はじめに、長生きしたいと思うか、単刀直入に参加者の皆さんに聞いてみました。

長生きしたい……3名
長生きしたくない……2名

という結果となりました。
ここから問い出しスタートです。

「長生きして、いいこと、悪いことは何か?」

「長生きは、いつ、誰が決めるのか?」

「長生きすればするほど孤独になっていく。その孤独に耐えられるか」

「義理の祖母が大往生したんですが、晩年は心臓を悪くして、足を悪くして、認知症になって……と典型的なコースだった。私が会いに行ってもあまり覚えていなくて、昔のことをよく話していた」
「長生きすると、毎日の時間の積み重ねは同じでも、昔のできごとのほうがウェイトが重くなるのかな、と」
「私自身は最初面食らったけど、自然の摂理だからしょうがないな、と。ただ、昨日今日のことは忘れているのに、昔のことをすごくよく覚えているのはすごくおもしろいと思いました」

「単純に、長生きすることっていいことってなんだろうか?って思います」

「長生きの孤独と聞いて……
黒柳徹子が「自分の子どものころを知っている人、若いときに同じ時間を過ごした人はみんな死んでしまった」って言ってたのを思い出しました」

「自分の子どものころを、自分だけしか知らない」

「誰とも共有できないのは物悲しい……想像に難くないです」

「タイムリーですけど、有名人の方が54才で亡くなったニュースもあって。54才だと長生きとは言いづらい」

これらの問い、思うことが挙がりました。

長生きは、いつ、誰が決める?

まずは定義を掘り下げてみます。

「私の中での長生きはこういうことだ、という、自分なりの長生きの定義を教えてください」

「パブリックイメージとしての長生きは、社会の状況で決まったり、平均寿命との比較になると思います」
「私は、何かしらを残せたら、死んでもいいと思う。自分で何かしらの区切りがついたら長生き。何かを後世に残せたとか、満足できたと思えたら、じゅうぶん長生きなんじゃないかって思います」

「だとしたら私は、じゅうぶん長生きしたなという感覚があって。12才のとき、友達と一緒に死のうね、って約束したんです。その約束を無碍にしたというか……やっぱり生きようよ、ってなって」
「それで、私の人生が終わっちゃった、逆に始まっちゃったって感覚があって。あのときにあの子を止められたから、私はもう大丈夫、残せたなって思えます」

「そういう意味ではひとつ達成感がある、と」

「何かを達成したら長生きしたというお話で、目標がたくさんあるような状況、あるいは目標が果てしなくてなかなか達成しない人は長生きしたことにならないんでしょうか?」

「大金持ちになりたいとかだったら、100年200年生きても厳しいかもしれないんですが……自己満足に重きを置いているので、大したことじゃなくてもいい」
「行きたかったお店に行ったとか、誰かと遊びに行ったとか、少しずつ満足するじゃないですか。それこそ一生病床に伏して何もできなくても、病床から見える景色がきれいだったとか」
「小さい積み重ねがあっての長生きだと思うので、大きなことを成し遂げなければという考えではないです」

「私は主観か客観かで変わると思っていて。例えば私は絶対にりんごが食べたい、りんごを食べるために生まれてきたと思った人が、りんごを食べてああよかったと思って死んじゃっても、その人が満足するならいいかなと思う」
「でもそれは客観的に見て、家族や友人や周りの人は、「りんご食べて満足しちゃったの?」ってなるはず。なので、主観と客観で変わると思います」

「すり合わせだけしておきましょうか。主観的な「私の長生き」と、客観的な「誰かの長生き」をごっちゃにして話すと混乱すると思うので……主観の長生きと、客観の長生きは、しっかり分けて考えるということでいいですか?」

(一同頷く)

「ありがとうございます、では分けて考えていくということで。では、どちらの話をまずしたいですか?」

「客観的なのは、社会状況によるし、平均寿命もあってわかりやすいので、それよりは個人的なほうを話したいです」

「では、世間一般の思う長生きや、客観的な長生きではなく「私の思う私の長生き」について話していくことにします」
「そうなると、誰が決めるのか?については誰が決めていることになりますか?」

「自分にしか決められないと思います」

「みなさん頷いているので、誰が?は自分でよさそうですね」
「そうなると、何をもって長生きとするか?」
「ひとつは、時間の長さではなくて、何かを残せたか、があがりました」

「正確には、自己肯定できるか、です」

「自己肯定できる場合と、自己肯定できない場合があるじゃないですか。ここは自己肯定できるけど、ここは着手してない自己課題で、ある程度しかできていないような場合は、自己肯定はどうなりますか?」

「個人的には、落としどころというか、及第点というか。これくらいできたらいいんじゃないかな、みたいなのをざっくりと考えてみて、後悔があっても及第点だと思えたら。余白や失敗があっても自己肯定できて長生きできると思う」

「及第点だから、全部の目標を達成してなくても、気持ちの落としどころがあれば、それはある意味の達成じゃないか、と」

「私は、自己肯定よりかは、他者からの肯定かな、と思いました。
バタフライエフェクトってあるじゃないですか。蝶が飛ぶだけで未来が全部変わっちゃう。あんな感じで、人間って生まれて生きて死ぬだけ、それだけで意味があると思う。何も残さなくても、ある意味では他者から肯定されてる」

「私は、自分が想定している自分の寿命より長く生きたら長生きかな、って感覚があります」
「平均寿命より長く生きたらもあるんですけど、病気多い家系とかだと平均寿命より短く想定していたり、家族の亡くなった年齢を意識していたりする」
「私の場合は祖父母が90才まで生きている長生き家系なので、自分が長生きしたなと思えるのは遠いイメージなんですけど、基準としては自分の想定があるんじゃないかなと思います」

「その基準が、家族が亡くなった年齢だったり、家系に由来したりとかってことですね」

「よく聞くのは、親が病気で若くして亡くなっている人が、親が亡くなった年齢に到達したら「ここまで生きたんだ」って節目に感じる」
「その時点で長生きしたという感覚はあると思います」

「私は、自分の中での長生きは、生きた年数としか捉えてきてなくて。70才くらいまでだったら仕事はできると思うんですけど、仕事をできる年齢以上に生きたら長生きかなと」
「お金をもらって何かを提供できるのができなくなるところ、そういう活動ができるときって元気なときだから、そこを過ぎると長生き」

「今のお話でお金を稼げるって話がありましたが、お金じゃなくても、家庭菜園とかボランティアとか……労働とか経済活動じゃなくてもって、ってことでいいですか? 大きな意味で生産性がある、というか」

「そうです、そういうことです」

「質問です。そこには趣味も入りますか?」

「自分の中ではまだ抽象的なので……ちょっと何とも言えないです」

「私も質問です。ある種のギブアンドテイクというか、仕事をして給料をもらうような関係が続けられなくなったら……とおっしゃっていたんですけど、体が動かなくなったりして、与えられることばかりの期間になったら、それはどうでしょうか」

「そういう状態になるところまで生きたら、長生きって認識です」

「与える量と与えられる量の天秤が大きく傾いて、与えられる量の方が増えたら、長生きに入ったと言えるんじゃないか?と」

「年数ではなくて、ってことですよね」

「そうです」

「私は、聞いていて「自立」ってキーワードが関わってくると思いました。自分のことも他人のこともわからない、生きているか死んでいるかもわからない状態で生きている人がいるじゃないですか。その状態では、人を頼るということがすごく大切だなと思う」
「さっき孤独の話も出ましたけど、生きるって誰と生きるんだろう?って。長生きするにしても、一人で生きるのか、結婚して二人で生きるのか、子どもは産むのか、かなり分岐がある」
「そこで、人を頼れるか、さらに他人を頼るか、身内を頼るかで気持ちが変わる。どこに頼るかは大事」

「与えられているにしても、誰から与えられてるかの違いはありそう」

「私は個人的に、重度の知的障害者の方々などをボランティアで支援とかをさせていただいてるんですけど……。人間が死ぬことは一人でもできる。でも生きるには誰かがいないといけない、と実感します」
「誰かと一緒に生きるってことを考えると、一緒に生きることを強いていないか、重荷になっていないかとも考える」
「障害者の家族と話す機会も多くて。日々、皆さん試行錯誤して苦労はしてらっしゃるんですけど、それを苦痛を感じているようでもなくて。そういう関係はすごく素敵だなと思っています」
「大変さはあるけど、心理的には全然負担じゃないし、むしろ新しい気付きもある。さっきの、与える与えられる関係のように……長生きして支えてもらうにしても、支えてくれた側に精神的なメリットがある人間になりたいなと思います」

「祖父母と一緒に住んでいるんですが、今朝、「長生きしてよかったことと悪かったこと」を聞いてきたんです」
「私の家は飲食店をやっていて、数年前に閉店したんですけど、「仕事を長くやれたことが長生きしてよかったこと」「仕事が楽しかった」と。「大きな病気もしなかったし、苦しいと思わなかったし、いいことを思い出して嫌なことを忘れるようにして、今が一番しあわせ」だと」
「あと「健康の秘訣は仕事だ!」って言ってました」

「仕事を長く続けてこられたこと、達成感がありそうですね」
「悪かったことは何か言っていましたか?」

「悪かったことは……あまり孫には話さないのかも」
「あと、祖母は85才なんですど、「自分のことを長生きとは思わない」って」

「へええ」

「「生きてたらこんな年になっちゃった」って感覚らしいです」

(一同笑)

「長生きの中で、健康かどうかって重要ですよね。ただ長生きか、健康で長生きか。人によって違いそう」

「私も、長生きしたいとは言ったんですけど、ある程度体が動いて、頭も回ってって前提がある」

「「長生きしたい」に手を挙げた皆さんは、体も頭も健康で長生きしたい、ということでよろしいですか?」

「私は何がどうなっても長生きしたいです」

「私は、健康じゃなくなったら死にたいってことはないんですけど、まあ理想として、健康のほうを考えちゃいます」

「指標として、健康寿命とかも出るようになりましたよね」
「統計としては、女性のほうが健康寿命が短いので、女性は何かしら制限がある状態で長生きしてる人が多いことになってます」

アンジェリーナ・ジョリーは、乳がんを防ぐために胸を摘出した話がありましたよね」

「うちの母親が入っている老人施設のスタッフさんによると、女性の何が制限かかりやすいかと言うと、歩行機能だそうです。女性の方が骨が弱くなりやすいのか、転倒して骨折して結果的に車椅子、が多いそうです」

「認知症になっても長生きしたいと思いますか?」

「はい。自分の醜い部分や恥ずかしい部分も見えたりすると思うんですけど、私がいることでたぶん誰かの助けになるなって思える環境にいさせてもらえているので、そうなりたいです。生きていたいです」

「「あなたが生きていることで、私はしあわせです」という人がいてくれたら、生きてる価値はあるわけですね」

「何をもって長生きとするか?という問いを一旦まとめるとに……与える与えないというお話、達成感や自己肯定感、想定した寿命、自立などいろいろ出ました」

「新しい問い、いいですか。私たちが長生きについて考えざるを得ない状況ってどういう状況でしょうか?」

長生きについて考えるのはどんなとき?

どういう状況で、長生きについて考えさせされるのでしょう。

「自分一人だったら、体が痛いとか、機能が衰えたりとか、自問自答ができる」
「寿命について考えると、どうしても指標が外になってしまう。さきほどの親が亡くなった年齢とか、身内の健康とか」
「人と関わるからこそ、老いについて自然と考えてしまうのかな」

「例えば、どういう人と関わるととか、具体的な例はあったりしますか?」

「老いた親戚と会うと、これが老いか、と漠然と感じさせられる」

「私は、鏡を見て、自分の髪が伸びた、肌が荒れてるとか、そういうのを見るたびに……」
「鏡が無かったら、「私」という認識が甘いんじゃないかなって思って。なので、やはり他者が必要になる」
「1300年代くらいだったかな、鏡が普及したあとの自己と、する前の自己ってたぶん違ったんじゃないかなって」

「それ以前は確かに水鏡や銅鏡とかあったと思うんですけど、鏡ができたことで解像度が否が応でも上がってしまった。文明の進化によって、人間は死や老いについてもっと主観で考えるざるを得なくなったのかな」

「老いとか死についての情報が増えていて、かつ、より解像度高く意識させられている」

「問いの答えとしては、自分を振り返ったときとか、他人の老いや死を見聞きしたときがあがっていますね」
「他にありますか?」

「「
人生100年時代」というワードを聞くと、すごい考えさせられます。100年まで生きられる時代なんだとか、生きなきゃいけないのかとか、そういうのですごい考えさせられます」
「耳にすごいフィットするワードなので、考えるきっかけになってしまう」

「政府みたいな発信力があるところが、しかも「100年」って具体的な数字を出している」

「インパクトがすごい」

「そうなると逆算して、私まだこれだけ生きるの?って」

「そうなんです、こんなにもまだある?って思って、長生きすることに考えちゃうのかな、って」

「70才まで働くとしてあと30年何するの?ってなりますよね」

長生きのいいところ、悪いところは?

メリット・デメリットを考えてみます。

「年金や税金でこんなに持っていかれるのか、という嘆きを聞いたことがあって。私達は老いていくんですけど、払ったぶん戻ってこないんじゃないか、っていう不安みたいなのもちょっとあります」

「元取れるのかという不安はよく聞きます」

「人との関わりについて考えると、メリットは長生きすることで人との関わりは否が応でも増えていくので、合わない人がいても新しい出会いがあって切り替えやすい」
「デメリットはやはり孤独、積み上がってきた関係が消えてしまう」

「長生きは、私の定義だと多く経験すること。多く、自分の感情が揺すられること。いろいろなことをたくさん知る、学ぶことそれ自体がいいことかを考えたときに、私の結論は、いいとか悪いとかではなくて、しょうがないこと。長生きすれば当然のこと」
「それをいいとか悪いとかってどこで判断するのかって問題があって、死ぬ直前で良かったと思うこともあるだろうし、生きてる過程でいつも楽しく感じることもあるし、どこで良かったか悪かったか判断するポイントも重要なんじゃないかって気がする」

「何をもって、いい悪いとするか」

「たとえば、財産を失ったときに、これは悪いことと思ったとしても、そのあと復活したら良かったとなるわけで。自分の人生はトータルで見て、惨めと思うか良かったと思うかは見方によって全然違いますよね」

「学校の教授がお坊さんをやっていて、印象に残っている話がありまして」
「ある檀家さん、Aさんはとても謙虚で、むしろ自虐的なことをよく言う人だったけど、亡くなってみたら親戚縁者はみんな大号泣で、すごい人だったよ、って。長生きをして、そう人に思ってもらえるのもメリット」
「別の檀家さんBさんは、傍若無人な人で、本人はすごく満足げで大往生だったらしいんですけど、親戚は「なんであんな人が畳の上で死ねたんだ、神も仏もないな」って」

(一同笑)

「長生きしていればそれだけ人に影響を与えるので、いい人だったらAさんみたいに死んだあとも良いことが語り継がれていく」
「Bさんみたいに変な教訓話として使われて、早く忘れたい存在みたいに言われるのもあるし」
「メリット・デメリットとしてはそういうことを考えました」

「死後の自分の評価って、死ぬ自分には関係ないですけど、影響はありますよね」

「最初にお話があった、長生きすることで孤独になること、これはデメリットですか?」

「はい」

「どういう孤独なのか、少し具体的に聞かせていただいてもいいですか?」

「私の祖父は、私の家族と住んでいて二世帯住宅みたいになっているんですけど、それでやっと生活ができている。頼ることで、一人で生きられるみたいになっている」
「頼る人がいない人は、孤独にかられて衝動的なことをしてしまうかもしれないし、孤独はつらいですし……」

「最近言われる「
無敵の人」って、全員がそうではないですけど、失うものが何も無いから人を害してもいいってなるのも孤独……自分を理解してくれない社会が悪いとか、そういうところに矛先が向いてしまう」
「個人の感情以外に、社会の利益を考えると、セーフティネットとして人との関わりは大切なのかなと思いました」

「孤独であるとあんまりいいことなさそうですね」

「質問です。長生きしたい?というところで手を挙げなかった方は、長生きについてデメリットのほうが強いと思ったんじゃないかと思うですが、いかがですか」

「そうですね……孤独とか孤立の話だと、自分の祖母が家族の自宅介護で暮らしているんですが、自分がその立場になったときにそうしてくれる人がいるのか?って想像がつかない」
「家族じゃないにしても、誰かに囲まれてその年まで生きていくのは想像つかないし、できる気もしないので、長生きしてもなあ、ってところがあります」

「さっきの話と繋がってますね、孤立するんじゃないか?と」

「そうですね」

「私は、メリットもデメリットもなんとなくあるんですけど、デメリットとしては……「生きるのって大変だな」って思うので、100年生きるとしたらそんなに長く繰り返していくのか、って。長生きしたいです、とはパッと言えない」
「メリットを感じたのは、「
葬送のフリーレン」っていう作品を見たときなんですけど……自分が長く生きることで、すでにいなくなってしまった人たちの価値観とか大切にしたものを、自分が未来に持っていける」
「大切な人が生きていた証明を、後世でもできるというのは、メリットとして素敵だなと、作品を見て感じました」

「フリーレンのテーマはまさにそこですものね。後世につないでいく」
「でも、生きるの大変ですか?」

「大変……生きるのって大変」

「何が大変ですか」

「うーん、楽しいことよりも苦しいことのほうが記憶に残りやすいし、そういう時間のほうが長く感じるので、このあとも「長いな……」って思います」

「ぜんぶつらいわけじゃなくて、大変さが上回ってる?」

「そうです、そっちのほうが自分の中では勝っちゃってる」

「いや、長生きしたい派ですけど、考えの根っこは同じなんでわかります」「私は今まで生きてきて、たまたま天秤にかけたら楽しいことのほうが多いし、消去法的に生きてみてもいいかな、って感じで長生きしたいなと思えているだけ」
「逆も然りで、何かあったら、長生きしたくなくなるかもしれない。自分はこういう考えの人間なんだ、と結論を出さずに、柔軟にそのときそのときで考える。先は長いから、自分を固定化せずに生きていくのは大切だなと思いました」

「お二人とも生きるのは大変だと思っているけど、微妙な差で長生きしたいかどうかが分かれるのは興味深いです」

「私は、この先大変そうだけど、長生きのメリットデメリットで考えたら……味がするというか……」

「噛めば噛むほど、みたいな?」

「そう! 噛めば噛むほど、積み重ねるほど、あれってこうだったんだみたいな伏線回収が起きたりして。その積み重ねは誰にも崩されないので、それがいいなと思いました」

「それこそ、マンガ読んでる最中に、この伏線なんなんだっけ?と思ってるところで打ち切りになったら嫌ですものね」

「ご自身の体験として、積み重ねの結果、あのときはこう思ってたけど、実はこうだったんだ、という経験がありますか?」

「あります。ピカソの絵を見たとき、学芸員さんに聞いたら、「人間を正面から見るのと横から見るのと違うでしょう? それを全部描いてるのよ」ってお話を聞いて、「あ、人間って多面体なんだ」って思えて」
「それから、久しぶりに会った同級生がすごく変わってたっていう経験もあって。人間って多面体だし、流動体だなとも思って」
「いま、そもそもカフェに参加する前の私と、あとの私ではたぶん違うだろうし。このたった数十分、数時間で変わるっていうのがおもしろくて、生きてる」

「変化していく自分の面白さを日々実感できてるから、この先も楽しそう、みたいな」

「最初に話していたバタフライエフェクトが、自分ではどうなるか楽しみって感じですね」

「というお話もありましたけど、やっぱり人生大変そうですか?」

「お二人のお話、めちゃくちゃわかります。伏線回収されていく感覚も体験したことあるし、なんだけど、大変さが勝つ」

(一同笑)

「その喜びもわかるけど、大変じゃんやっぱり、って」

「リアルタイムで大変さを感じてるってことですか?」

「いや、私は10代のとき。で、それを20代になってから伏線回収できたんですけど、その10代のときがやっぱり、1年が長く感じるから、そのキツイなって思ったのも長く感じて」
「生きる大変だな、まだ十何年しか生きてないのに、ってすごく思ってたのが、まだ自分の中にあるので、そう思っちゃいます」

「それこそ、昔の記憶のウェイトが重い」

「そうですね、うん」

「若ければ若いほど、総人生に対する比率で言うと1年は長くなりますものね。ウェイトは必然的に大きくなりそう」
「逆に言えば、長く生きていけば1年の比率は薄まっていくけど……」

「他に、デメリットはありますか?」

「デメリットとしては、過去が消えない。やってしまったことは変えられない、それを背負って生きるって言うのが」
「いくら積み重ねがあって楽しみって思ってても、それでもてっぺんに登るまでは背負ってて重いってのがあります」
「未来のことしか自分にはどうにかできない。それでも選択肢っていうか、権利が自分にないものもあって、最善を選んだ先が最悪なこともあって。それがもどかしくて。それも私は楽しいみたいなとは思う」

「過去は消えないし、悔いのない死なんてないですものね」

「2日前に献血に行ってきたんですけど、今日私が死ぬとしたら、いいことしたなって刹那的な喜びがある。もし私の血が原因でパンデミックが起こって、長生きしてそれを知ってしまったら、刹那的な快楽とかが塗り替えられてしまう」
「知らなければよかったってことはあるんですけど、長く生きてたら知る機会が増えてしまうので、限定的な感情が良くも悪くも変わってしまうのが、メリットでもありデメリットでもあるなと」

「さきほど、生きることは経験を積むことっておっしゃってたんですけど、経験を積み続けていったら、一神教で言うGODに近づくのかなって思って」
「神様に近い存在になれるかな?って思いました。もし1000年とか人間が生きられるようになったら……それは初心を忘れちゃうのか、それとも経験として全部持ち抱えていけるのか、とかも思いました」

「思考実験としておもしろいですね。1000年、頭も体もしっかりして生きていけたとしたら、どういう心境に至るのか」

「でも、神も一概に言えなくて、全能の父だったり、多神教だと一芸特化の人間だったり、神でもメンヘラみたいに人を信じられないから人間を試してみたりするじゃないですか」

「神と言っても賢者とは限らない」

「うまくいけば聖人になるかもしれないけど、逆に悪い方に吹っ切れたりとか? 基本、神であっても傲慢なんで……それこそ「俺は客だぞ」っていう人とか、年月を積み重ねねが増長させてしまうこともある」
「システムとして、長生きすると人間が増長して我が強くなると活動に支障が出る。そう考えたら、ある程度病気なりテロメアの限界で人間を間引くのは合理的」
「よっぽどのエラーが出る前に間引いちゃって入れ替えるのは理に適っているなって、考えちゃいました」

「1000年生きて、1000年レベルの老害になってる、1000年分のマウントをとってくる存在になってるかもしれない」

(一同笑)

「会ってみたい」

「私は1000年分のマウントをとってみたい」

「リアルタイムで聖徳太子に会ったことあるんだぞ、みたいな」
「清少納言に字を教えたのは自分なんだ、とか」

「昔の知人がお札になってたり」

「知り合いがお札に載ってるのやだなー」

「長生きしたい人に質問なんですが、思考実験として、自分の理想の肉体と脳がキープできるとしたら、永遠に長生きできるとしたらしたいですか? 死のタイミングは自分で決められるとして」

「したいです。理由は、死は多方面から来るもの、自分で死ぬってできないと思っていて」
「高いビルから落ちるとか、自分を刺すとか能動的なことをしないと死ねない。千年万年生きても、いずれどこかのタイミングで運が悪かったら死ねちゃうかもしれないので、そこまでは生きちゃおうって感じです」

「私もしたいです。それこそ私も大学入学で上京してきて毎日刺激を受けているんですけど、それが生きる活力になっているところがある。何百年と生きれるとしたら、新しい知識と経験の連続だし、不慮に亡くなるとしても最後に体験として死ねるじゃないですか」
「生き様としても終始一貫していて美しい。死のタイミングが決められるとしても、自分では決めないと思う」

「その延長で、死んでまた生き返れるとしたらどうですか?」

スワンプマン問題的な?」

「いえ、肉体は変わるという思考実験」

「輪廻転生したらめっちゃおもしろそう」

「つまりは、私たちの意識や記憶もWEBに残るかもしれない。それをまた新しい肉体に入れ込めるかもしれない。それが人間の形をしてなくてもいいんだけれども、それはひとりの人間と言えるのか?という思考実験もあるじゃないですか」

「私は、その仮の体がロボットだとしても生きたいですね。生きることを楽しみたいという欲望もあるし、きっと楽しいだろうという期待もある」
「いままでの人生の汚点を、未来の方々に向けて、反面教師にしてくれって気持ちもあります」

「ロボットとかハムスターに転生して自分と言えるのか、自分を定義するのは何か、って話はありますけど、わかりやすいのでいえばデカルトの「我思う、ゆえに我あり」で、疑問に思っている自分が紛れもない自分」
「でも難しいですね、何をもって自分が確立するのか」

「私が黒柳徹子さんの話でひっかかっていたのは、友達や知り合いがいなくなってしまうこと……そして今の例は、自分の肉体が変わっていて、周りの人間が前と同一人物だと認めない場合もあるわけですよ。人間関係が変わってしまう」
「自分の意識では私は私ですという気持ちがあったとしても、周りが認めない。逆に、自分という存在を複数作る可能性もある。そうした場合にどうなっちゃうのか?」

「メカ柳徹子」

「青柳徹子です、白柳徹子です、茶柳徹子です、みたいにデジタルならコピーできますね」

「そしたらどうなるんでしょうね……でも、どうなっちゃってもいいじゃないでしょうか。私は興味があります」

「そしたら、友達いなくてもいいってこと?」

「そうですね、私は人間関係は個人と個人だと思っていて。私とあなたという関係があって、それが友達と呼べる。友達は入れ替わっていってもいいと思います。新陳代謝みたいな感じで」

「生まれ変わっても、新しく作っていけばいいし、作れるだろうという期待もあるわけですね」

「それもバタフライエフェクトですね。基本の自分から分岐していく、みたいな。オリジナルがあってそこから増えていく、それを楽しめるって言えるのは発言が一貫していて、おもしろいです」

「つながってますね、一本筋が通っている」

「残り時間も少なくなってきたので、新しい問いがあればどうぞ」

「長生きする責任みたいなこと、考えてみたいです」

子の罪の責任は、いつまで親が背負うべき?

長生きしたらずーっと背負うべき?

「もし子どもを産んでしまったら、その子を育てていって、成人したら責任は終わりなのか?」
「犯罪を犯した人の親が謝罪するニュースが流れたりするじゃないですか。私が子どもを産んでしまって、そのあと1000年生きたら、その責任は1000年続くのかな?って」

「なるほど」

「末裔が戦争始めたりしたら、その責任があるのか?」

「私の末裔がすみません、みたいな感じになるのか」

「子の責任は、親がどこまで負うべきか? 家系図的に下の方まで責任はあるんでしょうか。元をたどると「あなたが産んだから」になってしまう?」

「でも逆に、自分がやらかして、末代まで責任が続くのか、とかも」

「祟られる」

「自分の責任だから責めるのは自分だけでいいじゃん、ってなるのか、どこまで人を責めるのか」

「NHKの「釣瓶の家族に乾杯」とかを見ていると、「ひ孫が何人もいるおばあさん」とかが出てきて、それがとても素晴らしいことのように扱われますよね。一人からこんなにたくさんの家族が生まれました、ってことを美徳とするというか。それはなんだか不思議だなと思いました」

「客観的に見たら、子どもをたくさん産んだほうが社会のためだから、生産性があるから、そういう背景で称賛されるのかも」

「確かに、社会の視点ですね、腑に落ちました」
「では、子の責任はいつまで続くのか?」

「個人的には、罪は個人のものなので、それを引き継ごうとかおこがましいなと思う。罪は死んだらおしまいだし」

「じゃあ子の犯罪を親は謝らなくてもよさそうですか?」

「世間体として、感情的に謝る気持ちはわかりますけど、個人的には犯罪教唆とかではないのなら、結果でしかないので……。理屈として考えたら罪は本人が抱えるものであって、誰が肩代わりいいものでもない。個人で解決するものだと思います」
「肩代わりすることを義務にしてはいけないと常々思います」

長生きしている人に、若い人が多く与えていることは納得できる?

それでつらくなってませんか?

「話は戻るんですが、与える与えられる、という話で。与えられることのほうが増えたら長生きだ、というお話はすごく納得しました」
「ということは、それって、どこかの誰かが与えている。与えられるよりも、多く与えている。社会的には。それは誰が背負っているかというと、おそらく若い世代になる」
「それを、当事者の若い人たちはどう思いますか? 要は、見知らぬ老人、与えてもらうだけになっている人のために、多めに奪われていて、しんどくなっているんじゃないか?という」

「年金の仕組みがまさにそうですよね」

「そういった仕組みが、生きるしんどさの原因だとしたら、納得できますか?というのを聞きたかったんです」

「それが、継続可能だったら納得できます」

「継続可能で、私たちが高齢になったときも同じように与えられるのであれば、平等であれば……ですよね」

「そうです、それこそ私たちの世代とかだと「年金もらえないよね?」ってみんな言う」
「それだと「なんで払ってるんだっけ?」ってなっちゃう。自分もいずれもらえるのであれば」

「そこが保証されてるのであれば納得できるけど、保証されてるかといえば……」

「私たちがおじいちゃんおばあちゃんになったとき、若い人はもっと少ないから……」

「年金払えって言っておいて、それとは別に積立もしておけって、腹立ちますよ」

「年金システムは……きちんとシステムを理解してない状態で言うのはダメかなと思うんですけど、平等に関しては、公平と平等は違うということと、あと時代が違うじゃないですか」
「私は戦後に生まれたわけじゃないですし、私の祖父は令和に生まれてないですし……生まれたとき、生きてきたときの波に乗れるかどうか。私の場合は、他者に流される感じのものになっている気がします」

「自分で決定できる範囲がものすごく狭いんじゃないか?てことですかね」
「そうするとある程度、時代の波に乗っていくのが大切かもしれないですね」

「私は、年金システムには正直1ミリも納得してないです。理に適ってはいるんですけど、理に適っている側の都合がいいように作られてるので」
「とは言っても、年金を払うこと自体は戦後から皆さんやってきているので、そこはフェア。リターンがあるかは置いといて、徴税の仕組みとしてはフェアと思っていい」
「ただ環境は変わってくるので、時代によって変えていくべきなじゃないかとは思います」

「基本理念は同じだけど、ノブレス・オブリージュ、共同体のためにという理念だけではどうしようもないところもあると思う。情状酌量じゃないですけど、そこはもうちょいいじってもらってもいいんじゃないかな、とは思います」
「払いたくはないですけど、これで私たちが払いませんと拒否するのはフェアじゃない」

何才まで生きたい?

ファシリテーターから質問させていただきました。

「最後にひとつ質問させてください」
「何才くらいまで生きたいか。言えれば、その理由も教えていただけるとうれしいです」

「私は、2025才まで。人類史を半分見ました、みたいな。行けるところまで行きたいです」

「その欲求としては、一番何が強いですか」

「見たいし、楽しみたい。ニーチェの
永劫回帰という言葉があって、ざっくり言うと、ぜんぶ巡り巡って、楽しいことも悪いことも全部続くものだ、だから楽しんじゃえって感じの考えなんですけど、それがベースです」

「ニーチェの永劫回帰を例に出すってことは、どうせ同じ、どうせ回っちゃうじゃん、って……超人思想についてはどう思いますか?」

「どうせ同じだけど……2000年生きた私がいるよ?って」

「なるほど!」

「私は120才くらいですかね。人生100年時代とか、政府に勝手に決められてるのが癪に障るので、見返してやりたい」
「平均よりは生きたいかなっていうのと、そこから40年くらいは生きたいというのもあるし、「君たちこれくらい生きるよね」って人に定義されるとか、生殺与奪の権を人に握らせたくないので、自分が生きたいように、最後まで自己決定して大往生したい」

「あなたたちこれくらいで死ぬよねと定義されると、他人に自分の人生を握られてるような気がするから、超えることで自己決定を完遂する、みたいな?」

「反骨心みたいなところですね」

「「
PLAN75」って映画の逆バージョンみたいですね」

「私は75才くらい。あと50年くらいはがんばれるかな?って」

「私は70才くらいまで。長生きはしたくないんですけど、年を重ねるのは楽しいので。理由としては、経験を積んで視野が広がって、物事を見るのがすごく楽しくて。このままそういう形で年を重ねるのは楽しいなと思う」
「ただ、私が楽しいと思っていることは、一人旅とか自立が前提なので、自分一人で自分の世話ができるから成り立っているもの。それができなくなったら嫌だなと思って、それが続けられる年齢って考えると70くらいかな、って」

「私は、シンギュラリティが起きるまで。機械が人間と社会を変えてしまうという、その時代を見てみたい」
「もしかしたら、死ぬとか生きるとかって問題を機械が解決してくれるんじゃないかな、と思っていて。もしかしたら永遠の命ができるかもしれない。なんとかそこまで生きてみたい」

残り時間わずかとなりました。

対話を振り返って、ひとこと感想

簡単な感想をいただきました。

「緊張したけどすごく楽しかったです」

「初めての人とこうやって踏み込んだことを話すのは、私にとっては深い経験になりました」
「長生きするのであれば、隣人を知るところから始めていきたいなと思いました」

「自分の周りで2000年生きたいとか思っている人がいないので、そういう生きるとか死ぬとかの価値観について深く話せるのはいいなと思いました」

「非常に今日は新鮮な意見ばかりで。皆さんちゃんと考えていらして、参考にさせていただきたいと思います。楽しかったです」

「生きるのがしんどいって話、めちゃくちゃわかりつつも、とくに若い人たちが「長生きしたい」って生きることに前向きなのが、年上の身からするとすごく嬉しいなと思いました」
「元気に長生きしてほしい」

ここで時間いっぱいとなりました。

ファシリテーターの思うこと

テーマは「長生き」だったのですが、「孤独」という言葉が頻繁に出ました。
長生きすることで生まれる孤独。
そして不健康による制限などに強くフォーカスしていたように感じます。

一方、今を生きるつらさと、それが継続する不安も話題にあがりました。

長生き、つまり自分の将来を考えるとき、結局は「今の自分」を見つめなおすことになっていくのかもしれません。

重い話題ではありましたが、朗らかな雰囲気で対話が進行できました。
参加してくださった皆様、ありがとうございました。

次回の開催案内

次回は2024年12月21日(土)開催。
テーマは「嫌って言える?」です。
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