「生きている価値とは?」対話カフェそもそも レポート#16
【開催日時】
2023年6月24日(土)
12:45~14:45
@池袋会場
第16回のテーマは「生きている価値とは?」です。
「私が生きている価値ってあるのか?」
または、
「私が生きている意味って何?」
……そう考えたことはありますか?
悩みや不安と向き合ううちに、ふと考えてしまう。
生きている価値、生きている意味、生きている理由、など。
多くの人が抱く疑問なのではないでしょうか。
それでいて、なかなか答えは得られない。
それなのに、知りたくてたまらない。
私たちを悩ませる「生きている価値」。
20代と大学生で語った対話のレポートです。
はじめの問い
まずはテーマについて、抱いている問いを挙げていただきました。
「生きている価値を考えるとき、そもそも『価値』とは何なのだろう?」
「そもそも、『生きている』とはどういう状態なのか?」
「生きている価値のことを、いつ、どんな状況で考えるのか?」
「なぜ、そういった問いを抱くのか」
「『生きている意味」と『生きている価値』の違いは何なのか?」
「生きていく上で、大事にしているものは何か?」
これらの問いが挙がりました。
とりあえず、「価値」と「意味」の違いについて、主催側から補足説明をさせていただきました。
テーマを決めたファシリテーターとしては……
・意味と価値はどちらでも良いと思った。
・生きている価値を口にするとき、生きている意味もほぼ同義であることが多いと感じている。
その点で異論がなければ、『生きている価値(意味)』のようなかたちで対話をしたいと思う、と提案しました。
とくに異論はなかったので、皆様の了承を得た上で、今回は意味と価値の違いには触れないこととしました。
今後の流れに入りやすそうなので、まずはこちらの問いをピックアップしました。
いつ考えてしまうのか?
「今は考えなくなったのですが、一番考えていたのは中学生のころ。孤立感が強く、受験で苦しんでいたときに、よく考えていた。『自分は役に立つ存在ではないのでは?』と思い、それから『生きている価値がないのかな』、と」
「私は明確に、こういうことを考えなくなったきっかけがあって。大学生のころは割とヒマでよく考えていたんです。社会人になって仕事を始めてから、まったく考えなくなった。忙しすぎて、考える暇がない。本当に忙しいと考えなくなるのかも」
「ということは逆に、ヒマだと『生きている価値』を考えやすいのかも?」
「考えてしまっていたときを振り返ると、『自分が有用である』と思えなかったときだったと思います」
「大学生活とコロナ禍が重なって、思い描いてた暮らしとは全く違うものになってしまったんです。自分は何のために大学に来たんだろう、みたいに悩むことも多くて……理想と現実が乖離していて。その頃、よく考えていました」
「自分の場合は、生きる目標を見失っていたとき。家と職場を往復するだけの生活で、ただ生きているだけだな……と思っていたとき。生きがいがないときや、自分のやりたいことがよくわからないと、考えてしまう」
「受験や就活など、人生の大きな選択のときに考えやすい。自分の将来を意識させられるとき」
「皆さんのお話を聞いていて、素朴な疑問が湧いたのですが……。忙しいときは考えなくて、ヒマなときは考える。目標があるときは考えなくて、目標がないと考える。となると、『忙しくて、目標がないとき』と、『ヒマだけど、目標があるとき』は、どうなるんでしょうか?」
「ヒマだと考えやすい、のではないでしょうか? 目標のあるなしよりも、ヒマであることのほうが優先されるというか、考えがちだと思います」
「この問いを持つ人にとっては、答えが欲しいタイプの問いだと思います。将来への不安とかが募って、かつヒマだと考えやすい」
物理的に忙しいと、考えようがない。
考えるヒマがあるから、考えてしまう。
ここで参加者から次に扱う問いを募り、以下の問いを立てました。
生きている価値は必要か?
「なくてもいいと思います。生きていること自体に価値はない。無価値でも別にいいじゃないか、と思う」
「生きている価値を考えるときって、他者からの評価軸に気にしすぎているときだと思うんです。価値はなくてもいい。生きている価値を求めるのは、自分を肯定したいだけなのかも?」
「生きている価値は、無いと思います。そこに悩んでしまうときは、役に立てない自分が嫌なだけでは」
「そもそも、自分に生きている価値があるかどうかって、自分の心の中だけの話だと思うんです。価値は自分で設定すればいい。自分の心を納得させる」
「これは逆説的な表現で、主旨としては皆さんと同じことを言いたいのですが……。私は、『無価値で生きる』のは、そもそも起こり得ないと思います。実は、無意識のうちに自分に価値を感じているからこそ、『無価値でも良い』と思えるのでは、と」
ここまで進めてみて……『価値』の定義について、皆さんがどう捉えているのか、一度擦り合わせたほうが良いと考えました。
『価値』と『生きている価値』では少し意味合いが違うため、これから扱うのは『生きている価値』とすることで共通認識をとりました。
そして、ファシリテーターから以下の問いを提案して、意見を聞いてみました。
「生きている価値」とは?
「目的や意味。自分を正当化できる根拠となるもの。根拠があれば、自分を納得させられる」
「価値を考えるとき、他者の評価軸は切り離せないと思います。他者からの承認や、評価のこと」
「自分が『善』であると感じるもの。例えば、じゃがりこを買うのは、じゃがりこを買って食べておいしいと思うことがその人にとって『善』だから、だと思うんです。だから、人によっては、日常で行なっている、生きるために必要な呼吸すら『善』だと言える」
「質問です。その『善』は、道徳的な意味での『善』ですか?」
「いえ、道徳的な意味ではないです。もっと私たちの生に直結しているもの……生物としての感覚に近いもの、というか」
「価値は他者軸、というお話がありましたが、自分軸の価値もあると思うんです。価値は自分軸、他者軸、どちらで判断するものなんでしょうか?」
「価値」は自分軸か? 他者軸か?
「『価値』という言葉で考えると、やはり他者軸だと思います」
「自分の経験を振り返ると、まず他者からの評価があった。いろいな人からの評価を得ることで、自分のモノサシのようなものが出来上がって、それからは自分軸で評価できるようになった、と思っています」
「自分のモノサシとは、具体的にどんなことですか?」
「仕事を通じて、自分の作ったものや書いたものが評価される。それで、他者貢献できているという実感が生まれた。これはモノサシというより生きがいに近いのかも。そして、自分の快と、他者の不快がわかるようになって、コミュニケーションで適切な距離を測れるようになりました」
「『生きている価値』という言葉で考えると、自分軸が強いような気がします」
「自分軸と他者軸に上下や優劣はあるんでしょうか? 『生きている価値』の場合はどうでしょう?」
他者軸より自分軸のほうが良いのか?
「自分軸を本当の意味で確立できるのであれば、自分軸の方が良いと思いますが……実質難しいと思います。だから、他者軸を使いたくなる。自分への評価はブラックボックスのようなもので、自分では一見よくわからない。だから、そのブラックボックスを他人に委ねて、評価してもらう。聞こえは悪いけど、相手を利用している」
「生きている価値を考えてしまうときは、自分自身がかなり弱っているときなので、だからこそ他人に頼りたくなる、他者軸に頼りたくなるんだと思います」
「自分軸と他者軸って、実はしっかり線引きできるものではなくて、その境界あやふやなものなのかも。例えば、他者軸として『賞賛』が出て来ましたが、『賞賛』に価値を感じるのは自分だったら、自分軸とも言える」
「自分軸と他者軸は、独立して存在するのではなく、両軸が組み合わさっているのかも。分離して考えるほうが難しいというか、分離できない」
「例えば、ボランティアはどうなんでしょうか? ゴミを拾いたいというのは自分のやりたいことだから自分軸だけど、誰かのためにやる、という他者軸も入っていますよね」
「ボランティアは、他者があってこそ成り立つので、他者軸だと思います」
「さきほどの『自己評価はブラックボックス』というお話、確かにそうだなと思って。他者に預けたくはなるけど、ブラックボックスだからこそ、自分で評価をコントロールしてしまうこともできるなと思いました」
「無意識に他者を選んで、自分に都合の良い自分軸を作っているかも」
「自分に都合の良い他者評価だけを選び取れば、恣意的に評価を決められますね」
「それってSNSとかでの振る舞いにも通じるものがあるなと思いました。自分の主張に同意してくれる人で周りを固めたりすれば、自分に有利な評価が集まりやすい」
自分軸と他者軸の話、とても興味深いですね……。
ここまでの流れを受けて、新しい問いを募りました。
挙がった問いは、相模原で起きた悲しい事件に触れた上での、この問いです。
他者に貢献できないと、生きている価値はないのか?
「考えていくと、『生きているとは何か?』という問いになってくる。ココロとカラダ、どちらも機能していて初めて『生きている』ことになるのか?」
「確かに、『生きている』の意味がわからなければ、『生きている価値』はわからない」
「この問いにおける価値は、誰の視点なんでしょうか? 家族? 社会?」
「家族が大切だと思っていてくれたら、それだけで価値があるとは思います」
ここで、相模原の事件について少し話が移り、『人権』というワードが出たところ……
「人権をなぜ侵してはいけないのか、という問いに対しては、『人権だから』という答えになる。人権は、これ以上の理由には踏み込んではいけないというタイプの約束ごとだと思います」
「人権が守られることが、社会のセーフティネットの証明になっている」
すべての人が助けられ、安全に暮らせる仕組みが、セーフティネットの証明となる。
「ここまでお話を聞いてきて、生きている価値を考えてしまうのは、どこかで『死』を意識しているからでは?と思いました。または『老い』とか。私は、とても幸せを感じているときに、死を意識するんです。幸福感が強いほど、これがずっと続くとは思えなくて、『幸せなうちに終わってしまいたい』と思ってしまうことがあるんです」
「この対話で初めて、『死』というワードが出ましたね」
では、『死』というワードが出たところで、このような問いを立てました。
なぜ、死なないのか?
答えたい方だけで、かつ簡潔でOKです、という前置きで、皆さんに聞いてみました。
「シンプルに、死が怖いから」
「死ぬべき理由がないから」
「まだ心臓が止まってないから」
「死を避けるように、体ができているから。人は死に近づく行動を取ると、痛みや恐怖が起きるようにできている」
「悪い状況がずっと続くとは思えないから。思えてしまったら……どうなるか」
「誰にも知られずに死ぬのが怖いから。親族が亡くなったときの体験から、その思いがとても強い」
「可能性をあきらめきれないから。まだやれることがある、と思えているから」
「怖いから。でも、正確に言うと、死にたくもないけど、ものすごく生きたいわけでもない」
「『死』がどんなものかわからないのが、怖い。誰も体験した人がいないことだから、どんなことなのか知ることもできない。例えば、永遠に無が続くと思うと、とても怖い」
残り時間が少なくなってきたので、いま新たに湧いてきた問いを挙げていただきました。
おみやげの問い
対話のあとに考えていただく、おみやげの問い。
「生とは死に近づくこと、というお話を受けて……『もし死なないとしたら?』という問いを考えてみたい」
「途中にもありましたが、『生きているとはどういう状態か?』を考えたい」
残り時間5分ほどとなったため、参加者の皆さんに対話の振り返りと感想を一言いただき、ちょうど時間いっぱいとなりました。
ファシリテーターの思うこと
対話カフェそもそもで取り扱ったなかでは重めのテーマでしたが、たくさんの方に参加していただけました。
ヒマなとき、目標がわからないとき、将来を不安に思うとき、他者の承認がないとき、やりたいことがわかないとき……つい考えてしまう「自分の生きている価値」。
その言葉の裏で、本当は何を求めているのか?
少しヒントを得られたように思います。
最後に感想をいただいたなかで、何名かの方が
「生きている価値なんてない、無価値だと思っていたけど、改めてしっかりと考えてみたくなった」
といった主旨のことを言ってくださいました。
価値の有無に正解はありませんが、今回の対話が「考えるきっかけ」になってくれたら幸いです。
また、途中途中でセンシティブな話題になりましたが、マナーと節度を持って対話していただけたこと、感謝いたします。
参加してくださった皆様、ありがとうございました!
次回の開催案内
次回は2023年7月8日(土)開催。
テーマは「適職とは?」です。
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