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「信頼できる友人、いる?」対話カフェそもそも レポート#47

【開催日時】
2024年11月9日(土)
13:30~15:30

「信頼できる友人がほしい」
そう思ったことはありますか?
信頼できる友人に出会えましたか?

信頼できる友人は必要?
いなくてもなんとかなる?

信頼できる友人とは?
10代20代で対話したレポートです。

はじめの問い、テーマに思うこと

テーマについて抱いている問いや、思うことを挙げていきます。

はじめに、信頼できる友人がいるかどうか、参加者の皆さんに聞いてみました。

信頼できる友人がいる……3名
信頼できる友人はいない……0名
なんとも言えない、微妙……3名

という結果となりました。
ここから問い出しスタートです。

「友人関係である時点で、ある程度の信用はあると思う。それから上に何を乗せているかわからない。友人の格付けみたいなことは私はしたくない。という意味で微妙と答えました」
「信頼の範囲って、どこからが信頼か?」

「どこからが信頼か、は話さないとまとまらない。プラス、そもそも他人を信頼すべきなのか?を話したいです」

「仲間と友人の違いを、皆さんはどう考えているのかを知りたいです」

「信頼できる人は、友達でもあり仲間でもあると思う。例えば仕事仲間でも、プライベートでのつきあいがあれば仲間でもあり友人でもある」
「仲間と友人、信頼の3つが重なるところはあると思う」

「友人ってそもそもどういう存在なんだろう?って気になりました」

「信頼の範囲という話に近くて、信じるってなんだろう?ってところからまず気になる」
「信じることは自分のため、自分の考えだから、それを委ねることって信頼とは離れてしまうのかな?」

これらの問い、思うことが挙がりました。

友人とはそもそも何か? 仲間と友人の違いは?

2つの問いを平行して進めます。

「仲間はグループみたいなニュアンスがある。友達は、1対1でも成り立つ」
「仲間は共通の目的や意識がある団体、仕事仲間とか、属性ありき」

「友人の特徴はどうですか?」

「友人はお互いに尊重していて気を使わないとか」

「仲間と友人は同義ではない感じですか?」

「同義ではないです。重なるところはあるかな」

「私は友人と仲間を同義だと思っています。一般的には、仲間は価値観や目的を共有してる人たちで、友人は雑談とかできる気の置けない人を示しているとは思うけど、私は全人類とひとつの目標を共有していると思ってる」
「言語の壁さえ越えられれば、全人類と哲学対話ができる。全人類と価値観は共有できると思っているので、友人も仲間も一緒だと思っています」

「私は仲間と友人を同義だと思っていて……仲間とか友人って表面化してカテゴライズしただけ思うんです」
「同義だと思いつつ、そこに意味はないというか。言葉自体に意味はなくて、仲間と思ってるかは個人の主観によるから、それ自体存在しないものなのかな、と思いました」

「こうなってくると親友って何?も追加したくなりますね」

「問いを追加したいのですが……「信頼できる友人、仲間は必要だと思いますか?」をお願いします」

「今日のテーマそのものずばり、ですね」

「私は、友人と仲間と他人、全部同じカテゴリに入れています。他人も話しかけたら友人になる。話しかけなかっただけの存在だと思うんです。出会えなかっただけの人、みたいな」
「自分が出会った人は、同じ箱に入れたい。好き嫌いで判断したくない」

「友人って、シンプルに「時間を共有してきた価値観の合う人」にすぎない。時間を経過していないと友人と呼ぶのは難しい」

「私は、友人と仲間が、言葉遊び的な違いがあるのはわかりつつ……さきほどの「同じなんだ」というのもわかるんですよ。でも「違う」というのもわかる」
「感覚的に言ったら違うかなと思う。仲間って言うと、同じチームの一員感がある。明確な目的があって、それを一緒にする人」
「友人って言うと、目的がなくても一緒にいたい人って感じがします。自分の具体的な例で考えても、この人仲間だけど友人じゃないな、とか、友人だけど仲間じゃないな、って人はいっぱいいる」

「仲間だと「目的が同じ」って要素があるわけですね」

「部活の先輩は仲間だけど、友人じゃない」

「練習は一緒する仲間だけど、マクドナルドは一緒に行かないですものね」

「質問です。仲間に共通な目的があることって、いいことですか? 目的や共通な価値観があることを、どう捉えてますか?」

「基本的にはいいも悪いもないんじゃないでしょうか。仲間には共通目的があって、それをしたいからしている。友達は一緒に過ごしたいとか、明確が目的がなくても一緒にいる」
「どっちにも意味があって、どっちがいいとかじゃないと思います」

「仲間と友人に、上下があるわけじゃない、ってことですね」

「さっきの、仲間と友人にも重なっているところがある、というのはしっくりきていて。共通しているのは、自分で選択できるゆるやかな繋がり」
「友人は、合う価値観がなければ切り離してもいいし、新しく作ってもいい。仲間は、例えば「優勝するぞ」って同じ目的で集まっているけど、主観的なところもある。離れようと思えば離れられるし、入ろうと思えば入れる」
「その流動性というか、自分で選べるのは、重なっているところなのかなと思いました」

「整理していくと、部活や仕事は、仲間と感じる人が多いようですね」

「私は、全員が仲間と思いたい、と思っている。どんな人とでも何かしらの目的を共有できる。友人も、時間を共有しているだけで、ひとつの目的を達成している。その点で考えたら、友人も仲間的なところがある」
「私は友人と仲間をすべて一緒にしていて、どんな人でも、目的と価値観を共有できると思ってます」

「気になるキーワードとしては、主観、そして時間の共有という要素があるようですね」
「同級生はどうなりますか? 仲間?」

「人によってはどっちかの人もいれば、両方の人もいると思います」

「体験を共有してたら仲間に近い感じになるんですけど、一切しゃべったことがない同級生は、関わりがなければ仲間とは思いづらい」

「じゃあ、「3年全体で団結するぞ!」とか言われても白々しくなる?」

「団結する目的があったら仲間じゃないですか?」

「なるほど。目的があれば」

「友人は、もうひとつ踏み込んだ関係、本音で話せる関係となると、上下があるような……。仲間だと利害関係があって、目的が一致している」
「仲間の中で、価値観が共有できて本音で話せて自分自身をさらけ出せるような人だと、友人に推移していくんじゃないのかな」

「本音で話せる、自分をさらけ出せる、というワードも出ました」

「親友は、友人と何が違いますか?」

「接触している時間が長いと親友なんじゃないかな。共有している時間が少ないと親友とは思いづらい」
「社会人になって共有する時間が少なくなると、そういうのは思いづらくなってくる」
「相手も同じように思っていて、親友じゃなくなることもありそう」

「そもそも皆さんは、人を、仲間とか友人とか親友とか同級生とか、そういう括りで見てるんでしょうか。そういうラベリングを貼って、人を見てる感じですか?」

「そう言われると、あんまり見てないかもしれないんですけど……あえて言うとしたら、親友は時間の共有が長くないと現実的に難しい」

「私は、一部だけ、そうしています。他に「知り合い」があって、知り合いだけは強く意識しています。友達とか親友は意識してないです」

「知っている人か知らない人か、ということですか?」

「ではなくて、感覚的には「友人ではないけど、知っている人」が知り合い」

「友人と知り合いを分けているってことですか?」

「そうです」

「ああ、なるほど」

「質問です。友人ではできるけど、知り合いではできないことって何がありますか?」

「できるできないはあまりわからないです。その人の性質とかが、自分の許容できる範囲に入っているかどうか。「無理」って思ったら知り合いです」

「ラベリングしてますか?という問いについて他にいかがですか?」

「明確には分けてないけど、感覚では分けてるかな?って感じです。優先順位じゃないですけど、その瞬間瞬間できることってひとつなので、飲み会しようと思って、誰から連絡するかってなると、潜在的に優先順位はつけてるのかな、と」
「友人の中でもそうだし、信頼値みたいなのがある」

「アドレス帳にラベルを貼ってるわけではないけど、全員が並列ではないわけですね」

「お話聞いていて、現実的にそうなってくるんじゃないかな、と。そうなる要因として、時間の共有プラス価値観が影響してくるんじゃないかと思いました」

「友人と知り合いについて……自分が話しかけたり、相手から話しかけられたりしたら、友人に入る。逆に、名前も知っているし顔はわかるけど、話したことも関わったこともないと、私は知り合いとして捉える」
「同級生で考えてみたんですけど、同級生という条件を外してみたとしても、私の中でそこは変わらなそうだなと思いました」

「コミュニケーションが双方向だと友人になる、なるほど」

「主観で、相手を友人って判断してますよね。じゃあ、相手が自分のこと友人と思ってくれていると、どうやって判断しているんでしょうか?」
「とくに親友の場合は、お互いに親友だよね、と思い合っているのが親友だと思うんです。相手が自分のこと親友だと思っているとどうしてわかるんでしょうか?」
「「私たち親友だよね?」って儀式や契約をしてるわけではないですよね」

「それもやっぱり時間の共有かな、と。あと、男女であれば、つきあってください、ってのがあるから関係性が明確になりますけど、友達だよね?は聞かない」

「熱量が一緒だったとき、ですかね。自分が送ったメッセージや熱量に対して、同じかそれ以上で返ってきたら、友人」
「反応で感じるところがあると思います」
「レスポンスのスピードとかが同じ以上だったら、相手もそう思ってるだろうな、って。行動で判断というか。思っていたら行動に出るはず」

「私はその話できないんですけれど、だからこそわかったというか……私は自己満足人間なので、どんな人とでも仲良くなれるし、どんな人とでも同じ目的を持てると思ってる……ということを相手に押し付けちゃう」
「相手も同じくらいの気持ちなんだと思っちゃうし、相手のことを友人として扱わないから、断られることが下がるというか」
「全員を仲間として見てたら断られないんじゃないか、みたいな。思考のコスト削減みたいなことをしてる」

「信頼できる瞬間はあると思っていて。哲学対話とかこういう話をしていてめちゃくちゃ盛り上がって、その意見いいね、ってなったときに、私は信頼してるな、って。この人をちゃんと人として見てるな、って思える」

「友人という認識をどう合わせるか、について……私は別にそれが必ずしも一致する必要はないと思っていて、そもそも基本ずれているものだと思う」
「相手と一致しているかどうかは気にしていないし、自分が友達と思っていたら友達でいい」

「主観のままでOKってことですね」
「女子コミュニティだとまたちょっと違ったりしますか?」

「私のイメージだと、友人の中でも、「他人に対して友人って言ってる友人」と、「自分が友人と思ってる友人」に差がある。私はそういうタイプです」
「同級生とか知り合いみたいな関係も、傍から見て友人っぽいよねって思われたとき、友人って言ったほうがうまくまとまるなら友人って言う」
「ある意味ずるいんですけど、結構気軽に「友人だよ」って言ってしまう。でも、実際に友人かどうかは別」

「対外的に、友人だよって言っておいたほうが、場がうまくまわるときがあるわけですね」

「私はそれを聞いて浮かんだのが、インスタグラム。私は結構フォロワーもフォロー数も多いタイプなんですけど、相互フォローしてると傍から見ると友達」
「でも実際はしゃべってないし投稿を見てるくらい。だけどプライベートまで入り込んでるな、と思うと、あいまいなところはあります」

SNSも絡めると複雑ですね」

「ちなみに、そのフォローしてる方と会ったりは?」

「それは、あります。けど、さっきの時間のことに絡めると、例えば入学式でお会いして、交換して、それっきりとか……

(一同笑)

「そこが、知り合いと友人の違いなのかな、って思います」

「連絡を取っている量、会う回数で考えると、明らかに差があるのは事実ですよね」

「ちなみに、インスタ交換しただけの人は、友達と言えますか?」

「私は友達と思いたい。そのフォローが続いている限りは。あと、向こうから確実に連絡とかがあったら、友達かなとは思います」

「会っていなくても?」

「会っていなくても、メッセージ上で共有できてるんだったら、いいかなと思います」

信じるって何? どこからが信頼?

信じることとは? 信頼の範囲は?

「いろいろな人に、いろいろな側面の信頼できる部分がある」
「私は日本酒が好きで、お酒を飲む仲間には、お酒の知識は信頼しているけど、哲学的な知識は信頼を置いていない。部分的に信頼しているというのが無数にあって、それを私は信頼と呼んでる」

「何か信頼できる側面があったら、それは信頼できる人?」

「そうです。だいたいの人はどこかしら信頼できる側面があると思っていて。それがどういう経緯で信頼になるのか気になってます」
「話していくうちに、信頼できるなって見えてくると思うんですよ。そういうのがどうやって形成されているのか?」

「信頼に至るまでの経緯ってどうなってるのか、ですね」

「私は、約束を守るとかですね」

「約束守れないタイプの人はいま心がグサッときました?」

「いや、積み重ねだと思うんです。時間に遅れるとかなら信頼できないとはならないです」
「ドタキャンとかだと結構減点というか」

「信頼は減点法ですか?」

「信用が加点減点みたいな。信頼は、ある程度信用度がある人が信頼というか」
「信用と信頼はリンクしている感じです。信用が積み重なると、信頼できる」

「じゃあ、信用を加点していったら、いつかのタイミングで信頼に変わる?」

「そんなイメージです」

「私は信頼と信用を分けてないんですけど、最初会った人にはちゃんと100%信頼がある。あるんだけど、だんだん落ちていく。落ちたとしても諦めている部分があるから、その人とつきあっていける」
「信頼というのは瞬間だと思っていて、ピンチなときに助けてくれたとか、その瞬間はすごい信頼できる。その先に、その信頼が続くかと言うと続かない。一瞬一瞬で判断している」

「お誘いされたときはどう判断してますか? 行くか行かないかの優先順位とか。信頼してた人から、時間が経ってメシ行こうって言われたときとか、どうですか」

「元々の信用度が私の中にあるので、信用に従ってその人に会う」
「信頼は、もっと気持ちが昂ったときに言っちゃう言葉だと思ってます。助けてくれてありがとう!みたいな。一時的に依存するような関係」

「問いを出した方に質問です。信じるって何?って考えたときに、こういうことが信じるということ、というのは何かありますか?」

「私の中のキーワードで、主観って言葉がすごく強い。自分が親友だと思っていたのに、相手はそう思ってなかった場合、「私は親友だと思ってたのにひどい、裏切られた」って思ったりするじゃないですか」
「でも、こっちが勝手に信頼や期待を相手に向けて、それが返ってこなかったから「裏切られた」って思ってるだけなのかなって。相手からしたら、「いや知らないよ」って話になっちゃう」
「信じるって言葉を聞いたとき、相手にボールを持たせている感覚に聞こえがちですけど、実際はそうではなく……裏切られたと思うのも自分、親友だって勝手に思ってたのも自分」
「だから、相手を信じるってことではなくて、自分を信じる、自分の世界を信じるってことが含まれるのかな、思いました」

「少し戻るんですが、信用と信頼の違いに関しては、信用のほうが足切りっぽいというか……ゼロより下の部分。信頼はゼロより上みたいな感じ。信頼のほうが繋がりは強そうな感覚はあります」
「信じるについては、私は信じることは相手に期待することだと思う。期待って予測じゃないですか。信頼って、相手ならこうしてくれるだろうという自分の中の期待を持つこと」

「私は、あきらめだと思ってます。相手に全部投げちゃう。さっきのボールで言うと、全部預けてしまう」
「だから、相手が何をしてくれても、私はそれに従う。そのほうがダメージも少ない。信頼しないことが信頼への近道」

「それって、その人を信頼してるって言えるんですか? 私は言えないと思ったんですけど……

「まあ、他人をそもそも信じてないんですよね。虫けらのように思っているというか。他人を大事なものにすると、想定と違ったら自分が傷つくじゃないですか。それは私は怖いから、最初から捨てていたい」

「それは、信頼なんでしょうか」

「いや、信頼というとちょっとあやしいかもしれない。言葉通りの信頼ではないかも」

「おっしゃってることはすごくよくわかります」

「他者の自由をとても尊重してる、ということでもありますよね」

「そこに、私の場合は主観がない。相手にボールを預ける」

「それのほうが楽だ、っていう判断なんですよね?」

「そう、私はすごい楽です」

「それは自分も同じ意見です」

「他に、信じること、信頼について、いかがですか」

「自分に都合いいことを押し付ける、相手に期待する、それが積み重なっていって信頼になると思います」
「自分に都合の悪いこと、さっきのドタキャンとかが重なると信頼がなくなっていく」
「自分の都合や主観が、信じることにとっては大きい要素だと思います」

「そこは私も共感できて……期待っていうワードがありましたけど、期待値のズレがマイナスの方に働くと信頼がなくなるし、プラスの方に働くと信頼が強くなる」

「そうなると、信頼を感じる具体的な行動って何かあったりしますか?」
「積み重ねはわかるんですが、何の積み重ねなのか?」

信頼を感じる行動とは?

どんな行動が信頼を生むのか?

「価値観をともにした時間を共有した長さが、信用につながると思っています」
「ここにいる皆さんとも、長い時間を共有して、同じ価値観を持って、お互いをわかっていけば、親友になれると思います」

「私が信頼を感じた瞬間は、すごくプライベートなこと、人には大っぴらにはいえないことを打ち明けて、向き合ってくれたとき。そこはひとつのボーダーラインだと思いました」
「深い信頼とかなかったとしても、別にしゃべることはできるけど、気にしいなので「相手はどう思ってるのかな?」って不安が、信頼の多さ少なさに関係してると思いました」

「相手に打ち明けられた、ことが信頼。となると、質問なんですが、打ち明けられると思ったのはなぜですか?」
「もうそこですでに信頼があるんじゃないか?と思えたんです」

「積み重ねですかね……日常的なところから始まって、趣味の話とかして、「そんなこともやってたんだね」ってだんだん深くなっていったところで、やっと話せるかな、みたいな感じです」

「私は信頼できるきっかけとして、自分の意見を尊重してくれること」
「私の大学はオタクが多くて、そのへんのコミュニティの人たちってとりあえず否定するみたいなコミュニケーションを結構するんです。これが好き、って話すと、いやそれよりこっちのほうがいいよ、とか」
「そういう人は、信頼できない、心開こうと思わない。自分が言ったことを聞いてくれて「いいね」って言ってくれるほうが信頼できる」

「否定せず、共感してくれるほうがいいですよね」

「そうです。さきほどの話で弱みを見せられるか、ってありましたけど、そこを掘り下げると「言っても否定しない、おかしいって言われない人」っていうのが信頼のきっかけにあるのかな」

「私は、相手のことを尊重することと、否定しないことは違うと思っていて。自分の意見を言ったときに、こういう観点から違うよ、って言ってくれたほうが自分のためになる。自分の見えないところを指摘してくれることも、尊重になる」
「私はそういう人も信頼したい。私のことを理解してくれているってことなので」

「聞いていて、男性と女性はちょっと違うように思います。尊重って抽象度は高いですけど……共感か否定か、人によって何が尊重かが違うので、人によって何を尊重するかを変えるのも大切なのかも」

「違う意見をくれるって意味での「それ違うんじゃない?」は全然いいんですけど、私が嫌だったのは「あなたは間違ってる」みたいなコミュニケーションなんです」

「全否定ですね」

「そうです。それは、尊重とは違うかなって。人対人で、明らかに見下したコミュニケーションされてる感じ」

「鼻で笑うみたいな?」

「そうです、そういうことをしない人、という意味でした」

「とりあえず意見を受け入れる、ボールを持ってくれるっていうのが、信頼の要素として共通してるのかなと思いました」

「ボールの例えで言うと、預けられる感じが信頼に繋がりそう」

「やっぱり、人を信じることは、期待するに近い。相手にボール投げてますよね。私の言うあきらめも、相手にボールを投げている」
「何が違うんですかね」

「期待して委ねることと、あきらめて委ねること、一周回って同じことをしてますもんね」

「そこに期待値があるかどうか、って言ったら伝わらないですか? 自分の気持に期待値があるか、これくらいやってくれるだろう、とか」

……それって、ほんとに相手のことを思ってます?ってなっちゃうんです。期待は自分の思い込みだと思ってしまう」
「何もやってくれない人としてボールを投げたほうが相手も楽だし、自分も楽。より自然なコミュニケーション」
「期待をすることは自分が苦しくないですか?」

「となると、ボールに期待が乗っかっているかどうかの違いかも」

「信頼するって、相手の内面の判断基準とか、価値観っていうのをある程度理解した上で認める、それを自分にとって有害じゃないと認める、みたいな感じがあって」
「究極的なことを言ったら、人の中身を全部紙に書いて、こういうときはこういう判断しますって100%わかるとして、それを自分が好きだったら信頼できるじゃないですか?」
「なので、相手を知ってるかどうか?の話だと思うんです」

「私もそれは思っていて……相手に関する情報がどれだけあるかってことが、信頼する大事なことだと思う」
「カウンセラーの先生なら、あらかじめ情報があるので信頼して話せますけど、初対面の人に悩みを話せるかって言うと話さない」
「相手の情報を知っているか、ってところは信頼で大きいのかなと思います」

「私は、知らないところで、知らない人にあっても、自分の本音を打ち明けるときがあるんです」
「旅先とかで、悩みを話したくなるときとかあって。知らないからこそ、自分の思ってることを話せる。例えばタクシーの運転手とか」

「でもそれは、誰にも伝わらないってわかってるから吐き捨ててるんじゃ?」

「今後会わないことがわかってるから、じゃないかな」

「利害関係がゼロで、今後会わないから言えるんじゃないかな?って思いました」

「さっきの素性の話で気になったことが……例として、常連の居酒屋があって、そこでいつも会う、意気投合した、趣味の合う、名前だけ知ってる人、本人の職業もなんとなく知ってる、1年くらいつきあいがある、っていう人からビジネスとか持ちかけられたときに信頼できるか?」
「その人の住所とか経歴とかわからないし、すべてはその人の自己申告。でも時間の共有の積み重ねはある」
「そういう人は信頼できますか?」

「客観的な情報があれば、多少信じてもいいじゃないかな?と思います」

「もし、一緒に起業しようよって言われたら、たぶん詳しいプロフィール知りたくなりますよね?」

「利害関係が発生しちゃうと、やっぱり素性が知りたくなりますね。保険証とか見たくなる」

(一同笑)

「素性ってのが学歴とかそういう話だと思うんですけど、そういう意味の素性がないと、私は信頼できないです」

「社会人なら大切ですよね」

「あらゆる可能性を受け入れて、一緒にやるのもあるのかなとは思います。リスクを許容して」

幸せに生きるためには他人を信頼すべきか?

信じることはいいこと?

「問いを出した背景として……私は他人を信頼してないんです。親は信頼できるかなと思うんですけど、親以外の他人はどれだけ仲良くなっても100%信頼してない」
「これって、周りと話していると、割とレアかもしれないって思ってて。結構みんな信頼してるっぽいんですよ」
「他人のことを100%知るのは不可能だし、裏切られるリスクがあるという面でも信頼しないほうがいいじゃないかと思ってるんです。皆さんはどう思っているのかな、と」

「私も、100%信頼するのは難しい。リスクがあるっていうのもあります。でも、信頼したいな、って気持ちはありますね。感情面というか」
「信頼したいし、信頼していきたい。信頼するから信頼されるところもあるかなと思うんです。返報性の原理じゃないですけど、自己開示するから相手も言ってくれる、みたいな」
「信頼を得るために自分が信頼するのは大切じゃないかな」

「質問です。信頼したうえで、裏切られることは受け入れますか?」

「織り込み済み、って感じですね」

「それでもいいや、って思って信じてる?」

「はい」

「そうなんですね、私はそれができないんですよね」

「差し支えなければ、どういった経緯というか、そういう考えになられたのか……

「経緯はとくにないですね……裏切られた経験があるわけでもないですし。純粋に、頭で考えて、相手の内面を100%知るのは無理だなと思う」
「信じられるのは自分だけだと思っているので、頭で考えてそう思ってるって感じですね」

「体験だけではなく、ロジックで、ってことですね」

「でも周りは、他人を信頼してるから、不思議に思ってます」
「問いを詳しくすると、人生を幸せに生きるうえで他人を信頼すべきか?ってことです」

「私はすべきかはわからないですけど、信頼自体はしてもいいことだと思う。ただ、条件として、信頼してうまくいかなかったときに、相手のせいにしてはいけない」
「相手のせいにしてしまったら、問題が起きたときに解決できるのが相手だけになっちゃうから、それって幸せになれないと思う」
「信頼自体はすごくいいものだと思うし、素敵だと思うし、していいと思う。でも、どんな結果になっても自責で捉えるってところがセットで、信頼がある」
「そうじゃないと、不幸になっちゃうかな、と思います」

「私は、相手が自分のことを変えてくれるっていう意味で、信頼してます」
「自分の信頼で、相手が何かを返してくれると思ってる。マイナスなことでも。何かしらの応答があって、それで自分が変わっていく」
「私は幸せが何かはわからないんですけど、自分を変えてくれる何かとの出会いを大切にしています」
「他人そのものではなく、関係性を信頼している」

「ちなみに、自分がどういう時間を過ごせたら幸せなのかって、固まってますか? 自分にとっての幸せの定義みたいな」

「定義ってほどじゃないですけど、自己理解が大切だと思ってます。相手を通して自分を知ることが幸せなのかなって」

「それは胸を張って言えますか?」

「まあ、自分の中では胸を張って言えます」

「それを日々意識して行動を選択している感じですか?」

「意識というより、勝手になっちゃってる感じです。自分の中にシステム化されてる」

「無意識みたいな感じですね」

「この問いを立てたイメージとしては……私を殺した人は1億円もらえますって状況だったとして、そこに友達がいて、この人を信頼できますか?ってイメージで言ってます」
「親だったら、僕を殺さないと思うんです。でも、親以外の誰しもは、信頼できないと思うんですよ。別に殺さない可能性もあるけど、信頼できない」
「ていう感じで、この問いを立てました」

「これくらいの極論だとわかりやすいですね」

「殺されて、相手に1億円渡すほうが幸せって場合はどうですか?」

「いや、私は生きたいので」

「ああ、前提に生きたいがあるんですね」

「生きるの楽しいので、生きたいです」
「そういう意味で100%他人を信頼できないんですけど、皆さんはどうなのかな?って気になってました」

「そうなると、ご両親を信頼してる理由はなんでしょうか。他人との違いは」

「一緒に時間を過ごしてきたとか、ものすごい量の会話してますし、親に関しては、僕を殺さないだろうって期待ができる」
「親という人間の中身をいっぱい知れているのがある」
「私が知っている親の中身を総合するに、私を殺さないだろう、と」

「もし、ご両親が毒親とか、いい関係じゃなかった場合、信頼はしていない?」

「それはそうですね。親は人間性としては嫌いなんですよ。雑談もしなくていいならしたくない。それとこれとはまた別というか」

「例えばタクシー乗るときって、他人の運転手に命預けてますよね。タクシーは乗りますか? この運転手はやばいやつかもしれないから、とかはならない?」

「企業のタクシーだったらあんまり思わないです。白タクとかだったら違います」

「そこまで拡張して、ハラハラして生きてるわけじゃないですね」

「運転手が僕に害を与えることはバランス的に割にあわないので」

「質問です。99%の信頼は、信頼に含まれますか?」

「含まれないです」

100%信頼、全信頼なんですね」

「たしかに、さっきの例えだと命を委ねてますものね」

「人それぞれはあまり言いたくないけど、その人の生育環境によるのかな、って。すべきかどうかより、したいかどうか」

「思考実験としてはおもしろいと思います」

「私は全信頼したことがあって……海外旅行に行ったときに、よく知らない人に観光をお願いしたら、舟に載せられて観光したんですけど、すごく小さくて危ない舟だったんです。ここで溺れたらどうしようって不安で」
「でも最終的にはちゃんと帰ってこられて、そのときに「生きててよかったなー」って思えたんです。あの瞬間は全信頼を預けないと味わえない快感だなって思いました」
「その快感を味わいたいと思うかは個人個人によると思います」

「ハイリスク・ハイリターンみたいな」

「スカイダイビングとかわかりやすいですよね」

「ワンチャン死ぬけど、楽しい」

「今の話めっちゃいい話だと思って……リスクを負うことって、幸不幸の振れ幅をでかくすることだと思うんですよ。友達を持つことも、子どもを持つことも、結婚することもそうですし」
「そのリスクを受け入れたいか、ってところに帰着する気はするんですけど、私はそれを受け入れたくはないので、できるだけ小さい幅で触れるようにしたいなって考えてる感じがします」

「信頼は、他人から受けるリスクの許容度にすごく関係がある」

信頼できる友人は必要?

まずは必要だと思うかどうか皆さんに聞いてみました。

必要だと思う……3名
いらない……2名

「私は、幸せのレバレッジをかけるみたいなことは必要なのかな、と」

「さっきの話と見事につながってますね、いい感じ」

「ハイリスクであるほどハイリターンなので、その振れ幅を大きくするって意味で、人と人とのコミュニケーション、仲間で何かやるのは必須だと……過去の経験からでもそうだし」
「ものづくりとかわかりやすいですよね。一人で作れることは限界があるけど、みんなとだったらできることはめっちゃ多くて。それって幸せの総量が多いので、それを突き詰めていくと信頼できる友人は必須だと思います」

「幸せのレバレッジってワード、とてもいいですね」

「私は人を信用しないわけじゃないけど、一人でいることが多くて。でもずっと一人でいるとたぶん人が恋しくなってくる可能性があると思う」
「そうなると友人だったり知人だったり、こういう話せる場所だったり、必要になってくるんじゃないかな?って現実的なところ思います」

「私は必要だと思ってるタイプで……私は拠り所がほしくて、それもひとつだけじゃなくていろんなところにあるほうがより嬉しい」
「なので、こういう哲学対話とかの1回限りの拠り所もいいと思うし、信頼を積み重ねた拠り所もほしい」
「そうじゃないと、自分が自分じゃなくなってしまうような気がする。できればいろんな人と関わりたいというのが根底にある。そのオプションのひとつとして、信頼できる友人がほしい」

「拠り所はいろいろあって、寄りかかりの度合いはいろいろ差があってもいい、と」

「種類があったほうが価値があると思います」

「私もそれはすごい賛成で。寄りかかり先がたくさんあるほど、自分の負担が減る。それが友人である必要は無いと思っていて、私は他者でいいと思っている」

「必要か必要じゃないか、改めて問いを置かれたら、「わかんないかも?」って正直思いました。大事だと思っている友人はいるし、親友だと言える人もいるんですけど」
「さっきの幸せのレバレッジって言葉がすごくよくて。そういう観点でいったら、かけがえのない存在として友人とかをカテゴライズしなくても、自分が期待や信頼できる複数持っていることがめちゃめちゃ可能性を広げることなんだなって思いました」

「私は、いらない派です。いてもいいです、でも必要ではない」
「私は一人でいるの好きだし、何も苦じゃない。メンタルサポートとかも必要ないですし、全然一人で楽しめる。なので、それが自分でわかっているからこそ、別に無くても大丈夫だなって気持ちは持っています」
「幸せのレバレッジの話も、私の場合は一人で過ごせることを昔から大事にしてるし、一人のほうがリスクがなくていいと思っているし、それで今の自分だったり今の生活を作ってきたので、一人でも幸せで行けることがわかってるんですよね。自信がある。なので、必要かどうかと言われたら、必要じゃないですね」

「私はそれを聞いて、うらやましいなって思っちゃいました。そうなりたいとまではいかないですけど、一人で完結したほうがいいとは思います」
「でも、自分の心理として、人と関わりたいっていう気持ちも出てくる。そこまで確信を持って一人がいい、って思えるのはほんとに強いなと思いました」

「友人じゃなくても、人が自分と関わったら、変わっていく。私が一人でいることを怖いのは、変わらないで居続けるってことが怖い。私は誰かと関わって生きていたい。友人じゃなくても、人がいてほしい」
「自分が変わったら、その自分を飽きるまで楽しめばいい。飽きたら人と関わればいいし、という関係で生きていきたいな、と」

「質問です。それって、人じゃないとだめですか? 本とか、メディアのコンテンツでは満たされないですか?」
「本は人が書いたものだし、どうして人じゃないとだめなんだろう、と」

「それは、野菜と野菜ジュースみたいな関係だと思っていて。エキスだけ摂っていても、生のもの食べたいじゃないですか」
「もちろん読書でも得られるものはありますけど」

「私も、本とかコンテンツからだけじゃ限界があると思う。私も一人でいるのは好きなところもあるけど、人の心理として群れを作って生きてきたみたいな部分が、最終的に人と関わりたい気持ちに繋がるんじゃないかなと思ってます」

「そのときに、その人をちゃんと人として見てるのか、というのが問いとしてあります。その人を読書の延長線って考えてるのかもしれないし。人を人として見てるのかは意外とわからない」
「人をコンテンツとして消費しちゃう感覚とどう向き合っていたらいいのか、考えています」

対話を振り返って

簡単な感想をいただきました。

「初めての参加だったんですが、幸せのレバレッジとか言ったことのないワードでしたけども言語化できるようになった、漠然と思っていたことが表現できたので気づきはありました。いろんな人の意見を聞きながら、自分の考えをブラッシュアップできるのは、おもしろくて新鮮な2時間でした」

「2回目の参加だったんですけど、とてもシンプルに楽しかったです」

「誰かが言ったことに対して、新しい問いが生まれるとか、新しい発想がどんどん生まれてくる感じは、なかなか今まで体験したことがない機会だったので……こんなに会話って広がっていくんだ、って。すごい楽しい時間でした。また来たいなと思います」

「最初緊張したんですけど、途中からすごい話せるようになる感覚も手に取るようにわかったし……意見って、自分の中で揺らいだり変わってもいいんだな、いう安心感を覚えました。ほんと皆さんの話を聞いていると「たしかになあ」って思うところがたくさんあって、でもそれって悪いことじゃないなって思いました。自分の意見をちゃんと持ってないととか、ちゃんと主張しないととか、すぐ思っちゃうタイプなんですけど、そういうことを考えすぎなくてもいいんだな、って。ひとつの教訓になりました」

「私がまだもやもやしているのは、人を信頼するときに投げるボールが、あきらめと期待の場合で違いがあるっていうのをまだ考え続けたいな、って。その違いがまだしっくりきてないです。あとやっぱり、司会進行が上手だなと思いました」

「楽しかったです。普段一人でもいろいろ考えているんですけど、やっぱり人と話していると他人の考えと比較できるのもありますし、新しい問いが出てくるからこそ、また考えるきっかけがあって。人を信頼するってなんだろう、って自分の中で改めて考えて気づいたこともあったので、すごくありがたいなと思いました」

このあたりで時間いっぱいとなりました。

ファシリテーターの思うこと

想像以上に多くのキーワードが出てくる対話でした。
主観、期待、価値観、時間の共有、自責、信頼のボール、幸不幸の振り幅、幸せのレバレッジなどなど。
信頼できる友人に繋がる要素がこんなにもたくさん表出してきたこと、対話のおもしろさのひとつだと思います。

参加者のスタンスは本当にさまざまでしたが、あたたかい雰囲気のまま、振れ幅の大きい対話に展開していったことに感謝です。

参加してくださった皆様、ありがとうございました。

次回の開催案内

次回は2024年11月30日(土)開催。
テーマは「社会的弱者とは?」です。
詳細はこちら

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