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「多様性の時代」がつぶした個性とキャラについて

相当物騒なタイトルで始まった。筆者自身そう感じているのだが、午前3時に目が醒めて「書かねば!」と思ったので筆を執り……キーボードを叩いている。

断っておくが、これは今言われている「多様性」に対して、異を唱えるものでは一切ない。たとえばLGBTQも、障害の有無だってそうだ。
ちなみに私は(前向きに公言こそしていないが)身体障害者である。生まれつきだから、自分の抱える状況は理解している。
まして、「障害者」の表記に何の違和感も覚えないし、「障がい者」なんて表記にまで関心はない(音声読み上げソフトに苦役を強いるだけだ)。

さて、話は逸れたがこの頃は「多様性」や「ダイバーシティー」といった言葉があふれて久しい。さらに「SDGs」も絡むものだから、私も実態がよくわからない。誰か解説してくれ、有識者。

ただ一つだけ言えるのは、こういう「多様性を認めよ!」と声を上げている方の多くと、実際の「多様性を認めたつもり」になっている人々の感覚は、実情と大きく乖離している、ということだ。

断っておくが、上記の例は誰が悪いというわけではない。
執筆時点では改善も試されているようだし、多様性の時代の「空気」が作り出た残念な例だと思う。

さて、このジェンダーレストイレの例に限らず、婚姻制度に対する議論や、障害者支援のための議論――その多くは、当事者が不在であるような気もする。
例えば、私は障害者の何らかの権利(社会福祉制度)に不満を持ってデモに参加したこともないし、TwitterなどのSNS上で批判したことはない。
(日々の仕事の愚痴や批判こそ垂れ流しているが……それは皆もそうだろう?)

さて、前置きが長くなってしまったが、首題の件に戻ろう。
多様性の時代が来たことで様々な表現が「世の中」から静かに消えていってやしないか。
チビ・デブ・ハゲのような身体的な特徴は、規制こそされないが非常に繊細な扱いを受ける。
次いで、ホモ・ゲイ・オカマ。「障害者」ではなく「障がい者」。
一昔前だったら、極めて当たり前の「キャラ」として成立していた気もするのだが。

ちなみに私は、障害者当事者だから、というわけではないが、たとえば書き方なんぞ「別に気にしない」が正直なところだ。
街なかで転んでいたり、電車内で杖をついていれば助けてくれる方がいる。
タクシーは障害者割引だって効く。よく使うからこそ、ありがたい話だ。

(筆者は世代ではないが)ボキャブラ天国で「兄は夜更け過ぎにユキエに変わるだろう」という替え歌と映像は有名だ。

今だったら絶対に放送できない。オカマなどのトランスジェンダーをバカにしていると捉えかねられないからだ。
この放送を見ていた当事者の中には、傷ついた方もおられよう。
だから、「あの頃のような、表現の自由を取り戻せ!」なんて言わない。

私が言いたいことはこれだけだ。

「多様性の時代」は、誰かの「キャラ」すら奪っていないだろうか?
むしろ大勢(たいせい)とは違った個性を持った人を、コミュニティから排除する結果になっていないだろうか?

「権利を認めてほしい!」「世の中を変えるべきだ!」
SNSを通じて声を上げることは素晴らしい。デモを行って声を上げることは素晴らしい。
しかし、その裏には「うまくやってるから、そっとしておいてほしい」という人もいるんじゃないだろうか。
私もその一人だ。

ジェンダーや障害を個性として見た時、「個性」の種類なんて人の数だけあると思う。だから、いくらデモをしても陳述しても、国民の代表たる国会議員にはその実態は正しく伝わらないんじゃないだろうか。
たぶん、徒党が大きくなっても結果は変わらない。全員置かれている状況が違うから、一枚岩にはなりにくい。

では、どうすればいいのか?
本当の「多様性の時代」なら、あなたのその苦痛さをひとりで発信すればいいのだ。こうやってnoteもあるのだから。

ただし、強い言葉を用いながら、徒党を組むことを目的にしてはならない。
あくまで目的は、自分と似たような悩みを持つ人に「私の味方がいるかもしれない」と受け取ってもらえることが大切なのだ。
インターネットの時代・匿名性の時代が可能にした、新しい表現の自由だ。

誰しもがインターネットを通じて様々な発信が行えるようになった現代。
大事なのは、自分なりの弱点を個性として、キャラとして昇華して、まだ見ぬ誰かに届けることなのかもしれない。

――そんなの、もうわかってるよ!と諸先輩方に言われそうだけれど。

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尾崎 太祐
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