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娘爆誕備忘録

2020年、8月18日。

子どもが産まれました。2574gのちび子。女の子です。
まとまりがないけれど、今の記憶で思い出せることをつらつらと書いていきます。

お腹の中で、もう「生まれて」いる気がしていた。

10ヶ月間、ずっと妻のお腹一枚隔てて向こう側で、もぞもぞ動いているのを見ていたし、ずっとこの中で”自分たちの子どもを育てている”感じを持っていた。

「これって、ちび子本人の姿を直接見えているか見えていないか、触れているか触れていないかの違いだけじゃない?『産まれる』ではなく『生まれる』という表現を使うなら、すでに『生まれている』よなぁ」なんて思ってた。

だからこそ、分娩台でほんとうに”産まれて”外界に現れたとき「やっと会えた」って言葉が自然と出た。よく出産の文脈でこのセリフを聞いたことがあったけど、そういうことだったんだね。

「産まれて」いく現場で。

出産では、妻がほんとうによく頑張ってくれた。

あの痛みにつよい不動心の妻が目の前で人生至上一番苦しんでいるのを見るのはなんともいえない気持ちになる。

苦労を経ずしてこの場にいて、そのくせ何もできない非力な自分とは対照的に、痛みに抗いながら必死に戦っている妻(と赤ちゃん)。その姿を目の前で見るともうずっと泣きそうだった。

「大丈夫。頑張ってるよ。もうちょっとだよ」くらいしか声をかけてあげられない。産まれた瞬間はうれしさと解放された妻への安堵とリスペクトで爆泣きした。

これまでは母胎という尊い”人体の仕組み”が守ってくれていたけれど、これからは自分を含めた”ヒト”によって守られるフェーズに入ったんだなと感じている。ここからがスタートだけど、ここからが第2フェーズな感もある。不思議な気持ちだ。

どんな子になってもらいたいんだろう。

いろいろ考えるけれど、自分のエゴがどうしても入っちゃうなぁ。あとコピーライターなんて仕事をしているからか、名前も何だか考え込んじゃうのがイヤだ。

この子にはコピーライターとしてではなく、父親として向き合いたい。コピーライターとしての色をなくしたい。

想いとしては、
とにかく周りに人がいればいい。
自然と戯れることで満ちる心を持っていてくれればいい。
何か好きなことがあればいい。
……あぁでももう世の中大変だから何かに護られていてほしい。

そんなこんなで名前は画数が爆発的によかった最っ高に縁起のいいなまえをチョイスすることに。そしてできるだけ意味はニュートラルな言葉をおこう。

この子が「この世にいてもいい」と思える理由づくりを。

「小林拓水 → パパ」

というよりも、

「小林拓水 → 子どもがいる小林拓水」

に変化すると考えていた方が個人的には合っていると思う。
どうしても世間一般的にすごいパパを目指しちゃいそうな自分は、「パパ」の称号を背負うと、ただでさえ生きづらい自分の人生にさらに減点方式で向き合いそう。

「世間一般的なパパ像 ー 小林拓水 = できていないこと丸出し」

みたいな。
左の項にいきなり世間一般的なパパ像をおくと不器用な自分はなんか苦しくなりそうだから

「小林拓水 × 子どもがいること = 子どもがいる小林拓水」

という考え方。いいパパを目指さずに、「子どもがいる小林拓水」をいかに善く生きるか、だと思っている。

この子がこの世にいる直接の原因は自分と妻にしかない。
だからこそ、この子が「自分がこの世にいてもいいんだ」と思える理由を何が何でもつくっていかなきゃいけないなとは思う。一般的なよきパパになれるかはわからないけど、この理由づくりにはこだわりたい。

何はともあれ、一緒に人生を歩む人が増えました。
これからよろしくね。

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