今日も「天皇」が日本人を殺している。
「上官の命令責任」 を認めて規定しないと、そもそも「組織」が、マトモに機能しない。
上官の命令責任が、明確でないと、それ自体が「忖度」を生む。忖度は「脱法的」であり、責任の所在をさらにあやふやにする。
それで、失態や戦争犯罪が起きても、責任は「部下・実行者」に擦り付けることになる。
だが、そんなことは他国やほかの組織には、「知らんがな。そりゃお前らの管理責任がなってない」って話で。
戦争中の、日本企業が朝鮮人や中国を勧誘や拉致をして過酷な労働をさせていた例が腐るほどあるけど、これも「責任の所在」をあいまいにすることで「逃げ切る」のが、この国の思惑であるが。
そもそもこういうことを認証したり推奨した「国家」の責任も、曖昧なのである。
そりゃ、軍隊の「上官の命令責任」すら明確化してないし、上官の責任逃れに従うのが「忠義」と買う言っていたカルトですから、「責任の所在」など曖昧になります。
それの逆噴射が、戦前の暴走する「帝国陸海軍」なのです。
上官に「責任をとらない・取らせない」ために・・・あるいは「天皇」に責任を取らせないために、同時に自らの勲功を上げるために、勝手に「忖度」し命令を偽造して、暴走して侵略を止めれず、中国大陸の深みにはまって衰亡していく。
そもそも「責任」をとらないのだから「暴走」しても結果がよければ、「無問題」が、横行した。
それは「軍人が傲慢」とかの問題ではなく「そもそも上官が責任を取らない・天皇は無責任」なので、「命令に絶対服従」でも「結果を問わない」のなら、その「意図」を「忖度」して、「結果」を出そうとするのも、当然の話なのだ。
「天皇」が無謬で神聖なら、「天皇」がそれでないのなら、「天皇」の廃位か廃止だが、それではない。
「天皇の無謬」は、現実に対する「無謬」でなく、それに追従する人間に対してだけ「無謬」なのであり、外国人や畜生・仏神・草木瓦石からみたら、相対的な一物でしかないのだ。
これが「天皇が無謬=無責任」を日本国の指導者が守り続ける理由であろう。
その「決定した誰か」となって責任を取りたくない、失敗したら。
だが、「成功」したら、その「決定した誰か」が多くの栄光を得るハズなのである。
その「無責任」で「栄光」だけを、指導層・天皇家が得るために「天皇の無謬=無責任」が不可欠なので有り、それに反対する者を、すりつぶしてきたのが、現代日本であり、それが衰亡の最大の原因なのである。
その結果なにが起きたか・・・・
一つは「自己責任論」である。
国家・政府が、基本的に日本人の統治に責任を持たない=天皇は無責任だから、そもそも選挙権を得ても、その国家が「日本人を守る」統治をする保証が無い。
日本国憲法に「国家が日本人を守る責任が有る」と明確に記しては無い。
まして、改正以前の憲法の「天皇」が唯一の統治権者でありながら、前の敗戦に全く責任が無い・・・てことを前提に、法律・法治思想ができあがっていたら、そりゃ、国家が日本人を守る責任が無いか希薄になるのは、当然である。
国民を守らない国家・・・・においては、自分で自分を守るしかない。当然隣人を守るのも躊躇する。家族を守るのも危険になる・・・。
日本の協調性の半分は「同調圧力による脅迫」であり、それに背くと「消される」からで、それを避けるための「おもてなし」なのです。
「一致団結」とはいうが、内心はいつも面従腹背。
「考えて行動」など、「一致団結」の邪魔になる。
考えて、「責任の所在」を調べ出すと、天皇はじめ指導者=責任者の責任を問われる。
その「自己責任論」で、他の倫理「助け合い」「思いやり」が、軽視され忘れていくと、自然「嘘」「誤魔化し」「奪い合い」が普通になる。
天皇の無謬~国家が国民に責任を持たないことで、あらゆる悪徳が発生していくのだ。
もう少し理屈や文章を練りたいけど・・・
ともわれ「天皇」と「天皇の無謬~無責任天皇」が、日本人を殺し、日本を永遠に破壊し続けて、もうすぐ日本人は死滅します。死体と家畜に二つになって。
天皇家を殺し尽くして 日本人を救う
天皇の無い 蒼い空を取り戻す
慈悲と憐みの富む社会になりますように。
おまけ
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