でも、その責任は取らない。のが天皇とその国家。

 より

上記文抜粋
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転載|アベノミクスとは、資本家のための成長と戦略

論座 アベノミクスは「終わってしまった近代」の幻影を追ったドン・キホーテだった~水野和夫・法政大教授に聞く(前編)

なぜアベノミクスという、あれほど危険でギャンブルじみた社会実験が多くの人の支持をうけて登場したのだろうか。

今回の「アベノミクスとは何だったのか」シリーズでは、水野和夫・法政大教授に、長い歴史軸のなかにアベノミクスがどう位置づけられるのかを解説していただく。水野氏は「資本主義の終焉」を早くから看破してきた。深い歴史眼をもった経済学者である。今回も千年レベルの歴史のなかで、今起きている経済現象の意味を読み解いていただこう。

水野 アベノミクスの「3本の矢」のうち、第1の矢は大胆な金融緩和です。物価を上げ、成長率を上げることをめざす政策でした。実質GDP(国内総生産)が成長すれば、あらゆる問題が解決できるようになります。フランスの歴史家フェルナン・ブローデル(1902-1985)は「成長はあらゆるケガを治す」と言いました。まさに彼の時代はそういう時代です。

成長すれば税収や保険料収入も増えるから、社会保障政策もうまくいく。人手不足になれば賃上げがおこり、生活水準が上がって、中産階級ができる。そうすると政治も安定して不都合なことは何もない。成長さえしていれば、すべてうまくいく、不都合なことはほとんどない。そう考えられてきました。しかし、そういう時代はおそらく1970年代、80年代で終わったのだと思います。

 この20~30年のあいだに起きたのは、資本は成長しているけれど、賃金は下がっている、ということです。いま「成長があらゆる問題を解決する」というのは資本家だけについて言えることだと思います。

その背後で働く人々は踏み台にされ、生活水準を切り詰めることを迫られています。先進国はどこも一緒です。米国ではトランプ現象が生まれ、欧州ではネオナチが移民排斥を唱え、英国は欧州連合(EU)からの離脱を選びました。先進国はどこもガタついている。民主主義国家の数が減って、専制主義や権威主義の国が増えているのは、そのためです。

(中略)

――アベノミクス第1の矢(金融緩和)が資本家のための成長戦略だったということですか。ただ、第2の矢(機動的な財政出動)で、労働者らへの分配を念頭に置いていた可能性はないですか。

水野 ちがうと思います。なぜなら安倍政権は社会保障をそれほど充実させてきませんでした。機動的な財政政策というのは、異次元緩和で物価が上昇していけば、さらに機動的な財政で実弾を注ぎ込む、という程度の意味だったと思います。

――あくまで資本家のための戦略だったということですか。

水野 そうです。

(中略)

水野 経済学者のJ・M・ケインズ(1883-1946)が言っているのですが、経済学の目的である「豊かにすること」はあくまで中間目標です。その先にあるのは「明日のことを心配しなくていい社会」です。そのためには社会保障を充実しないといけない。困ったときには援助の手がさしのべられる。いまなら国家によってです。(中略)

働いている人も、引退した人も、明日のことを心配しなくていい社会にしないといけない。

※一部転載、全文はこちらから

https://webronza.asahi.com/business/articles/2023030600002.html

以上

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抜粋終わり


より

上記文抜粋
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「資本家のための成長」示した伊藤リポート
――成長で人々は豊かになれなくなったと?

水野 アベノミクスが失敗したのは、そもそも近代の土台となってきた、中間層を生み出す仕組みがなくなってしまっているためです。いままでは成長で中間層が増え、みなの生活水準が上がっていった。そこまでは、成長はいいことだ、ということで良かったのですが、成長しなくなったとき、いったい何をめざしたらいいかわからなくなってしまったのです。安倍晋三元首相も成長の先にどういう社会をつくりたいのか、結局言えませんでした。本当は「成長」は最終目的ではなくて、中間手段のはずなのです。

 経済産業省の産業構造審議会の分科会が出した、悪名高き「伊藤リポート」というのがあります。伊藤邦雄・一橋大教授(当時)が2014年に座長となってまとめたものです。ここで日本企業はROE(株主資本利益率)を8%以上にする目標が掲げられました。さらに欧米企業の水準である15~20%まで上げてほしいということも、明文化こそされなかったけれど報告の行間に漂っていました。

 当時、日本企業の平均的なROEは5~6%でした。つまりアベノミクスというのは「ROEを5%から8%に引き上げよ」という資本の成長戦略だったのです。安倍政権は、成長の主語が資本家だということを隠していたのではないでしょうか。

 安倍政権は「新3本の矢」で、「名目GDPを600兆円にする」という目標も掲げました。当時のGDPは500兆円。5%だったROEを15%くらいに引き上げるためには、名目GDPが増えた分100兆円がすべて当期純利益に回らないと、そこまでいきません。これらの目標に賃金はもともと反映されていません。もし賃上げにも反映させたいなら、実質2%、名目3%ていどの成長ではぜんぜん足りません。安倍政権は賃上げを企業に求めましたが、具体的な数値目標は言いませんでした。

――アベノミクス第1の矢(金融緩和)が資本家のための成長戦略だったということですか。ただ、第2の矢(機動的な財政出動)で、労働者らへの分配を念頭に置いていた可能性はないですか。

水野 ちがうと思います。なぜなら安倍政権は社会保障をそれほど充実させてきませんでした。機動的な財政政策というのは、異次元緩和で物価が上昇していけば、さらに機動的な財政で実弾を注ぎ込む、という程度の意味だったと思います。

――あくまで資本家のための戦略だったということですか。

水野 そうです。

・・・・・・・・中略・・・・・・

労働時間を減らしても日本経済に問題ない

水野 次にやらないといけないのは労働時間の短縮です。ケインズは、将来の労働は週15時間になると予言しましたが、それはちょっと無理にしても、もっと短縮が必要です。ドイツでは派遣・非正規も含め1人当たりの年間労働時間が1300~1400時間です。日本は1700時間ほど。300時間余分に働いて1人当たりGDPはドイツより劣っています。もし日本人の能力が3割劣っているなら長時間労働もやむを得ないのですが、そうではありません。

――日本人の労働時間の長さは完ぺき性、たとえば、商品をぴかぴかに磨くとか、お辞儀をするとか、そういう追加的な仕事が積み重なった結果ではないのですか。

水野 付加価値につながらない仕事をいっぱいやっているからです。私は内閣府で働いていたとき、たくさんの、しかも内容が重複している白書を多くの人員と多大な労力をかけて作成していることに疑問を抱きました。上司に「誰に向かって作っているのですか?」と聞いたことがある。大臣に説明する会議の分厚い資料だって、大臣はろくに見ていないのに何のために作るのだろうと思っていました。

――でも日本の公務員は先進国で人口当たり職員数が一番少ないです。よく働いているとも言えるのでは?

水野 内閣府でも人手が足りない、足りないと言っていました。それなら不必要な仕事をやめて、必要な仕事にシフトすればいいだけの話です。

――たしかにコロナ対策では公務員の仕事の非効率さが目立ちました。いろんなことが滞り、ワクチンも他国に後れをとりました。人手が足りず、それをカバーするための人員のシフトもできませんでした。

水野 あるとき、内閣府の幹部が経済報告を発表する記者会見で、「1000の経済指標を分析してこうなりました」と言っていた。そんなにたくさん見たら余計わけがわからなくなると思った記憶があります。ふつう30~40の指標をみれば景気判断ができます。そんな分厚い資料を作っても大臣は見きれないし、細かい指標まで調べるために民間企業を呼びつけてヒアリングもする。民間の人は時間の無駄だと思いながらいやいや話しているのがわかる。

 この霞が関流の無駄なやり方が、出向者などを通して民間シンクタンクにも広がり、民間企業のなかでも広がっていくわけです。こうやって欧米より3割ぐらい無駄な仕事をしているんだなあと思っていました。1人当たり300時間くらい時短をしても日本のGDPはぜんぜん減らないと思いますよ。

近代社会ではない社会を作り直すしかない

――社会福祉を充実させるのは賛成ですが、そのためには財源が必要です。国民はその財源を税金や保険料で負担したくないから、みな「成長」という言葉に逃げているのではないですか。アベノミクスは資本家のためでもあるけれど、結局、国民も望んだ結果ではないでしょうか。

水野 そうですね。成長すれば何とかなるという刷り込みが国民に行き渡っています。でもそれが終わっているのは、今世紀のコンコルドとジャンボの引退ではっきりしています。近代でも中世でも一つの時代の中心概念はなかなか動きません。中世は神様であり、天動説でした。神様は決まったところにいて動かない。天球の一番上にいる。それをコペルニクスによって宇宙は無限ですよと言われ、神様の位置がわからなくなった。近代は神様が追放され、すぐに貨幣が中心になりました。貨幣が世の中で回転すると資本になるので、資本が世の中の中心になります。だから資本主義社会になったのです。

 最初は英ポンド、次にドルが基軸通貨となりました。ドルは金とリンクして固定相場制だったが、ニクソンショックで金と結びつきがなくなる。その結果、インフレが起きて、貨幣価値が目減りしていく。円安になればドル換算で実質価値が目減りします。ニクソンショックで資本家たちは「俺のもっている資本がいくらか分からない」と不安になり、より資本蓄積に励むようになりました。1円でも資本を増やさないといけないという強迫観念にかられたのです。

 米誌フォーブスによると、いまビリオネアは世界に2700人以上います。そのなかの上位10人が持っている資産を毎日100万ドルずつ使ったとしても全部なくなるのに414年かかると、国際NGOオックスファムが計算しました。所有権というのは自由の関数だったはずですが、死んでから400年間も自由が保障されたとしても、もはや関係ありません。超富裕層の所有権はまったく意味をなさないくらい膨張してしまったのです。

 その一方で金融資産ゼロの人は自由が制限されています。病気になったときに入院できる自由はありません。その意味で、近代社会は崩壊しているのです。それなのに近代社会の前提である「成長がすべてのケガを治す」という概念が多くの人の頭のなかには依然としてこびりついているのです。

――とはいえ、みな近代社会を放棄しようというつもりはなく、近代社会を再生したいと願っているはずです。

水野 近代社会じゃない社会を作り直すしかないですよ。

――社会主義ではないですよね?

水野 社会主義ではないです。資本主義も社会主義も近代社会から派生してきたものです。資本主義は市場の合理性を信じ、社会主義はテクノクラート(官僚)の合理性を信じた。ソ連のノーメンクラトゥーラ(エリート層・支配階級)の人たちが1年間の生産計画もすべてわかっているという前提の社会主義は、先に崩壊してしまいました。人間に対して合理性を信じた社会主義が崩壊し、いま市場に対して合理性を信じた資本主義がおかしくなっている。いちど崩壊したら、もはやリフォームはできないものです。


時代を画したモデルはリフォームできない


――リフォームができなくとも、それに変わるシステムが見当たりません。

水野 そう、ないことが問題です。

――中国の国家資本主義のようなやり方も登場していますが?

水野 あれは資本主義と社会主義のダメなところを両方あわせたようなシステムです。

――今めざすべきモデルは何もないということなら、このまま行くしかないというのが大方の意見だと思います。それではだめですか。

水野 近代はもうリフォームできないのです。コペルニクスによって天動説が否定されたにもかかわらず、ルターが宗教改革をやった。しかしそれも失敗して近代社会になった。中世も一生懸命、リフォームしようとしたのです。だけど結局、前提の宇宙論が崩れると崩壊してしまう。古代だって西ローマが崩壊して、もういちどカール大帝が西ローマ帝国を復興させましたが、すぐそのあと分裂して暗黒の中世に入っていきました。

 近代も同じです。米国ではアルコール中毒や薬物中毒の患者たちによる絶望死が増えているそうです。50代、60代の白人男性が多いとも。近代社会、自由社会のチャンピオンである米国でさえ、そうなっている。トランプ現象を生み、議事堂襲撃事件を起こしているのです。長い間みなが信じていたシステムがいったん崩れたとき、おそらくもう戻れないのだろうなと思います。

――もうダメというだけでは絶望を広げるだけです。なにか新しい希望もご提示いただかないと。

水野 私が言えるのはせいぜい、無理に成長をめざす必要はもうないということだけです。近代社会では、より速く、より遠くへ、合理的に、という行動原理がうまくいきました。13世紀に「東方見聞録」を書いたイタリアの商人マルコ・ポーロ以来、欧州の商人たちはインドまで行って大もうけしました。でもその商人たちには、その行為がキャピタリズム(資本主義)だという認識は誰にもありませんでした。より遠くへ行けばもうかる。それだけのことでした。

 キャピタリズムという言葉を初めて生み出したのはドイツの経済学者ヴェルナー・ゾンバルト(1863-1941)です。「資本論」のカール・マルクス(1818-1883)もキャピタリズムという言葉は使っていなかった。「資本論」は「キャピタル」です。それは13世紀からありました。そして16世紀になると、キャピタリスト(資本家)という言葉が出てくる。彼らの行為を一つのシステムとしてとらえる「キャピタリズム」という概念はその何百年も後になってようやく出来たのです。

 先進国のなかでも豊かな人と貧しい人に分かれていくのが資本主義なので、ロックは「貧しい人を救え」と言い、ケインズは「ピラミッドを作ってでも公共投資をやって失業から回復させろ」と言って資本の暴走を抑えてきました。でも途中でまたおかしくなってしまう。資本家が我慢できなくなって本性を現すからです。

 ケインズは「英国の資本家の第1号は海賊ドレイクだ」と言いました。フランシス・ドレイク(1543-1596)がスペインから略奪した財宝を英国に持ち帰ったことで、英国では物価が高騰して実質賃金が大幅に下落し、資本家は利潤を増やしたといいます。

 資本家というのは普通の人がやらないようなことをやる。そうでないと投資の元手が手に入れられないわけです。ふつうに働いていたらなかなか資本家にはなれません。工場を買い取るとか、場合によっては一線を越えた賭けをしないといけない。それで法律にひっかかったら排除されるし、運良くひっかからなければいい。当時、海賊は海の法律がなかったからドレイクは逮捕されませんでした。

――水野さんが「資本主義はコレクション、蒐集(しゅうしゅう)の行為」と言っているのはそのことですね。

水野 資本主義の蒐集には際限がなく、ゴールがないのです。ネオリベ(新自由主義者)が権力を握って、その際限ない仕組みをもういちど整備し修復したとしても、あるいはネオリベを否定して、社会福祉のケインズのようなことをやって、いったんもたせたとしても、またいずれ資本家の本性は出てきます。ならばもうキャピタリズムをやめてもいいだろうと思うのです。

 ケインズは「資本が足りないときは資本家が不正なこと、横暴なことをやっても、まあそれは見逃してやろう」と言っていました。ケインズも資本家は横暴だと思っていたのです。それでも食料工場が足りなくなれば、必要な食料が供給できなくなる。だけど現代のように資本がいっぱい行き渡ったら、ダメなものはダメと言わなきゃいけない。ようやくそれが言える時期にきたのだろうと思います。

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抜粋終わり

資本主義も問題だが、もう一つ問題は「知識人・エリート・富裕層の無責任と傲慢」だろうね。


より

上記文抜粋
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第629回:アベノミクス、「新時代の日本的経営」、今さら失敗と言われても……。の巻(雨宮処凛)

 「今になって“反省してる”とか言われても手遅れなんだけど……」

 3月なかば、東京新聞の記事に思わずそう呟いた。

 その記事とは、「『賃金上がらず予想外』アベノミクス指南役・浜田宏一氏証言 トリクルダウン起こせず…『望ましくない方向』」

 記事は「アベノミクスの指南役」だったという浜田氏のインタビュー。

 当時、内閣府参与だった氏は政策の開始当初「アベノミクスはトリクルダウン」と強調していたという。しかし、大企業や富裕層が儲かっても、一向に下に「滴り落ちる」ことはなかったのは周知の通りだ。

 このような現実について、浜田氏は「ツケが川下(の中小企業や労働者)に回った」とし、「賃金がほとんど増えないで、雇用だけが増えることに対して、もう少し早く疑問を持つべきだった。望ましくない方向に行っている」と語っている。それだけではない。あれほどトリクルダウンと言っていたのに、「最近の私は、アベノミクスをトリクルダウンではなかったと思っている」と言い訳なのか転向なのか自己保身なのかとにかく今になって手のひらを返し、「これまでトリクルダウンのようなことをやっていると誤解していた。反省している」と述べている。

 いやいやいや!! 87歳で米エール大学名誉教授である浜田氏にとっては「間違えちゃった、てへ」で済ませられることだろうが、その失敗の尻拭いをさせられるのは間違いなく庶民である。そしてその尻拭いは時に、人生を台無しにしながらなされるという残酷さをはらんでいる。

 もうひとつ、最近やはり東京新聞を読んで心から憤慨することがあった。

 それは「非正規雇用の活用を30年前に提言したら…『今ほど増えるとは』 労組側『やっぱりこうなった』」

 この記事が扱うのは、日経連の「新時代の日本的経営」。

 今から28年前の1995年に発表されたこの報告書は、労働者派遣法と並んでこの国の雇用破壊の元凶と言われている。

 内容はと言うと、これからは働く人を3つに分けましょうという提言だ。

 ひとつ目は正社員にあたる「長期蓄積能力活用型」。幹部候補生みたいなもの。

 次は高度な専門職である「高度専門能力活用型」。むっちゃスキルを持ったスペシャリストというイメージ。

 そして最後が「雇用柔軟型」。聞こえはいいが、当初から「死なない程度の低賃金の使い捨て労働力を増やすつもりか」と批判されてきた。

 バブル崩壊から数年後に出されたこの報告書により、不安定雇用はどんどん拡大。2004年には製造業派遣も解禁され、95年には1001万人、雇用者の20.9%だった非正規は、22年には2101万人と倍増。非正規雇用率は今や4割に迫る勢いだ。

 不安定雇用の問題は2000年代に入り「偽装請負」や「違法派遣」として注目され、またグッドウィルやフルキャスト(懐かしい…)など日雇い派遣の現場での「データ装備費」などが大きな批判に晒された。07年には「ネットカフェ難民」という形で広い層にホームレス化が起きていることが知られ、08年にはリーマンショックを受けてこの国にも「派遣切り」の嵐が吹き荒れる。年末を前に多くの人が寮を追い出され、職も住まいも所持金も失った人たちの受け皿として、日比谷公園に「年越し派遣村」が出現。505人が極寒の野外テントで命をつないだ。

 あれから、15年。非正規で働く人はとっくに2000万人を突破し、そこにコロナ禍が直撃して3年、というのが現在だ。

 「コロナで派遣の仕事を切られて寮を追い出された」「製造業派遣で10年以上日本各地を転々としてきたが、コロナで工場が止まり、契約を切られて路上生活になった」

 支援団体には、日々こんなSOSが寄せられる。世代としては多いのは20〜40代。コロナ禍の3年で、私も所属する「新型コロナ災害緊急アクション」に寄せられたメールは約2000件。そのほとんどが非正規で働く人からだ。この3年、労働者派遣法の、そして「新時代の日本的経営」の破壊力をまざまざと見せつけられてきたというのが私の実感である。

 さて、東京新聞には、そんな「新時代の日本的経営」をまとめた日経連元常務理事の成瀬健生氏(89歳)のインタビューが掲載されていたのだが、非正規雇用の拡大について「今ほど増えるとは思わなかった」などと語っており、憤慨のあまり血管がブチ切れそうになったのだった。

 成瀬氏によると、当時の非正規は高齢者や主婦、学生が中心で、「増えても雇用者の20〜25%」と考えていたという。しかし、前述したように現在は4割近くまで増大。それだけではない。学生や主婦が中心だった時代と違い、今や非正規の多くが、自らが家計の柱。

 また、成瀬氏は、景気が回復すれば経営者は非正規を正規として雇用すると思っていたというが、それがどれほど甘い見通しだったかはこの現実を見れば周知の通りだ。

 そうして言い訳のように「私が日経連でお付き合いした経営者はもっと人間を大事にしていた。今はお金だけためて人間を育てることを忘れてしまった」と語るが、一度「非正規」という旨味を覚えた企業がそれを手放すはずなどないことは子どもだってわかるのではないだろうか。

 そんな「新時代の日本的経営」から28年。

 日本は先進国で唯一賃金の上がらない国となり、数年前には韓国にも抜かれた。

 21年の平均賃金を見てみると、正社員508万円に対して正社員以外198万円(国税庁)。ちなみに20年までは正規・非正規という分け方だったのだが、なぜか21年から「正社員以外」という区分になり、その途端、「正社員以外」の平均賃金は対前年比で12.1%増となった。こういう小手先のことで「上がってる感」でも出したいのだろうか?

 前年、20年の平均賃金は、正規で496万円、非正規で176万円。性別で分けると男性非正規は228万円なのに対し、女性非正規は153万円。月収にすれば13万円以下。地域によっては生活保護を下回る額だ。そんな非正規女性は21年の労働力調査によると1413万人。そのうち夫がいる女性は6割弱。4割強がシングルマザーなどの世帯主や単身女性だ。

 国は「異次元の少子化対策」などと言っているが、雇用破壊第一世代のロスジェネからすると、まずは安定雇用を増やすことがいちばんの近道である。

 「失われた30年」は、「新時代の日本的経営」とほぼ同時に始まった。その30年と20〜50歳くらいまでが丸かぶりする私たちロスジェネ。私もあと2年で50歳。そう思うと、なんだか取り返しのつかないような気持ちが襲ってくる。

 89歳の成瀬氏と87歳の浜田氏に、この思いは少しでも届くだろうか。超成功者であり超エリートであるあなたたちが間違いを認めても、もうすべては手遅れなのだ。

 そう思うと、なんだか泣きたくなってくる。

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抜粋終わり

89歳の成瀬氏と87歳の浜田氏に、この思いは少しでも届くだろうか。超成功者であり超エリートであるあなたたちが間違いを認めても、もうすべては手遅れなのだ。

成瀬氏と浜田氏を、処刑するか、刑務所に終身刑でもしたら、まあ多少は改善する。

第一、エリートは社会に対して無責任ですは・・・


上記文抜粋
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能力主義は正義か。

ハーバード大学の学生の3分の2が、所得規模で上位5分の1にあたる家庭の出身である事実を知っていますか? また、東大生の約60%が、世帯年収950万円以上の家庭出身です。

この事実にもかかわらず、優秀な学生の多くは、入学できたのは努力と勤勉のおかげだと信じています。19世紀以降、私たちは人種や性別、出自によらず、能力の高い人が成功を手にできる、平等な世界を理想としてきました。しかし、こうして生まれた能力主義がいま、エリート層とそれ以外との間に未曾有の分断をもたらしています。

・・・・・・中略・・・・・・・

富の分配がされないのは、単なる技術的な問題?

現代では、経済活動がモノを作ることから資金を運用することへ移行し、社会はヘッジファンド・マネージャー、ウォール街の銀行家、知的職業階級などに対し、莫大ば報酬を気前よく与えます。

一方、学歴や能力が低いことや、労働者階級が携わる仕事に対する社会の敬意は著しく低下しています。また、政治家や官僚をはじめとするエリート、世の中の多くは、こうした感情的な側面を見落としています。彼らの考えでは、現在の経済問題は富の分配に関する技術的な問題にすぎない。つまり、利益を得てきた人々が、労働者階級を十分に保障していないことだけが問題であるとします。

しかし、非エリート層の大衆の不満の原因は、そのような表面的な問題では片付けられません。彼らの不満は、より感情的な問題です。

大衆の不満の捌け口となっているのは、粗暴で権威主義的なアイデンティティーと帰属意識、宗教的原理主義やナショナリズム。これが今日、我々が目にしているアメリカの状況です。40年にわたる市場主導型のグローバリゼーションが、一般市民の力を奪い、大衆の反発を引き起こしています。

非エリート層の代弁者

ドナルド・トランプは、自分自身が億万長者であるにもかかわらず、こうした大衆の劣等感や怒りをよく理解し利用しました。平等で均等な機会について、絶えず語り続けた民主党のバラク・オバマ、ヒラリー・クリントンとは異なり、トランプはそのような綺麗事をほとんど口にしません。

こうした戦略的な態度こそ、大衆の非エリート感情とトランプの勝利の核心にあるものでした。

他方で、オバマやクリントンのようなエリート層たちが、能力主義が生み出すおごりや、大学に行っていない人に下される厳しい評価を理解するのは難しいです。著者は、現在のアメリカ政治で最も深刻な政治的分断の一つは、大学の学位を持っている人と、思っていない人の間に存在すると主張します。2016年の選挙でトランプは、大学の学位を持たない白人有権者の3分の2の票を獲得しました。

ヒラリー・クリントンは修士号や博士号などの上級学位を持つ有権者の間でのみ得票。また、トランプに投票した人々の多くはナショナリストであり、クリントンに投票した人々の多くはグローバリズムを支持していました。


エリート主義的な自惚れ


このような現象は、アメリカ国内に留まりません。イギリスのEU離脱の国民投票でも、同様の分断が現れました。大学教育を受けていない有権者のほとんどは離脱へ賛成票を投じ、大学院の学位を持つ有権者の大多数は残留に投票。

つまり、アメリカでもイギリスでも、学歴が政治思想を分断しているのです。学校教育の制度化や普及とともに社会に浸透した能力主義は、属性により生涯が決まってしまう前近代的な仕組みよりもはるかに公正かつ効率的で、望ましいものであると考えられてきましたが、社会の連帯を蝕み、時代に取り残された人々の自信を失わせたのです。

また、能力主義は学位こそが、立派な仕事やまともな暮らしへの主要ルートだと強調することで、学歴編重の偏見を生み出しています。

さらに、古くからある労働の尊厳を傷つけ、大学へ行かなかった人々を劣等感に陥れ、ますます能力主義はエリート主義を助長させます。社会的、政治的問題を最もうまく解決するのは、高度な教育を受けた頭のいい中立的な専門家だと主張することは、エリート主義的な自惚れであると言えます。

能力主義により腐敗してしまった民主政治を再び活気づけるためには、現代社会で賞賛されている能力主義的な努力が自惚れであり、我々の社会的絆に及ぼす腐食効果を真剣に受け止める必要があります。

・・・・・・・中略・・・・

学歴が素晴らしければ問題ない

2018年、ブレッド・カバノーはトランプによって、連邦最高裁判所を陪席判事に指名されたました。その資格審査も終盤に差し掛かったところで、カバノーに疑義が生じます。ある女性が高校時代のパーティーで、酔ったカバノーから性的暴行を受けたと告発したのです。

この件について上院議員たちが問いただすと、彼は告発を否認しただけではなく、なぜか奇妙なまでに的外れな能力主義的弁明を開始。彼は高校時代にどれほど懸命に勉強したか、いかにしてイェール大学に、さらにそのロースクールに合格したかということを雄弁に述べたのです。

確かに彼の経歴は本物。しかし、彼が18歳の時にパーティーで酒によって、若い女性に性的暴行を加えた事実と、彼の学業成績にどんな関係があるのでしょうか。ところがアメリカでは、物事の判断基準として学歴編重主義が大きな力を持っているため、学業成績が免罪符として機能しています。

結局、カバノーの指名は議会で賛成多数で承認され、彼はめでたく最高裁判事に就任。現代の能力主義者内において、学歴が素晴らしければ、たとえ過去に女性に性的暴行を加えたとしても、何の問題にもならなかったのです。

3. 運も実力のうちという自惚れ

ここまで能力主義が、私たちの社会や政治にもたらす危険や害悪について紹介していきました。ここからさらに、能力主義をより道徳的な側面から考察していきます。

まず、2つの社会を想定してみましょう。ともに不平等の社会で、その程度も同等。その上で以下のような違いがあります。

貴族社会
一つ目は、貴族社会。所得と資産は出生によって偶然に決まり、一つの世代から次の世代へと受け継がれます。貴族に生まれた者は裕福で、農民に生まれた者は貧しい暮らしを強いられます。同じことが両者の子供にも、その子供の子供にも当てはまります。

能力主義社会

二つ目は、能力主義社会。所得と資産の不平等は、世襲特権ではなく、人々が才能と努力によって獲得したものです。多くの人は、この二つ目の能力主義社会が好ましいと思うでしょうが、貴族社会が劣ると思う理由は、資産を生まれた階級に閉じ込めているからです。

貴族社会は人々に出世を許しません。対照的に、能力主義社会では、人々は才能と創意を発揮することで、自分の置かれた境遇を改善することができる。これが、能力主義社会に向かわせる強力な理由です。人々の才能や願望は様々で、能力主義によって不平等が完全に解消されることはありませんが、少なくともそれぞれの能力や功績を反映したという点では、貴族社会よりはフェアであると言えるでしょう。

しかし、次のように考えてみるとどうでしょうか。自分が社会の頂点に立つか、底辺に沈むかが前もって分かっているとしたら? 自分が金持ちになれないと分かっていたら? あなたは、二つの世界のどちらで暮らしたいでしょうか。

能力主義という神話

裕福な人と貧しい人の格差は、どちらの社会でも同じくらいひどい前提で、身分が同じならば、どちらの社会も同じと考えられるかもしれません。しかし実際には、単純な所得や資産の量だけでなく、裕福さや貧しさに至るプロセスも、個々の自尊心などに影響を与えます。仮に貴族社会の上位層に生まれていれば、自分の特権は幸運のおかげであり、自分自身の手柄ではないと思える。

一方で、努力と才能によって、能力主義社会の頂点に登りつめたとすれば、その成功は受け継いだものではなく、自ら勝ち取ったものだと誇りに思えることができます。こうした観点からすると、裕福になる場合は、貴族社会よりも能力主義社会の方が自尊心が高く、より好ましいように思えます。

貴族社会のような封建社会では、従属的地位にあることは自分の責任だと苦しむことはないはずです。苦役に耐えながら支えている地主は、自分よりも能力が高いのではなく、運が良かったに過ぎないからです。

対照的に能力主義社会で最下層に居続ければ、それは自ら招いたことであり、努力が欠けていたのだと自己嫌悪に陥ることでしょう。この観点からすれば、能力主義社会よりも貴族社会で貧乏である方が、精神的にはまだましであると考えられるかもしれません。

ともすれば、能力主義に対する主な不満は、裕福な家庭に生まれて優良な幼児教育を受けたエリートはスタート地点が違う、大学は入試で裕福でコネのある人々にゲタを履かせているといった、世間にはびこる平等とは言えないことに対してになります。この不満がある以上、現代において能力主義は神話であり、いまだ果たされていない遠い約束です。

能力主義は不平等の正当化

また、能力主義の真の問題は、それを実現できないことではなく、その理想そのものに欠陥があるとは考えられないでしょうか。ここで、次のような想像をしてみましょう。ある日、人類は完璧な能力主義社会を実現。その結果、恵まれない環境で育った人を含め、誰もが特権階級と同じ土俵で競い合えるように。この場合、本当に理想的な社会が成立するでしょうか?

著者は、それは疑わしいと言います。まず、能力主義の理想にとって重要なのは地位を動かせる“流動性”にあり、平等であることに価値はないということ。能力主義は金持ちと貧乏人の間の大きな格差が、悪いとは言っていないのです。

能力主義の理念によれば、金持ちの子供と貧乏人の子供が時を経るにつれて、それぞれの能力に基づいて正当に立場を入れ替えることが可能であればよいですが、そこまでの適切な条件をどう設定すべきかは議論はされません。つまり、能力主義は不平等の解決ではなく、不平等の正当化としてのみ機能しているのです。

・・・・・・中略・・・・・・

能力主義の賛成派は、全員が平等な条件で競い合う限り、たとえ不平等が生じたとしても、その結果は平等であると主張します。このとき、問題は才能を持って生まれることが、個々の実力によって得られた功績であるかどうかです。

先に述べたとおり、能力主義社会では、大学に裏口入学できる裕福な家庭に生まれたという優位性を、実力によって得た功績ではなく、持続的世襲と同じ幸運であると非難します。それなら、特定の才能を持って生まれることも幸運ではないでしょうか?

また、自分が持っている才能を高く評価してくれる時代や社会にたまたま暮らしていることも、自分の実力によって得たものだとは言えません。これも、運がいいかどうかの問題です。

能力主義社会の魅力は、少なくとも適切な条件下では、成功は自分自身の手柄だと思え、人々に自由の感覚を与えること。しかし、才能は自分の手柄ではないと認めれば、この独立独行のイメージを維持することは難しくなります。自分の才能は遺伝的にたまたま授けられた贈り物だとすれば、能力主義者における努力の成果や実力などという言葉は、的外れな自惚れに過ぎません。

宝くじが当たったのを自分の努力の結果であると公言することと同じ。運は実力ではなく、むしろ実力が運だと言えるのです。また、サンデル教授は、生まれ持って裕福な人はこの自惚れがない分、引け目があり、より資産を利他的使えるため、さも実力で裕福になったと思う人よりも良いとさえ主張します。

・旧来の貴族社会も現代的な能力主義社会も、不平等を正当化するという点では同じ社会構造である。

・能力主義社会にとって重要なのは、成功を得るために必要な機会が、すべての人々に均等に与えられていることであり、そこでは各人の能力差という問題が無視されている。

・生まれつき与えられた能力や才能は宝くじのような幸運にすぎず、それを自らの努力の結果であるとする能力主義は的外れな自惚れに過ぎない。

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抜粋終わり

資本主義は「能力」というガチャと「生まれ・親」と言うガチャを認めない、一種のカースト制になっている。

さらにいうと、それは、「勝ち組」にも異様なストレスを与えている・・たいして重任を背負うわけでもなく、命も掛けても無いのに・・


で、勝ち組様の社会での「失敗」は、全部、普通の「勝てなかった」庶民が背負う。

そんな糞みたいなクソゲーが、資本主義


「天皇・為政者・エリートの無責任」を強化したのが「天皇」とかいうカルト宗教。


諸葛亮兵書から書経の一節から

「君子を侮れば、その心を尽くさせれない。小人を侮れば、その力を尽くされることも無い」

まあ、資本主義は、相互侮辱の恐怖の利欲体形が、どこか根幹にあると思う。

市場経済を全否定はしない。けど、資本主義は、社会主義同様に「頭が悪い」経済思想なのですよな。

天皇根絶  日本人救助

天皇の無い 蒼い空を取り戻す

慈悲と憐みに富む社会になりますように

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