愚かさに、愚かさを積み重ねる・・。
https://www.vogue.co.jp/change/article/vogue-book-club-jitsuryokumo-unnouchi
上記文抜粋・・・・・・・・・
オバマ元大統領の罪深さを突く。マイケル・サンデル著『実力も運のうち 能力主義は正義か?』【VOGUE BOOK CLUB|中村佑子】
「多様性」「多様な他者を受け入れよう」と言いながら、本当に私たちは別の世界を生きる他者のことを受け入れ、理解し、赦しあうことができているのか? 「多様性」を唱えつつも、実のところ多様な他者を排除し、自分と同じ、同族のような人とだけ集まり、傷をなめあい、同じ空気を吸って安心する……。とくに、本来は多様性を重視する「リベラル」と呼ばれてきた人々のなかに、努力の果てに獲得した高い学歴や輝かしい功績に安住し、努力できない人々を心の奥底では蔑んで、「ひどい世界になったものだ」と同じ立場の者同士で嘆きかわす者がいる──そんな現状に私自身自嘲をこめて落胆していたころ、この本を手にとった。
本書は、こうした多様性社会が、いまの世界に蔓延する、形だけの「多様性」の姿であると、鋭く切り込んでくる。形だけの「多様性」社会に、メリトクラシー=能力主義への批判、つまり努力して学歴や功績を勝ち取った者こそが社会の中枢に居座り、人々のトップに立って当たり前である、ということへの批判をぶつけ、学歴偏重社会の奥底に眠る人間の奢りをあぶりだす。
ここで、「メリトクラシー」が何を指すのかを整理しておきたい。解説で社会学者の本田由紀は、メリトクラシーの訳語は、「能力主義」ではなく「功績主義」の方が、適切ではなかったかと指摘している。能力主義だと、生まれ持った才能を称揚しているのだと混同されやすい。しかしサンデルが本書で批判しているのは、むしろ「功績」、つまり何らかの才能や努力によって獲得された「功績」を、当然と思う心持ちの方だ。本論でも、サンデルが批判を傾けるメリトクラシーを「功績主義」として、述べていきたい。
オバマ元大統領はなぜ、批判されるのか。
たとえばトランプに比して知的で上品、コロンビア大学とハーバード・ロースクールに学び、いまも膨大な読書量を誇るオバマ元大統領も、批判対象として例外ではない。とくにオバマは“You can make it if you try.(挑戦し努力すれば、夢は叶う)”という言葉を、演説で何度も繰り返していた。この一見、アメリカンドリームを体現し、人を鼓舞しようとする言葉に、サンデルは批判の矛先を向ける。
オバマは、妻のミシェルが労働階級の生まれから、努力して高等教育を勝ちとった功績の人だと称え、高い学力を得た人間がしかるべき地位につくよう、政策を整えた。この一見、良い話として疑問を持ちにくい話を、サンデルは、オバマの考え方の背後には才能主義があり、努力によって勝ち得た功績を、本人が独占的に享受して当たり前だとする考え方、つまり学歴差別につながるような、そこに至らなかった人々を排除する構造が潜んでいると指摘する。その舌鋒の鋭さにドキリとする。
そもそもレーガン、サッチャーが開いた、市場が全てを決定するという新自由主義は、冷戦が崩壊したことにより、一見左派と思われている当時のイギリスのブレア首相、ドイツのシュレイダー首相、アメリカのクリントン大統領に継承されていった。社会保障の平等性は、自分ではどうすることもできない境遇を持った貧困層にだけ捻出し、社会保障制度を縮小したりと、彼らはみな新自由主義を政策的にも体現していった。イギリスもアメリカも元々は労働者出身の者が民主党の中枢にいたが、今では高学歴のエリート主義の政治集団となった。この新自由主義を引き継ぐリベラルという転倒の、正当な継承者がオバマであるとの指摘には、新鮮な驚きを覚えた。
本来学歴や、努力の末の「功績」を得られなかった人々は、努力が足りないのではなく、生得家庭の社会経済的な状況により、努力できる環境が整っていないという場合も多い。やる気や意思というものが生活の質に左右されるものならば、努力できる環境をそもそも奪われている。学歴を高めたくても、経済的に困窮し、物理的に勉強する時間が取れなかったり、どうやったら学歴を獲得できるのか、周りに功績を得た人がおらずその道筋がわからない人もいるだろう。そうした人々とっては、「努力すれば報われる」「努力が足りない」というワードは、どこか絵空事に聞こえ、自分が住んでいる世界の言葉ではないように感じることだろう。サンデルは、人種だけでなく多様な社会的階層に大学の門戸を開くことや、生涯学習の重要性、またエリート校での多様性教育などに未来の解決策を見る。
階級や家柄によって、就くことのできない職業の壁はとっぱらわれた。アファーマティブアクション(格差是正措置)が盛んになり、人種的平等性や男女間格差の是正も、日本のように実現が遅々として進まない国があったとしても、社会課題として議題にはあがるようになった。しかし「努力すれば報われる」という、一見正義に彩られた発言によって隠されてしまう層があること──本書はそこにこそ問題があると、ドンッとテーブルの上に乗せる。社会は一見平等になり、社会的流動性も高まったように見えて、実は見えない壁がいたるところにそびえ立ち、人々はなかなかその壁を乗り越えられない。もし本当に社会的流動性が豊かなら、こんなに世界中で格差が広がったりはしないはずなのだ。
ポピュリズムを育てた、エリート至上主義社会の本質。
サンデルは、オバマに見るようなエリート主義が、社会的功績をどうしても得られない人々からの反感と悲壮感を買い、結局そのエネルギーがトランプを生み、イギリスのブレグジットを生んだと分析する。世界に吹き荒れたポピュリズム旋風は、グローバル経済により、勝者がどこまでも奢り、自分たちの破格の報酬をすべて自分たちの努力の結果だと思い込み、世界に還元せず囲い込んでいる現状こそが生み出したものだと言えるかもしれない。彼らが能力を発揮し功績を得られたのは、たまたま努力する環境を得られた、偶然の「幸運」に過ぎないのにもかかわらず。アメリカでは、下層半分の収入の総額より、上位1%の収入の総額の方が多いという。上位1%の彼らの報酬も、ただ市場原理の需要と供給のバランスによって、たまたま現状で生み出された金額に過ぎない。それは時代を超えるような成果物の対価ではないと。
コロナ禍であらわになったのは、物流、生活必需品の小売店、医療、介護、教育などのエッセンシャルワーカーこそが、ウィルスを避けることができず、またその労働への対価も低いという現実だった。 コロナが格差を明るみにし、そして助長させた。しかしこれはコロナにはじまったことではなく、リーマンショックのときも、ウォール街の人々を結局アメリカ政府は助けたのだ。複雑に操作された株商品がもたらした苦しみに人々があえぐなか、ウォール街の彼らにはボーナスが支給された。トランプを選んだアメリカ人、ブレグジットを選んだイギリス人は、ただ貧しさゆえ、自国のプライドを復活させたいという反抗心だけを示しているのではない。そこにはオープンかクローズか、つまりグルーバルに開くか否かという、グローバリズム一極主義への批判がある。新自由主義に基づくグローバルな世界が作り出す、見えない壁へのアンチテーゼとして、彼らが存在するという本書の言葉は重く響く。
バイデン大統領は富裕層への増税を決定した。民主党で初の、有名大学出身ではない大統領であるバイデンは、民主党を初めて労働者やブルーカラーと接続する存在だと目されているという。今、アメリカに限らず、K字経済(格差が二極化した状態)は、世界各国で課題だ。マクロン大統領が、フランスの政治エリート学校を廃止したという動きもあった。能力を生かし、努力できた者だけが社会的な恩恵を得られて当然だとする考え方は、急速に限界を迎えている。
私は「白熱授業」を観たこともないし、サンデルの本を手に取ったのも初めてなのだが、あのサンデルが、学歴偏重社会を鋭く批判している、と聞いて直感的にいま自分が知らなければいけない事実だと思って本書を読んだ。メリトクラシー(能力、功績主義)批判とは、いま社会の深層にある、しかしこれまで誰も声高には異を唱えてこなかった問題の掘り起こしなのだと認識し、そこに現代のカナリアのような力を感じたのだった。
サンデルが唱える「分かち合う社会」とは?
さいごに、本書で展開される分析の詳細も面白かったので短く記しておきたい。
キリスト教もカソリック社会では、何か良いことが起こればそれは神の恩寵だと、神に感謝した。しかしルターは人間個人の努力により「良きこと」が起これば、その努力によって個人が神に近づける(摂理)とした。このプロテスタントの努力主義、成果主義が、アメリカに渡り、「努力すれば報われる」というアメリカンドリームの底にある考えを生んだ。恩寵よりも摂理主義、つまり「神は私の努力を讃えてくださる、だから努力して勤勉に働くし、その成果は私のもの」という、カルバン、ルターからアメリカに渡ったプロテスタントの努力主義が、アメリカンドリームの根底にある。
能力や功績も幸運ゆえなのだと思えば、その幸運をみなと分かち合おうと思うかもしれない。いまはそういう、分かち合う心持ちが足りなすぎるとサンデルは言う。個人の成果物は、今この時代にたまたま「この値段」「この価値」を得られているだけで、時代が違えばひっくり返ることもある。才能や能力も、その対価を独り占めせず、みんなのものなのだから分かち合おう。この問題意識で本書が書かれていることに、最も共感した。
本書を読みながら、落語で登場する「粗忽者(そこつもの)」のことをずっと考えていた。落語にはよく、そそっかしくていつも失敗してしまう人や、何度言っても物事を覚えられない人など、いわゆる世間一般には愚か者と罵られてしまうような人が主役となって華麗に物語をひっぱる。赤塚不二夫の世界にもレレレのおじさんやバカボンのパパといった、世の中に対して眼に見えるような成果を生み出すことはないであろう者たちが、いきいきと存在していた。いま世界は意味のあるものに満ち過ぎている。成果、功績、優生思想……目に見える成果物ばかりが尊重され、多様性を唱えながらも、より狭い方、同族関係の方へしか視線が向かっていかず、社会に許容力がなくなっている。しかしどこかに、能力を発揮できる者とできない者、意味のあるものと無意味なものが共存する社会があるはずだ。中世日本の一揆、フランス革命も、結局強烈な格差から、「われわれにも“声”を!」というエネルギーが生まれ、民主主義への扉が開かれていった。格差社会への異議申し立ては、次なる時代へのはじめの一歩かもしれない。ぼんやりとした次の時代の姿をイメージしながら、本書をそっと閉じた。
Text: Yuko Nakamura Editor: Yaka Matsumoto
・・・・・・・・抜粋終わり
上記文抜粋・・・・・・・・
マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』の要約と解説
社会はあなたの功績に対して報いてくれていますでしょうか。
社会は平等だと思いますでしょうか。
もし仮に一定の成果を収めているとしたら、それは自分の努力のおかげだと思いますか。
何か今の社会に対してモヤモヤを抱えていませんでしょうか。
マイケル・サンデル氏の政治哲学書『実力も運のうち 能力主義は正義か?』はそういった社会に対するモヤモヤに対して一つの解を与えてくれます。
・・・・中略・・・・・
マイケル・サンデル『実力も運のうち』の3つのポイント
・功績は幸運の反映でもある
・能力主義は勝者に傲慢を、敗者に屈辱を
・能力主義を制約し、共同体意識の再構築すべき
・・・・・・中略・・・・
マイケル・サンデル『実力も運のうち』のつぶやき要約
『実力も運のうち』は共通善・社会的絆の再構築を主張する共同体主義の立場から書かれた政治哲学書である。
現在のアメリカ社会では「人は能力に応じた成果を得るべきであり、失敗した人は努力が足りない」という能力主義的価値観が蔓延しているが、それは市民の仲間意識の破壊など、様々な弊害を引き起こしている。
今一度、社会の仲間意識や共通善を構築するためには、能力主義を制約する必要がある。
マイケル・サンデル『実力も運のうち』のじっくり解説
能力主義的価値観が蔓延した社会
「人は能力に応じた報酬を得るべきだ」という主張を聞いた時、どのように感じますでしょうか。
それほど間違った主張のようには感じないですよね。
特に「成果を出しても給料が上がらない!」、「生産性が低い!」、「イノベーションが起きない」、「世代間格差がひどい!」と言ったことが近年問題になっている日本では、能力主義社会というのは目指すべき目標のように語られます。
では仮にこの能力主義が実現された、もしくは実現されていると人々が信じている状態になったとしましょう。
その時どのようなことが生じますでしょうか。
「人が能力に応じた報酬を得る社会なのだから、現在みじめな状況なのは君のせいだ。なので、現状を変えたければ正しい努力をしたまえ」
論理的にこのような主張に行きつくことになります。
この文章を読んでどのように感じましたでしょうか。
「人は能力に応じた報酬を得るべきだ」という文章を読んだ時よりも、同意できる感は下がるのではないでしょうか。
「まあ、正論なんだけど…さ」
しかし、この能力主義的価値観が日本より一歩進んで社会全体に蔓延し、自由市場主義を掲げてきたのがアメリカです。
マイケル・サンデル氏の『実力も運のうち』はその現状を分析・批評した本です。
そこには、日本がこのまま能力主義を追求していけば行き着く社会の未来像が描かれています。
いえ、「自己責任論」の声がますます強くなっている日本の現状を考えると、もはや日本について記述していると言っても言い過ぎではないでしょう。
能力主義的価値観に対する反論
サンデルは能力主義的価値観に対して主に二つのベクトルから批判を行っています。
以下ではそれぞれを見ていきます。
①社会は本当に能力主義なのか
一つ目の反論は「能力主義的価値観は蔓延しているけど、社会は本当に能力に応じて報いているのか」という反論です。
「皆が同じ条件なら、自分の結果は自分の責任と受け止めるべきだ」という能力主義の主張の「皆が同じ」という条件に疑念をぶつけているわけです。
では、「皆が同じ」という能力主義が実現している社会が一体どういったものか具体的に考えてみましょう。
それは端的には、「どんな家庭に生まれたとしても、社会的に成功するチャンスがある」ということです。
では実態はどうでしょうか。
サンデルは以下のようなデータを持ち出し、能力主義社会は実現されていないと主張します。
所得規模で下位五分の一に生まれた人びとのうち、上位五分の一に達するのは、だいたい二〇人に一人にすぎない。
ハーバード大学やスタンフォード大学の学生の三分の二は、所得規模で上位五分の一に当たる家庭の出身だ。気前のいい学資援助策にもかかわらず、アイビーリーグの学生のうち、下位五分の一に当たる家庭の出身者は四%にも満たない。
つまり、豊かに生まれたものは豊かになる確率が高く、貧しく生まれたものは貧しいまま死ぬ確率が高いということがデータから明らかなのです。
この原因として様々理由が挙げられます。
例えば、子どもに将来豊かさな生活を送らせようとしたときの一つの手段として、いい大学に入学させるという手段が考えられます。
しかし、アイビーリーグのような名門私立大学に行くには熾烈な競争を勝ち残る必要があります。
豊かな家庭では、そこに合格するだけの優れて教育を幼いころから受けさせることが出来ます。
さらには、アメリカの大学では寄付金を多く支払った家庭の子供を優遇するという制度まであります。
豊かな家庭は子どもに豊かさを引き継がせることが出来るのです。
このように能力主義の実態は、全く公平性を欠いたものなのです。
②能力は幸福に支えられている
能力主義的価値観に対する二つ目の反論は「能力主義は道徳的に肯定できる根拠がない」というものです。
能力主義的価値観を正当化する道徳的な根拠は「能力は個人の努力や勤勉と言った美徳を反映しているので、それは賞賛されるべきである」と言ったものです。
しかしその根拠は二つの理由から道徳的に疑わしいとマイケル・サンデルは主張します。
一つ目は、個人がある特定の才能を持っているのは、遺伝や家庭環境などの幸運かどうかの問題であり、その個人が美徳を持っているからというわけではないという理由です。
二つ目は、ある特定の才能を持って生まれてきたとして、それを評価してくれくる社会に生まれてきたかどうかは幸運の問題だということです。
筆者はここでアームレスリングとバスケットボールの例を持ち出します。
仮にあなたが、アームレスリングで世界で敵なしの才能を持って生まれたとしましょう。
それは世界で70億分の1という希少性のある才能です。
しかし、だからと言って社会から絶大な承認と経済的な報酬を得られるわけではありません。
では、たまたまバスケットボールで世界一になれる才能を持って生まれてきていたとしたらどうでしょうか。
例えば、NBAのNo.1プレイヤーと言われているレブロンジェームスは契約金だけで年40億円以上の報酬を得ます。
しかし、彼がバスケットボールが大人気の現代の社会に生まれてきたことは彼の手柄ではありません。
このように個人の能力は偶然性に大きく左右されるものであり、「能力は個人の努力や勤勉と言った美徳を反映しているので、それは賞賛されるべきである」という能力主義の主張は、道徳的には全く根拠がないということになります。
過度な能力主義の弊害
以上、能力主義は公平性を欠いており、また道徳的な根拠も希薄であることを確認してきました。
にもかかわらず、現在の社会において「人が能力に応じた報酬を得る社会なのだから、現在みじめな状況なのは君のせいだ。なので、現状を変えたければ正しい努力をしたまえ」といった能力主義的な価値観が蔓延しているということは、どのような影響をもたらしているのでしょうか。
能力主義的価値観に基づくのであれば、「成功している自分は自分の美徳のおかげ、失敗している君は君の悪徳のせい」というように道徳的な価値が社会における成功と紐づくことになります。
その様な状況下では、勝者は自分の成功に対して傲慢になって敗者を見下し、敗者は現実で苦しんでいるところをさらに侮辱をうけて勝者を憎むことになります。
その様な状況下では勝者からの同情も敗者からの尊敬も生じえず、「熟議を重ねて自分とは立場の違う他者のことも考える」という民主主義・市民社会の前提が蝕まれていきます。
具体的には、リベラルエリートからすればブルーカラーで仕事を失った貧しい白人は「閉鎖的な排外主義」であり、貧しい白人からすればリベラルエリートは「自国の仲間より他国のエリートを優先するいけ好かないヤロー」になります。
サンデルはそういった社会的な分断が「トランプ現象」や「ブリグジット」につながったと考えています。
このように、過度な能力主義社会は社会の分断を生み、民主主義社会・市民社会を機能不全にしてしまうのです。
そして、サンデルはこの分析を元に、能力主義・市場主義を一定程度制約すべきだと主張します。
・・・・・・・・抜粋終わり
私はある意味で「能力主義者」なんだけど
そもそもその能力って何ぞや?
て話。
あと「功績」も評価が、実は大変難しい。
荀粲が「功績ってのは、時世と自分の資質が合致してこそあがるので、功績を出したからっていっても識見が有るとは限らん」と言っている。
能力も功績も、「時運」があってこそでもある。
成功が結構「運の所産」でもあるのだけどな。
本当に「能力」がある人は、極論すると「自分はそんなに能力があるのではない」って認識していると思う。
縁起とは、すべての事柄は関連性の中にあり、それ自体とか自己というものはないという考えである。例えば、野球選手が大活躍していれば、多くの人はその人の努力と才能によるものと考えるが、仏教では異なる。縁起の思想の元では、活躍できたのは良いコーチに教えてもらったから、才能があるのは両親の遺伝で強い肉体を受け継いだから、努力が続いたのは自由に野球ができる安定した社会に生まれたからなど、努力と才能の内容を分解していくことで、その人の行ったことは何もないという結論に至るのである。
劉秀はめでたいことがあったときに功臣を集めて宴会を開いたが、献上物などをすべて功臣に配り自分は何一つ取らなかった。これも自分の力ではないと考えていたなら、当然の行為といえる。
劉秀は平等主義者であり、人の上に立つのを嫌っていた。人と話すときは玉座から降りるか、相手を玉座の側まで呼び寄せた。皇帝になることも、泰山に登って封禅することも、数年間も断り続けていた。人々の上に立つよりも、人々の中にいることを望んだ人である。これは仏教の菩薩の思想に近い。
おかげさまでお互い様ってのも「現実」なのを知っているから・・・
そう考えると・・今の能力主義って胡散臭いよね。
今の、成果主義・功績主義っても、浅薄だよな・・・。
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