天皇を消そう。それが生き延びる唯一の道。
より
上記文抜粋
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立憲・共産「選挙協力」失敗論?
日本の右傾化のあだ花「右翼ポピュリズム」(自民党の粗悪品だった維新の正体)
英ガーデニングやロイターなど世界基準(グローバル・スタンダード)なら低学歴低所得で排外主義の底辺層を支持基盤とする典型的な右翼ポピュリズム政党である日本維新の会が、何故か朝日新聞など大手全国紙では中道政党に分類されているし、対米従属命の産経新聞などは「改革派」と天まで持ち上げる始末。実に不思議な現象が極限まで病的に右傾化した我が日本国では10年前から起きていた。(★注、維新を何かの政治運動と見ればファシズム政党に限りなく近いが湿気で床板が腐って毒々しいキノコが生えてきたのと同じで、根本原因とは日本の病的な極端な右傾化「北朝鮮バッシング」の青バッジが最大問題であり、具体的には「朝鮮戦争レジーム」の終焉が大事だった)
自民党は嫌だから維新だなって、一軍、二軍の話ですよ。山本太郎10月20日Twitter
維新をファシズム政党だと主張する有識者は多いが、2012年総選挙で維新公認で当選し1年足らずで辞任しタレントに復帰した東国原英夫によれば同僚の維新議員たちは与党自民党入りすることだけが目的である事実に愕然として政治家を引退している。(★注、維新とは単なる自民党の粗悪品だったのである)
国民政党を標榜する自民党内左派には護憲派やリベラル派(自由主義者)が昔から存在した。ところが日本の右傾化と共に右派(国粋主義や靖国派)に加えた9・11事件翌年の2002年の小泉訪朝から20年も続く度外れた北朝鮮バッシングの結果、必然的に安倍晋三などのカルトとヤクザの摩訶不思議な連合体「青バッジ」グループが自民党中枢部を乗っ取ったことから自民党左派が追い出される格好で出来上がったのが鳩山由紀夫の「民主党」とその後継政党の枝野幸男の「立憲民主党」である。
右翼の自民党よりも右寄りの極右国粋主義の「維新の会」と、自民党の右傾化で居場所を無くした自民党左派(立憲民主党)とは政治的に見て犬猿の仲のはずだがマスコミの悪意あるフェイクニュース報道の結果。困ったことに支持層の構成では両者は被っているのである。
各種世論調査より、一番正確な総選挙比例票でみる政党支持率の推移
比例票 2012年(2011年12月16日民主党野田佳彦首相の福島第一原発事故の冷温停止状態宣言1周年の記念日の投開票総選挙で下痢で政権を放り出した安倍晋三が首相にまさかの返り咲き)
民主 962万 30議席(小選挙区27と合計しても57議席。ギリギリ野党第一党に留まる壊滅的な大惨敗)
維新 1226万 40議席(対照的に小選挙区11と合計51議席。極右国粋主義の石原慎太郎を党首に全国政党として出来たばかりの維新が、政権政党だった民主党票を食って大躍進)
比例票 2014年(消費税増税の先送りを問うとの奇妙で不可解な総選挙)
民主 977万 35議席
維新 838万 30議席
比例票 2017年(危ない北朝鮮バッシングの極致「全面戦争」前夜を演出した、もっと奇妙奇天烈摩訶不思議な総選挙。この時緑タヌキの小池百合子結党騒ぎで野党共闘は吹っ飛んでいる)
立憲民主 1108万 37議席
(希望) 967万 32議席
維新 338万 8議席
比例票 2021年(意味が良く分からない正体不明の新コロ騒動の非常事態の真っ最中。前回選挙から4年間もの十分な時間的余裕があったのに総選挙の直前に辛うじて野党共闘が7割成立する)
立憲民主 1149万 39議席
維新 805万 25議席
★注、直近の10年間の総選挙で見ると自民党左派(民主党)と極右国粋主義(右翼ポピュリズム?新自由主義)の維新の総得票数は一定であり、相互に出たり入ったりしているだけ。大きな変化は起きていないことが分かる。
比例票は「自民+公明+維新=35079995」、「立民+共産+れいわ+社民+国民=21485252」。従来通り、概ね3:2。そして投票率5割台。 野党共闘が従来の野党支持層に対する内向きの論理である限り、永遠に勝てない。野党共闘が浮動票を大きく動かし、投票率を上げる効果を持たなければならない。
小選挙区で共産党が議席を獲得するためには、共産党のあり方もさらに変わる必要があります。もっと候補者の個性が見えなければ、浮動票は集まりません。従来の<比例の票起こし>のための選挙区での戦いを大きく変え、党内に残っているパターナリズムを払しょくする必要があります。(★注、中島岳志は若手の保守政治学者の代表的人物で判断力には定評があり、実は共産党が大きく変化している事実を熟知している。パターナリズム払拭とは具体的には化石的な民主集中制の党則廃止と30年以上も君臨する志位和夫辞任だが亀の腹筋と同じで一番難しい)
立憲民主党の敗因は連合に過度に忖度したためだと思う。次の選挙では、連合の幹部が何を言おうとスルーした方がいいよ。組合員は連合の言うことなんか聞いてないと思う。宗教じゃねえんだから。(★注、30年間もゆっくり死につつあるデフレの日本経済ですが、停滞の原因として「戦わない労組」というか中身が「大企業の労務管理部」程度の連合の責任は決して見逃せない。そして大企業の労務管理部の戦わない労組「連合」と日本で唯一戦ってきたのが共産党なのです。ところが、何故か共産党は「連合」に対しファイティングポーズを取らなくなって久しい)
共闘されると困る人たちが「失敗」と断じているように感じますね。(★注、小選挙区では野党共闘で候補を一本化しない限り必ず比較第一党の与党が勝つ仕組みになっている)
引用ツイート
志位和夫@shiikazuo
· 11月3日
野党が一本化した214選挙区のうち、自民に競り勝った選挙区が62、惜敗したが1万票以内まで自民を追い込んだ選挙区が32。 共闘が成果をあげたのはこの数字からも疑いない。 さらに共闘を発展させる上での課題はあるが、今回の結果をもって「共闘失敗」と断ずる一部メディアの主張は根拠がない。
衆議院選挙。自民と維新が勝ったのは、投票前2週間のコロナ陽性者数がとても低かったからに尽きる。東京は毎日50人を下回った。それで、東京五輪を強行したことも、そのあと東京で1日5000人を突破したことも、全部すっかり忘れて、与党の悪政を許した。破天荒なコロナ対策を許した
衆議院選挙を最大限に先送りした自民の選挙方針は当たった。もし9月中に選挙していたら、結果はガラリと変わっていただろう。
(★注、新コロ陽性者数の推移と与党自民党の勝敗が直結している事実を指摘している日本の有識者はアスペルガー火山学者の群馬大学早川由紀夫ただ一人(日本国内では早川由紀夫だけだが、一部の韓国紙もこの不愉快な事実を指摘している)
そもそも今は正体不明の新コロ騒動の非常事態の真っ最中(その小康状態)なのですから与党が圧倒的に有利なのです。
アメリカでは戦時大統領は必ず再選されるように、危機に直面している状態での政権交代は有り得ないのですから、その意味では「政権選択選挙」を連呼した枝野の馬鹿さかかげんには呆れるが、党首ではなくて裏方に徹すれば知的エリートなので役に立つでしょう)
立憲の失墜は、東京五輪強行に最初こそ反対していたが、目前に迫ると開催容認に傾いたこと。
それからGoToトラベルに反対したことなどで、有権者の信頼を失ったからだと思う。GoToトラベル反対は東京もんの論理だ。田舎では復活を心待ちにしてる。すでに地域版GoToトラベルを各地で復活してる。(★注、コロナ禍の真っ最中のGoToトラベル推進は普通に考えて自民党政府による大失策「毒饅頭」だと思われるが、それだけ今の群馬県などの地方の経済が壊滅的に疲弊しているということなんでしょうか。恐ろしい話である)
山本太郎が2年ぶりに国会に帰ってくる意味
オリンピック開催では立憲(枝野幸男)だけでなく共産党(志位和夫)もブレまくり。唯一山本太郎だけが一貫して反対していた。2013年10月20日 | 政治 山本太郎が山本宣冶になる日本の無残
2021年10月31日TBSの選挙特番「選挙の日2021 太田光と問う!私たちのミライ」
NHK討論会のように、山本太郎発言を必死で妨害するTBS
北極星のように唯一「位置」がぶれない山本太郎
TBSテレビ報道番組メインキャスター太田光は、質問に答えて山本太郎が喋り出すと「まどろっこしいからさ」と何度も繰り返して発言をことごとく妨害した挙句に「時間がないからさ、あんたもテレビやってたからわかるでしょ」と責任転嫁の不真面目な暴言。しかも、時間切れで山本太郎がテレビ画面か消えてからも「あいつ態度悪いね」と捨て台詞を吐く傍若無人ぶりには呆れやら驚くやら。そもそも何度も太田光が途中で山本太郎の発言を意味なく遮らなければ視聴者はもっと具体的に説明が聞けたのである。
MCの太田光は自分が経済に疎い「何も知らない」ことを上から目線で自慢するなど報道番組としての体を成していないのである。(★注、あの「自民党をぶっ壊す」の小泉純一郎のようにテレビではワンフレーズしか喋るなと言っているのと同じで、出来の悪い中学生にも劣る不真面目不勉強)TBSは選挙期間中には選挙の報道を極力避ける一方で、何故か投票が終わった後の太田光の報道特番を繰り返し宣伝していたのである。
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抜粋終わり
最近感じてるのは、麻生太郎氏が「日本はナチスにならうべき」だったか。いったよね。
すでに、ナチスの「国民操作」政策は実現している。
て、「失業者解消・通勤時間1時間以内」とかまともに国民を食わせる政策も実現していたのが、ナチスだが、それよりもはるかに劣りながら、国民操作だけは完成させた東ナチス~天皇家の日本 なのである。
マスコミで連呼したら、嘘も本当のようになり、毒薬ワクチンを国民は打ちまくり、放射能汚染は無かった事・になっている。
やはり、天皇家は、東ナチス総統だったのですよな。
「日本人に生存権など無い」のが、天皇家とその官僚。
あるのは、天皇家とその財閥の奴隷になるか、天皇家に食われるか。だけである。
より
上記文抜粋
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税制を歪める消費税増税
新自由主義は税制を空洞化
税収減の要因の一つは税制です。新自由主義的税制改革が税制そのものを空洞化して、仮に経済が成長しても、税収が上がらない構造をつくってしまった。これをいつから進めてきたかというと、消費税導入時です。消費税を基幹税として位置づけて、他の税金を基幹税から降ろしてしまうという流れが1989年の消費税導入から始まったのです。消費税の導入をきっかけにして、税制体系が歪められてしまったのです。
グローバル化時代には今までと違う税金の仕組みにしないといけないというのが税制そのものを歪めてきた理屈の出発点です。つまり、グローバル化が進行すると企業や富裕層からは税金が取れない。なぜなら富裕層の所得や企業の所得は、いわゆる「キャピタルフライト」と言いますが、逃げ足が速いからです。世界中、安い税金の地域を求め、高い税金の地域を嫌って逃げ回ってしまう。グローバル化時代には、税金から逃げるのは自由勝手ということになりますから、グローバル化が進行すればするほど、企業家や資産家や投資家の所得には税金をかけるのが難しいという議論が、現在、圧倒的に支配的な税制改革の主流にあたる議論になっているのです。
グローバル化時代の消費税増税
逃げ場ない国民
グローバル化時代の税収は消費税におかざるを得なくなる。なぜなら消費税は消費する場所で税金をかけるので、日本国民がまさか消費税を嫌って海外で消費するわけにはいきません。
国内の一般の暮らしそのものは逃げることができないから、それを直撃する消費に税金をかける。これならグローバル化時代にも逃げられないから大丈夫だとなるわけです。これを課税客体の可動性や移動性といいますが、高い税金をかけたら逃げられてしまう、移動してしまう、動いてしまうという性格の強い税金は結局減税せざるを得ないという論理が主流になっています。
これが税制の歪みをつくっていく。そして、法人税が1990年代からじわじわ下げられました。そして次に下げられたのは資本所得、つまり証券などで手に入れる株式の配当。こうした利益は逃げられやすいから下げなければいけない。その代わりに消費税を上げるんだということです。
税収がまったく上がらない税制
高額所得層も、累進課税であまり高い税金をかけたら、最近のフランスで起きているように、国籍すら変えて税金が安い他国に移ってしまう可能性がある。だから累進課税はなるべくフラット化して、最高限界税率は引き下げていかなければいけない。
これをやると、格差社会化で貧困層が増えて、所得税を納めるにも納められない人達が増える一方になってしまう。富裕層の税金を安くするわけですから、企業がボロ儲けして267兆円という内部留保を溜め込んでも、ここに手をつけると逃げられてしまうということで温存する。税金を取ればたっぷり取れるところの税金を安くしてしまったわけですから、構造改革によって政治や経済が発展すればするほど、経済が多少成長しても、税収がまったく上がらないという構造になってしまった。
現在はデフレ不況が進行しているといっても経済規模そのものは今から20数年前と比べて大きくなっています。大きくなっている経済が、なぜ20年前の税収を上げられないのか。それは税制が税金を取らない仕組みに変わってしまったからです。税制改革そのものが税収の落ち込みを招いたのです。だから財政危機を打開するためには、税制を今までの税制改革とは違う方向に逆転しないといけません。
内需不振によるデフレ不況を打開して、国民所得全体の課税ベースを拡大しながら、より担税力のある法人や個人からちゃんと税金が取れるような税制に変えていかないと、現在の日本の財政赤字は永遠に解決できないと思います。これは断固として1日も早くやらなければならないのですが、さしあたり、そうした財政赤字の要因を正確につかんでおかないと、事業仕分けなどで無駄な財政支出を削ったり、国家公務員の総人件費を削減すれば財政赤字を解消できるなどというデマにだまされてしまうことになります。
公共事業であれ、あえていえば軍事費であっても、多少見直したからといって財政赤字が解決できるといった、そんな生易しいものではないのです。もっと構造的に、税制そのものを歪めてしまったこれまでの政治の責任を問う形で、やはり消費税とは違う税制に戻して税収を上げなければいけない。ここに国民の目を向けていかないと、今までと同じことが繰り返されてしまいます。そういう意味では財政危機の根源をきちんとおさえておくことは非常に大切なことだと思います。
財政危機をめぐる現代日本の3つの潮流
――この財政危機についての対抗軸をどう考えればいいでしょうか?
これからの構造改革やアベノミクスの3本の矢とも関わって、つかんでおいてもらいたいのは「財政危機をめぐる現代日本の3つの潮流」です。
消費税の問題と関わって現在の構造改革の行方を考える場合、その引き金になっているのはグローバル化を起点にした税金問題なのです。安倍政権やかつての民主党政権、日本維新の会やみんなの党など、いわゆる新自由主義に属する構造改革派は、消費税を基幹税にします。従来の基幹税は所得税と資産税ですが、まず所得に目をつけて税金をかけると、憲法にもとづいて応能負担原則ですから、累進課税で取ることになります。
法人課税についても、法人所得については株主から配当に税金をかけて税収を上げると同時に、法人税も、企業は日本社会全体から恩恵を受けているわけですから税金を取る。そして所得に税金をかけても、所得の格差は残って、それが積もっていくと、今度は不動産や金融資産など資産の格差になるでしょう。ですから高所得の人は、税金を払ってもなお残る所得を貯め込んでいき、資産の中に所得が蓄積されていきます。これを資産課税、固定資産税や金融資産課税で取る。こうした応能負担原則によるのが従来の基幹税です。所得税と資産税を中心にした税制が公平な税制であり、民主主義的税制の伝統的な原則であったわけです。
消費税を基幹税とする新自由主義vs福祉国家型財政
しかし消費税を導入してから、あえて消費税を基幹税にした。なぜかといえば、先ほど話したように、グローバル化していくと金融資産に税金をかけるわけにいかない、高額所得層に税金をかけるわけにいかない、法人所得に税金をかけるわけにいかない、だから消費税を基幹税にするのだというわけです。これが現在の新自由主義的な財政や構造改革の出発点なのです。
この流れは何を呼び起こすでしょうか。いわゆる所得税を典型とした応能負担型の税収で財政構造をつくり上げていくと、財政所得は所得の再分配という効果を呼び起こします。つまり、豊かな人や大企業から税金を吸い上げて、社会保障やたとえば交付税、教育などで公平に財政を支出すると、豊かな所得から低所得層にお金が流れることになります。だから「応能負担型」の所得税・資産課税にもとづいて財政支出を組むと、上から下へ所得が再分配される「垂直的所得再分配」になります。これが福祉国家型財政になっていくわけです。
消費税が中心になれば「水平的所得再分配」
横流し型・国民総痛み分け型になる
ところが、消費税から税金を集めてバラまくと、大衆から税金を集めてバラまくことになるので、所得の再分配は水平型になるのです。右から取り上げて左に回すとか、大衆全体から巻き上げてもう一度大衆に返すという形です。ですから所得再分配の構造は、消費税が中心になれば「水平的所得再分配」になる。横流し型、国民総痛み分け型になってしまいます。
国家公務員の仕事も再編成される
「応能負担型」税制は国家レベルで可能になる
これが進むと、社会保障制度の再編成になっていくのです。もう少し強くいうと、国家公務員のみなさんの仕事の再編成に関わっていくわけです。なぜなら、所得税や資産税で「応能負担型」の税金を取るには、逃げられない地域を単位にして取るしかないでしょう。
だから、もし自治体を単位にしてしまうと、実際には累進課税はかけられなくなります。なぜなら、たとえば豊かな人がある自治体に住んだ場合、ここでものすごく住民税が高くなったら、すぐに住民票を移すでしょう。一国内では、法人税の例より更に移動しやすいのです。ですから「応能負担型」の税金を自治体で採用するのは極めて困難になるので自治体の財源は「応益負担型」にならざるを得ません。「応能負担型」の財政は、中央政府つまり国民国家レベルになるのです。伝統的には、所得税や法人税で累進度の高いものについては、中央政府が集めることになります。これが現在は、「グローバル社会のもとで国すら移動してしまうから自治体と同じように税金が取れなくなる」というのが今の議論なわけです。
国家行政がやっているのは
垂直型の所得再分配
しかし日本でもヨーロッパでも、それでもまだ中央政府が累進課税をやれる。比例税や応益課税、固定資産税のようなものは動かないので、動かないものに税金をかけるのは自治体がやっても大丈夫ということになります。法人税についても、ある自治体で法人税をものすごく引き上げたら、法人はすぐに場所を移すでしょう。
でも、一国の単位だったら、そう簡単には逃げられませんね。そこで国の行政は、「応能負担型」の税収にもとづくから、国家財政では所得の「垂直的再分配」になるのです。つまり全体としては、儲ける企業や豊かな人から税金を集めて全国的にバラまくことになります。たとえば東京からお金を吸い上げて全国行政に回すと、発展繁栄する地域と衰退する地域の格差を埋めることになります。
だから、垂直型の所得再分配が地域の間でも起きるのです。高い所得の地域から低い所得の地域へお金が回る。個人間でも起きる。産業でも起きます。自動車や電機でものすごく儲けている産業から税金を吸い上げて、農業など弱い所に補助金を出すことになると、強い産業と弱い産業の間に所得再分配が起きることになります。つまり国家行政がやっているのは、多かれ少なかれ、垂直型の所得再分配なのです。
地方分権の狙いは国の「応能負担型」の行政を
自治体に「応益負担型」で押しつけること
自治体は、住民税でも均等割型の比例制です。だから累進課税で取られない。均一の税率なので、所得再分配といっても水平型になります。住民全体が負担して、住民全体、地域全体が利益を受ける。そうした国と地方の役割の違いが出てきます。これが実は、分権の動きを加速していくのです。つまり中央政府の役割、国家行政の役割を縮小して自治体に任せると、地元負担で何でもやらせられることになる。大きくいうと、なぜグローバル化時代に地方分権化で何から何まで自治体に押しつけるかというと、国が「応能負担型」の税収でやっていた仕事を、自治体に「応益負担型」でやらせることができるからです。
社会保障も、たとえば生活保護などは典型です。豊かな人達のお金を吸い上げて無所得・低所得層に分配するわけですから、典型的な「垂直型所得再分配」です。これは生存権がかかっていますから、全国の統一した行政がやらないとダメなのです。どれくらい地元が負担するかとか、負担能力はどうかなどと考えて生活保護行政をやることはできませんから、自治体任せにはできないわけです。「応能負担型」できちんと税金を集めて、低所得層や衰退する地域にとって利益になるような行政をやるというのは、国家行政だからこそできるのです。しかし、これを今度は「応益負担型」に切り替えようと思うと、国はなるべく社会保障の責任を持たず、どんどん自治体に任せるようになります。社会保障は圧縮して、社会保障も地方分権化していく。そのついでに、あらゆる面で国の行政を地方分権化していく。地方分権化する時の福祉関係の行政は住民密着型だから、基礎自治体に任せる。
しかし、現在の国の行政の公共事業や環境行政、地方出先機関などは、東日本大震災の復旧・復興の際に活躍したように、所得再分配の典型的な行政なのです。これを道州にゆだねてしまうと、道州を単位に地元単位でやらざるを得なくなるわけです。
消費税の基幹税化から地方分権化・道州制へ
――道州制という考え方はなぜ出てくるのでしょうか?
民主党の地域主権改革で、主に保育や教育、医療、介護などの社会サービスは、市町村を中心とした基礎自治体に任せて、地元の責任と負担と決定でやってくださいという方向性を打ち出しました。その代わり、国は関与しませんという流れが進められてきたわけです。その上でさらに、今まで国がやっていた震災対応や防災に見られる明らかに垂直型再分配の効果を持っている社会資本の行政をも、国は手放したい。だからその受け皿として、都道府県では狭過ぎるから、さしあたりは広域連合を発展させて道州制に任せてしまえば、国は文字通り、軍事や外交機能に特化できます。
消費税の基幹税化から所得再分配構造が転換して、社会保障の地方分権化と縮小が始まり、今度は産業基盤などの開発行政そのものを、基幹税であった所得税や法人税から外して地方に任せる。そういう流れになってきました。これが新自由主義の現在の主流の考え方です。これは第1次の安倍政権もそうだし、現在もそれが基調です。
多くの人が惑わされる「ポスト福祉国家派」の合流
多くの人がそこで惑わされるのは、「ポスト福祉国家派」と私は名付けていますが、その流れがここに合流する点です。そのきっかけは、グローバル化時代には所得税や法人税の徴収が難しいという論理を出発点にしたことです。これが落とし穴なのです。
具体的に名前をあげますと、民主党時代のブレーンであった神野直彦さんや宮本太郎さんが、「ポスト福祉国家派」の分権化推進論者です。彼らは新自由主義者よりよほど良心派なのですが、結果的に新自由主義者に迎合していく。なぜ迎合するかというと、出発点が消費税を中心にした税金にするしかないという消費税の基幹税化の罠にはまっているからです。
新自由主義者の主張は法人税廃止論
新自由主義者の主張は、法人税廃止論です。なぜなら、企業は株主から構成されているので、企業の利益は基本的に配当で株主に行くはずだから、企業から税金を取ってしまうと、株主の配当に税金をかけて二重課税になるというのが、経団連その他の現在の新自由主義者の典型的な議論です。ですから法人税の減税論者は、突き詰めていくと法人税廃止論になるのです。個人に企業の利益が分配された時点で、個人の所得税で税金をかければいいじゃないかというわけです。
この時、神野直彦さんは個人所得税をかける時には累進課税を残すと言っていますが、新自由主義派は累進課税を極力嫌う。そんなことをしたら豊かな人が逃げてしまうじゃないかと。だからフラット化して、20~30%の同一税率で、全ての税率を一本化するという話になります。
しかしその前に、新自由主義の新たな税制改革論では、所得を勤労課税と金融所得課税の2つに分けて、勤労者は逃げられないから累進税率、金融所得課税は逃げられるから、非常に低い10%といった低率の税金でやろうというのが、今進められようとしている「金融所得一体課税」です。
つまり、法人税を引き下げてゼロにした後で、個人所得税は金融所得と勤労所得の2つに分けて、金融所得はできるだけ安い税金、勤労所得は累進税で残してもいいということです。こうして、だんだん消費税が基幹税として中心にすわっていく、新自由主義に合流していくわけです。
消費税基幹税化に組み込まれると最後は道州制に
神野直彦さんは必ずしもそこまでは言っていなくて、消費税が基幹税になっても、所得税も法人税も残しましょうというスタンスで参画していて、妥協的条件を付けています。ただし、消費税基幹税化に組み込まれてしまっているから、垂直的所得再分配はあきらめているのです。すると「応益負担型」で自分達が負担して見返りにサービスをもらうという行政に変えていかないといけない。だから水平的所得再分配はやむを得ない。すると、消費税がこれにあたります。大衆が払う税金で社会保障をやったら、大衆の負担によって大衆の生活保障が成されることになるから、富める者から貧しい者にお金が流れる仕組みとは違ってきますね。それで、所得再分配の水平化には賛成するんです。そうすると分権化にもっていかれる。何から何まで分権化しようという流れに一端入り込んでしまうと、もう逃れらずに最後は道州制まで行ってしまうのですね。
ただしこの人達は、たとえ消費税を上げても、消費税で多少とも社会保障は豊かにしていかなければいけない、機能を強化していかなければいけないという良心を持っています。新自由主義者は「社会保障などは切れ」ということになってしまいますが、ここは違うのです。
社会保障改革国民会議は、この両派が合同してテーブルに着いている。民主党時代には若干なりとも「ポスト福祉国家派」が発言力を持っていたのですが、今の安倍政権のもとでは完全に逆転です。8月に答申が出ますが、消費税を上げても社会保障は緊縮、社会保障には回さないことになるに違いありません。今までは、消費税は上げるから社会保障をそれで圧縮することまではやらない、多少とも社会保障の機能を強化しますという論が残っていました。今までは併存していたんです。それが、次の参議院選挙を安倍政権が乗り切れば、この「新自由主義派」の社会保障改革になって、先ほどの財政悪化が進行するとますます社会保障にツケが回されるという話につながっていく。大きな流れの中で、2つの潮流は、こういう関係になるのです。
「応能負担原則」を崩さなければ
国家行政によるナショナルミニマムは守れる
それは戦後の憲法の原則に照らしてもおかしいのであって、やはり消費税を基幹税化するのは許してはいけません。なぜなら、税制の大原則において「応能負担原則」を崩してはいけないし、この「応能負担原則」を崩さないということは、国家行政によるナショナルミニマム保障を守ることになるからです。「応能負担型税制」によって上げた歳入で、社会保障にしても教育にしても、誰にも平等に最低限の行政水準を保障していくことが大切です。
これは国家がやると垂直的所得再分配になるのですが、地域がやると、その地域で豊かな人にだけ特別な税金をかけることなどできませんから、結果的には分権化されると地域を単位にした受益者負担の形でやらざるを得なくなります。しかし、国家行政が担っている限りはそうはならず、垂直型でかつナショナルミニマム保障を守れるわけです。
分権化は税制の考え方と結びついている
この構図を頭に置いてもらって、国の出先機関の地方への移管や道州制をにらんだ分権化がどういう性格を持っているかを考えれば、国のナショナルミニマム保障責任の放棄に対する対抗軸を持つことができると思います。地域が自分達の負担で防災から産業基盤整備から生活基盤整備までやらなければいけないということになったり、道州になってしまうと、完全にひとつの独立したそれぞれの地方政府になってしまうので、国に頼るということはあり得なくなります。
道州制になったら道州の中のミニマムしかないわけです。そしてそれは道州ごとに違うことになります。そうなったら、戦後憲法のもとでの全国的な公平や「応能負担原則」に基づく行政はもはや保障されなくなります。そこにいま自民党安倍政権は足を踏み入れようとしている。そういう理解を、国公労連のみなさんは大きな構図でつかんでおく必要があると思っています。
分権化という時に一番ポイントになるのは、それが税制の考え方と結びついているので、垂直型所得再分配に基づくナショナルミニマム保障が、どの分野であろうと分権化のもとでは大きく後退してしまうという点です。この点をおさえておくことが最も重要です。新自由主義であれポスト福祉国家であれ、分権化を唱える人達の盲点はここにあるのです。垂直型所得再分配を放棄したり、ナショナルミニマム保障を軽視してしまうのです。そこをしっかり見ておかなければいけません。
集権だけの競争国家にとりつかれている
――「ポスト福祉国家派」のような考えが広がるのはなぜでしょうか。
今なぜ流行るのかというと、競争国家という考えにとりつかれることが広がっているからだと思っています。
地域も競争、個人も競争、国家も法人税を下げて日本企業の国際競争力をつけなければいけない。各地域は企業を誘致するために切磋琢磨して互いに競争しなければいけない。大阪都をつくるというのも、大阪の国際競争力を強めるために大阪府と大阪市が合体して競争力をつけなければいけないという競争国家の論理です。
そして、それではまだ足りないから、関西州をつくって地域の競争力を高めようというわけで、そうするともう分権どころではなくてあるのは集権だけです。
カネも権限もある一定の競争力を持つところへ集中する。これに組み込まれていきます。そうすると、みんなが「もう仕方がない」とあきらめてしまって、逆進的な税制であっても仕方ないというところにいってしまうわけですね。
道州制は国の膨大な借金を地域に押しつける
――地方分権・道州制の流れでは国の責任が放棄され行政サービスが低下すると訴えても一般の方にはなかなか理解されません。そこで、道州制が導入されると、建設国債など国の膨大な借金も地域におしつけられると話すと危機感を持たれます。この点はどうでしょうか。
言われる通りです。道州制に移行すれば、建設国債の発行主体は道州です。今は国がやっているから、国が責任を持って農村部の公共事業についても全国的な所得再分配になるのですが、道州単位になれば借金も引き継ぎます。地元負担で何から何までやるとなると、交付税ではなく、せいぜい交付金程度を国がしばらくの間、各道州に出す程度です。自民党案であれ財界案であれ、道州制の将来像は、約10年後には完全に自分の足で立って自己決定、自己負担、自己責任で道州単位でやらなければいけない。
今までの民主党の地域主権改革と違うのは、民主党は基礎自治体を出発点に置いて、ここで主に住民向けサービスを切り捨てて自分達の負担と決定と責任でやらせるというのが先行したわけですが、自民党は財界と同じで、基礎自治体というよりは道州から出発しています。道州をつくって国の出先を集め、市町村の権限や財源を集中して、新しい多国籍企業支援型の開発行政をやる。ただしこれは国に頼ってやるわけではなく、都道府県を超えた道州をつくらないとダメだという、ここが発想の出発点になっているのです。
しかし、これらを合体させると結局最後は同じなんです。市町村が住民向けサービスについては責任を持ちなさい、足りないなら補完性の原理で道州がお手伝いしますよ、道州でも足りなければ最後は多少とも国が出しますよ、という構図です。ただし社会資本関連行政になってくると、最初から市町村ではなく道州が完全な政府ですから、ここで自己完結的に借金も財源調達も仕事もやるという、若干の違いはあります。しかし分権化論というのは最後は同じような構図に収まってしまう。入り方が違うだけです。結局、どこを入り口にして道州制を導き出すのかとう点で、いきなり道州制に入って後から市町村を位置づけるのが、経団連と自民党です。民主党は、教育などを市町村に任せると都道府県が空洞化してくるので、それを後から道州制に変えるというコースです。
集権型から分権型の道州制構想への転換
高度経済成長から80年代半ばまでの道州制構想は、上から開発行政を進めるという伝統的なタイプでした。たとえば戦後の道州制構想で、関経連をはじめとして関西の財界がいち早く言い始めたことは、近畿の水瓶といわれる琵琶湖の水資源をどう開発するか? 工業用水その他でどう関西財界が利用するか? ということでした。そのためには、滋賀県に琵琶湖の水利権を渡していたのでは不十分ということで、関西州という大枠で琵琶湖の水利権を上に吸い上げて、これを動員する形で開発を進めていこうという話だったのです。
上から資源や資金を動員しながら開発していくという、いわゆる集権型の道州制構想がつくられました。これは露骨な輸出第一主義というか、企業の成長に地域を従属させ利用するという集権型の道州制で、これが90年代までは支配的だったのです。
ところが最近の道州制というのは、形式としては分権化という路線できています。集権型から分権型に転換するわけですね。その引き金になったのは、開発を進めるにしても福祉を進めるにしても、グローバル化時代には国家が所得税や金融資産課税を応能負担にするのは限界なんだということです。そして結局、グローバル化時代には分権化するしかないという論理が席巻するわけです。
多国籍企業を支援する分権国家構想
そこで、理論的に分ければ2つの系譜が出てきます。1つは、どちらかといえば財界や自民党が主張してきた分権国家構想です。これはグローバルな競争国家を創出するというもので、グローバル化時代には企業も個人も産業も地域も国家も、グローバル競争に打ち勝っていかなければいけないという発想です。
財界の場合でいえば、その時に主体になる多国籍企業を支援するような広域経済圏を、まずつくらなければいけない。広域経済圏をつくるに当たって中心になるのは、広域経済圏の州都だ。ここに資金も権限も集めなければいけない。そういう部分では集権なんです。圏域の中の市町村を単位にした資源や権限、財源は一端都道府県を越えて州都に集中するという話になる。その上で、集中と選択になってくるわけです。
九州なら九州を単位にして、研究機能についても各県ごとに大学の機能を特化させていき、九州大学のカレッジのひとつとして、たとえば教育学部は熊本に集中させるという形にしていくというのです。そのようにして広域経済圏の中で社会資本を選択して集中するということを、州都から指示して全体の国づくりを再編成していこうというわけです。
国の出先機関は必要ない「競争国家型道州制構想」
その時に、もはや国は必要ないわけだから、国の出先機関はすべて道州に移管してしまえ、福祉行政は道州の中の基礎自治体に移管してしまえということになります。基礎自治体も市町村では不十分だから、合併して最低でも10万~30万人の都市にまとめて、そこに福祉をもっぱら任せてしまう。開発行政は道州を単位にして、権限を分権化して責任を取らせていく。これを拠点にして多国籍企業は世界に羽ばたくというイメージです。これは、「競争国家型道州制構想」で、財界は明らかにこの考えです。
経団連の道州制構想では、「究極の構造改革は道州制だ」と言っています。その理由は、日本全体を、個人から企業から地域から国家まで、世界の競争に勝てるものにしていくために再編成するんだという流れにするためです。これは昔の集権型開発行政の一部を継承しています。だからこの点でいうと、分権化モデルではあるけども、域内の権限や財源は集権化するという、過去の道州制構想とまったく切れているわけではなく、一部は継承されているのです。
完全自己完結型の市民主義的分権論
もうひとつは、基礎自治体から出発して分権化を進めていこうという構想で、どちらかというと民主党が唱えた地域主権改革構想がこれに近いですね。民主党は当初から道州制を前面に出したのではなく、どちらかといえば都道府県の権限や財源、国の権限も市町村を中心にして委譲し、ここに完全自治体のようなものをつくる。しかしそれを想定した瞬間に、ナショナルミニマムは後退してもいいというタイプの市民社会論的分権論でした。
この代表は西尾勝さんです。彼はある意味では、アメリカの西部劇に見られるように、完全に独立していたときの州も連邦もない時代のタウンシップを想定しています。ここでは完全に自分達が裁判もやるし税金も集めるし、住民集会で立法にも住民が参加する直接民主主義が貫かれています。これを自治体の理想だと考える人達は、いわゆる市民主義的分権論者です。だから完全自己完結型の、国も相手にしない、外部の自治体も相手にしないという独立した形をつくり、その代わり市民が全部責任を持ち負担もする地域主権をイメージします。これは、民主主義の小学校といわれていた頃の地方自治モデルです。これを原点に置くタイプの人達は、現代日本であれば市町村を単位にして考えざるを得ない。
だけど、現在は古き良きアメリカとは違いますから、現在、住民に身近な行政を一切合切やろうとしたら、当然一定の規模が必要になる。これを束ねるためには市町村合併もやむを得ないということで、民主党の地域主権改革は、合併してコンパクトシティをつくって、ここに権限と財源をゆだねようとした。そうすれば国や都道府県から独立した自主的な自治体ができあがる。市民主義者というのは、大雑把にいえば、そういう自治体が自分達のモデルです。
財界版の競争国家型の道州制に
合流してしまう「ポスト福祉国家派」
これを原点にすえると、いわゆる補完性の原理で、まずは身近な行政は町や村というコミュニティを単位にしてやり、それを補完する広域行政がバックアップして、それでもなおできない課題を国がバックアップしてやりましょうということになります。この論理だったら、すぐに道州制は出てきません。市町村を基本にして、都道府県を残して、国があるという自治体の二層性、行政機関からすれば三層性というイメージになります。
しかし、福祉行政はそれでいいのですが、現代日本でそれを追求していくと、都道府県単位では経済圏そのものが違ってきていますから、問題の社会資本の整備や産業基盤の整備、また広域行政の課題は、結局、道州に行かざるを得なくなる。だから後から付け足すようにして道州が出てくるわけです。
ただ、この道州制はどちらかといえば連邦制型です。つまり上から道州をつくるのではなく、下から市町村を単位にして自治体をつくり、それを補完する州のような規模の広域行政を持たなければいけない。ここはもちろん役割分担で、身近な行政は市町村がやり、道州はそれを補完して市町村ではやれない課題をやっていくことになります。そして道州は市町村が集まった州ですから、アメリカやドイツのように国から独立した一定の財源や権限を持ち合わせていなければならない。だから連邦制のイメージになるんですね。それを最後に補完するのが国家になりますが、国家は道州や基礎自治体がやる仕事はやりません。ですから、残されているのは外交、国防、司法、通貨管理、そして権力機能しかない。そして結果的には、財界版の競争国家型の道州制と同じものに近づいてしまうという構図になります。
あえていえば、新自由主義的な競争国家を追求するタイプの人間は、2番目の競争国家型道州制を先行させるという、自民党や財界の流れにほとんど同じことになります。「ポスト福祉国家派」は、市民自治や基礎自治体の完全自治体をモデルにするから連邦制型になる。ただし両者は単純に割り切れるものではなく、それぞれの潮流は結局最後は同じようなところに行ってしまうわけです。
たとえば、PHP総合研究所前社長でみんなの党の江口克彦参議院議員などは、かつての道州制ビジョン懇談会で中身としてはどちらも主張しています。しかしいずれにせよ、統治機構を再編成しようというタイプの人は、どちらかというと連邦制、つまり、統治の仕組みや行財政の仕組みをどうすればいいかと考える人達は連邦制型です。財界のように露骨に「大企業の競争力をいかに強めるか」という発想からいく人達は、上から下への分権型。そういう流れになっています。
「集権か分権か」というニセの対立構図から
「霞が関官僚機構か国家公務員労働者か」の真の対立へ
福祉国家を追求するタイプの人間は、消費税を基幹税化するという道には入り込みません。私たちは福祉国家型地方自治と同時に、集権化・分権化という発想ではなく、地方であれ国家であれ公務労働の裁量権や公務労働そのものが持ち合わせている地域密着型の裁量権を高めることが重要であると考えます。また、「集権か分権か」という構図ではない点に注意する必要があります。「集権か分権か」ではなく、国の行政であれば「霞が関官僚機構か国家公務員労働者か」という構図なのです。国家公務員労働者であれ、地方公務員労働者であれ、対抗しているのは官僚機構なのであって「集権か分権か」という構図ではないのです。もし「集権か分権か」という構図に入り込んでしまうと、何でもかんでも分権化して地方がやりさえすれば上手くいく、というイメージになるでしょう。
しかし、地方に任せたからといって、地方自治体は地方自治体で官僚機構があるわけです。その官僚機構と公務労働者が対決して、公務労働者の側がきちんとした仕事をやれるような体制にする必要があるのです。国家公務員労働者であろうと地域性を無視して働いているわけではありません。一般に、国家公務員がやったら全国画一的で、霞が関の規格のもとで仕事が成されるというイメージで見られがちですが、私はそれは違うと思います。国家公務員労働者も地方に分散して現場を持っている。現場を持っている国家公務員労働者は、どこの公務員であろうと地域に照らして仕事をするのです。だから地域に密着し、地域の事情を反映しながら適切な仕事をするということは地方公務員労働者も国家公務員労働者も関係ないのであって、公務労働として仕事ができるように再編成するということが課題です。
地方公務員労働者や国家公務員労働者を支えているナショナルミニマムを基準にした上で、弾力的で柔軟に地域に即して仕事をするということが、抽象的ですが、私たちが選択すべき道ではないでしょうか。
道州制は住民自治の形骸化をもたらす
現在の道州制の問題点をまとめると、道州制構想であれ分権化構想であれ、ナショナルミニマム保障という視点を徹底して軽視し、現在の日本で取り払ってしまったら、地域や自治体の行政は競争せざるを得なくなってしまうので、文字通り、生存権や労働権に基づく国づくりや生活保障にはなりません。
2つめに、ナショナルミニマム保障を取っ払ってしまうと、地域間の発展が不均等になってしまいます。地域が全国性を失ってバラバラになり、逆に競争せざるを得なくなります。地域と地域が競争し始めると、いよいよ減税競争や行政水準の競争が起きて、結果的には住民の暮らしそのものが衰退することになりはしないかという懸念があります。
3つめの問題点は、道州制に限って言っても、本来の自治体の原点である住民自治そのものがますます形骸化するということです。たとえば九州を単位にして、市町村に散らばっている住民参加型の行政ができるかどうかを考えればわかります。できるはずがないのです。まして、道州の中では州都に権限や財源が集中するわけですから、住民自治というのは形骸化して、言葉本来の分権化という意味を失ってしまうのです。ですから、地方自治という視点から見ても、やはり現在の道州制には何があっても賛成できません。
道州制の狙いは国の出先機関廃止と国家公務員削減
さらに付け加えると、私は道州制は実現できないと思っています。安倍政権の中の道州制推進論者さえも、道州制を実現できる見通しは持っていないと思います。道州制推進論者が実現できる見通しを持っていない道州制をなぜ掲げているかというと、道州制に向かって実際に進められることそのものが欲しいからです。
これがまさに、国の出先機関の地方移譲です。これは道州制が実現できなくても、今にも関西広域連合に移せる。道州制をイメージに置いてやればできないことはないからです。そして、結果的には道州制の実現に至らなくても、ナショナルミニマム保障は徐々に後退し、国家公務員も減らすことが可能になるわけです。いろいろな行政で国の責任は徐々に免除されて、自治体の側が何から何まで財源も含めて責任を負わなければいけなくなる。そういう流れにもっていけるのです。これが実は狙いなわけです。道州制構想というのは、それを掲げて一歩一歩あゆみを進めた時に、「国の出先機関は廃止できるぞ」「廃止できないまでも公務員は減らせるぞ」という流れにもっていけることが真の狙いだと私は思います。
ではその後、災害が起きた場合はどうなるのかといったら、どこも責任を取れないということになってしまう。それはすでに市町村の福祉行政で起きています。保育などでも、権限を渡した結果、保育所の床面積はどんどん狭められ、保育園の基準も下がって、実際には自治体の条例制定権にゆだねて権限を任せることになっています。ただ、今の仕組みのもとでは完全に移行することはできませんが、現実に進行していることを見ると、国の保育に対する責任は徐々に少なくなってきて、地域を単位にしてやり繰りせざるを得ないことになっています。そして財政が苦しければ我慢しなければいけなくなっている。実はこれが狙いであって、道州制そのものにだけ目を奪われていてはいけません。
道州制の名のもとで進められている一つひとつの行政サービスの後退に対して、全体のビジョンの中でとらえながら、「だから問題なんだ」というふうに明らかにしていかないと、現在の新自由主義構造改革のたくらみに持っていかれてしまうでしょう。この点をよく見ておくことが大事だと思います。
応能負担型税制の再建・強化が新しい福祉国家の土台
――新しい福祉国家構想研究会の対抗軸についてお聞かせください。
一番難問なのは、応能負担型税制をきちんと再建して、強化することです。その時に当然、「グローバル化ではできないんだ」という反発が来ますよね。それに対して、やはり累進課税で法人税についてもきちんと負担させ、配当にも優遇措置を取るのではなく総合所得累進課税の公平な税制で税金を吸い上げていくことが大事になります。
これを基本にして、あくまで地域や産業間の垂直型所得再分配の構造を守って、それで福祉国家型の戦後の原型を現在の新段階で高めていくことが重要です。公共機関がやる公共サービスは、公共財を供給するということです。これは、市場で放っておいたら供給できないような資源を、公共機関が責任をもって配分するということです。ですから所得再分配の過程で、環境保全や防災、教育や社会保障サービス、放っておいたら永遠に国民の必要性に適わない公共サービスについて、きちんと所得再分配を通じて提供していく必要があります。これを確立することができると、経済が福祉国家型内需を基本にして安定することになり、それほど景気変動で振れません。つまり福祉国家というのは、基本的には国民の暮らしに結びついたサービスを安定的に供給することで、内需は安定するのです。福祉国家を確立していけば、日本経済そのものが安定的に発展していくので、新しい次の税収を呼び込むことになって、当座は財政が苦しい状況から出発したとしても、福祉国家型の税制や行財政構造のもとでは、アベノミクスで解決できないようなデフレ不況も中長期的に解決できるという見通しで青写真を描くことが当面の私たちの課題です。
当面は、アベノミクスや道州制の問題点をしっかり分析して、これではダメだという問題点を明らかにすることで、違う側面を逆に明らかにし、追求していくことが私たちの作業です。これを福祉の各分野や財政構造および税制で解決しようということです。
消費税増税と一体で社会保障が改悪されていく
――税と社会保障の一体改革などの動きについてはどう考えればいいでしょうか。
今までは消費税を上げて、多少とも社会保障にお金を回す、つまり社会保障のための消費税増税なんだというのが触れ込みでした。ところが、消費税が基幹税として位置づけられてくると、消費税を増税するのであれば、その前に社会保障自ら身を切らなければいけない、社会保障費を削減しなければいけないという、とんでもない話にひっくり返りつつあります。
つまり社会保障を良くするのではなく、消費税で国民に痛みを突きつけるのであれば、社会保障の方がまず痛まなければいけないという論理に変わりつつある。
これは、消費税が中心になった時に「社会保障のためなら消費税を少々上げるのはやむを得ない」という風潮があって、政府はこれを利用していたわけですが、実際には、一体改革というのは消費税を上げると同時に社会保障の限定化・効率化も合わせて進めるのです。それは、消費税増税と一体で社会保障も悪くなっていくという性格のもので、これは歳入面の改革と支出面の改革がどう進むかということを見事に示しているわけです。
「応能負担」と「垂直的所得再分配」は切り離せない
税収を獲得する時の財源確保の論理と、それを使う時の原則や論理は整合性を持たなければいけません。「応能負担型税制」だからこそ「垂直的所得再分配」となり、そして、ナショナルミニマム保障に国が責任を負わなければいけないという税金のあり方の原則と、国家行政がよって立たなければいけない原則は論理的に結びついているというこの両者の関係を、これからはしっかり考えていかないと財政構造の転換にはならないわけです。
この「応能負担型税制」と「垂直的所得再分配」の両者を切り離してしまうと、社会保障のためであれば消費税であろうと何であろうと、とにかく財源さえあればいいとなりがちです。逆に消費税をこれだけ上げられるのはかなわないから、社会保障も切り詰めなければいけないとなって、税収と支出の論理的関係を断ち切って発想するところに現在の特徴のひとつがあります。
福祉国家型財政や税制というのは、支出の時の論理と税収を上げる時の論理は整合性を持って、どちらとも憲法の原則に沿ったものでなければならないと思います。そういう意味で、福祉国家型財政の原則から見ると、これからの税と社会保障の一体改革が向かう道には反対する必要があります。昨年はまだ「消費税増税を社会保障に」という「ポスト福祉国家派」の論理がありましたが、それが今はまったくなくなってしまって、「消費税増税と一体での社会保障改悪」になりつつありますから、あらためてこの問題にも注意する必要があります。
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抜粋終わり
より
上記文抜粋
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頑張る意欲さえ奪われる…マスコミが報じない「親ガチャ」の本当の原因と解決策
意欲、学力、経済力が再生産される「親ガチャ」の問題に注目が集まっている。日本大学教授の末冨芳さんは「親ガチャを生む格差構造は、ずっと日本に存在しており、特段悪化したわけでも改善したわけでもない。しかし『親ガチャ』を騒ぐマスコミからは、ではどうしたらその格差をなくすことができるのかのソリューションに関する報道や発信は少ない」という――。
古くて新しい「親ガチャ」問題
教育費問題の研究者であり、内閣府の子どもの貧困対策に足掛け8年にわたって従事してきた筆者からは「親ガチャ」は、古くて新しい問題に見える。
子はどのような親をもつかによって、教育機会だけでなく、学習意欲、体験、そして就業機会の格差まで大きな影響を受ける。
子どもの努力だけでは乗り越えられない、生まれによる格差が温存され、頑張る意欲すら奪われるディストピア(絶望的な社会)。
日本社会もそうした残酷な社会なのである。
それは今に始まったことではない。
生まれによる格差とは、典型的には次のようなケースである。
東京都はじめ都市部高所得層の特に男子は、一年浪人しても行きたいハイレベルな学部(とくに医学部)を目指せるのに対し、鹿児島県や東北地方等の地方部に生まれた女子は大学進学を志しても男尊女卑の価値観による家族や周囲の反対、低所得による自宅外通学の難しさなどにより大学進学すら困難なのである。
私の思い付きで言っているわけではなく、文部科学省の『学校基本調査』や東京大学・大学経営政策センターの研究により、高所得層・都市部在住の保護者を持つ、とくに男子は進学に有利であり、低所得層・地方在住の女子ほど進学に不利であることが、明らかにされている。
※東京大学・大学経営政策センター,2009,「高校生の進路と親の年収の関連について」
また日本語学習ニーズを持つ若者は高校段階から十分な受け皿がなく排除され、障害を持つ学習者も高校段階以降の受験・進学機会は極めて厳しい。
まず社会科学分野の研究者であれば既知の事実であるが、家計間の所得格差を示すジニ係数は、1990年代以降おおむね横ばいである。
※井上誠一郎「日本の所得格差の動向と政策対応のあり方について」(2020年7月・独立行政法人経済産業研究所)
悪化するでも改善するでもなく、存在し続ける課題
また日本における社会階層の親子間再生産の調査であるSSM調査(最新年度は2015年度)でも、親子間の学歴や職業の影響については、男女差があり、2000年代においては親子間の学歴・職業等での再生産の度合いが少なくなる(格差が解消される)方向での変化は起きていないことが指摘できる。
※中村高康,2018,「相対的学歴指標と教育機会の趨勢分析――2015年SSM調査データを用いて――」古田和久編『SSM調査報告書4 教育Ⅰ』
※藤原翔,2018,「職業的地位の世代間相関」吉田崇編『SSM調査報告書3 社会移動・健康』
わかりやすくまとめてしまえば、計量的には日本の「親ガチャ」を生む格差構造は、ずっと日本に存在しており、特段悪化したわけでも改善したわけでもない。
しかし、この生まれによる格差という残酷な構造的課題は、時折社会の耳目を集める。
今回の「親ガチャ」ブームもその第N波である。
格差論のトレンドを振り返る
私が記憶する限りでも、2000年代以降、以下のような格差に関する言説のトレンドがあった。
2000年 バブル崩壊や就職氷河期等による中流崩壊言説を経て、『不平等社会日本』(佐藤俊樹)等のベストセラー現象に確認できる格差社会論の本格化
2006年 小泉純一郎総理の「格差が出ることは悪いことでない」という格差肯定論
2008年 リーマンショック、年越し派遣村、『子どもの貧困』(阿部彩)等による格差批判の広がり
2009年 民主党政権、2011年東日本震災の中で、格差社会を前提とし、子どもの貧困対策を含めて格差は深刻であもり、改善すべきものという認識が徐々に浸透していった。
2012年 第2次安倍政権、アベノミクスの中でも格差拡大論が時折指摘され今日に至っている。
「親ガチャ」ブームは、第2次安倍政権での格差拡大論とコロナ禍の景気停滞等による先の見通せない社会不安の中で、とくに今年になって急にマスコミによって喧伝されるようになった。
ソリューションを示す報道は少ない
しかしながら、その本質は、日本も、子どもがどのような親をもつかによって、教育機会だけでなく、学習意欲・体験、そして就業機会の格差まで大きな影響が及ぶ構造的課題をもつ格差社会であるということに尽きるのである。
不思議なことに、「親ガチャ」を騒ぐマスコミからは、ではどうしたらその格差をなくすことができるのかのソリューションに関する報道や発信は少ない。
騒ぐだけ騒いで、若者や親に不安を与えるだけならば、公共の報道としてはむしろ有害なのではないだろうか。
なお本稿では、親子の相性の悪さという意味での「親ガチャ」は分析の対象外としている。
生活の苦しさが、家族間のコミュニケーションを悪化させ、親子の相性を悪くさせるという意味の「親ガチャ」は格差問題としての視点に内包されている。
また生活が苦しくなくても、親子の間に相性の良しあしがあることは否定できない事実であるが、個人的には親の側が子どもを独立した人格とみなし、親自身の子どもへの執着を割り切れるかどうかが重要だと考える。
これ以降、「親ガチャ」という言葉を生む、日本の意欲・学力・経済力格差再生産を発生させている根本要因である“政府の親へのフリーライド問題”と、その解決策(ソリューション)を考える。
すなわち「親ガチャ」にはソリューションがあるのだ。
政府の親へのフリーライド問題=「親ガチャ」の原因
拙著『子育て罰 「親子に冷たい日本」を変えるために』(桜井啓太氏との共著・光文社新書)では、政府が親に養育・教育のコスト負担を課し、それゆえに政府予算や政策支援を怠ってきた“政府の親へのフリーライド問題”が、子育て罰大国・日本の要因でもあるという問題を指摘している。
親にとっては子どもを育てる金銭・時間コストの高さの割に政府の支援が少なく、子育てしていても、次第に喜びを失い苦労ばかり大きくなる。
子どもにとっては、所得の高い親かどうかによって人生を左右される「親ガチャ」から抜け出せない国なのである。
このような社会で、どのように意欲・学力・経済力格差が蓄積されていくか、筆者は2020年4月14日の文部科学省・大学入試のあり方に関する検討会議で、以下のような指摘をしたことがある(図表1)。
ご記憶の読者もいるだろうが、この検討会議は大学入学共通テストへの英語民間試験・記述式試験の強行を図ろうとし、それを萩生田光一文部科学大臣(当時)が「身の丈」発言でさらに炎上させ、延期判断をした「戦後処理」のために設置された会議である。
2020年に予定されていた英語民間試験・記述式試験の強行が、低所得層への補助なしに強行されようとしており、「親ガチャ」問題が深刻化することに対し、筆者は強い問題意識を持っていた。
「親ガチャ」を改善するためには「公正な教育機会」の実現こそが、必要なのである。
教育機会の格差は就業前から始まっている
教育システムに潜む不公正
この図は、多くの優れた教育社会学の研究者たちが心血を注ぎ蓄積してきた研究成果をわかりやすくまとめたものですが、我が国の教育システムがいかに不公正かをあらわしています。
就学前から生活と学びの双方において格差が開き始めますが、我が国は本格的な格差是正政策を導入していません。
子どもの貧困対策の改正時に、私自身も文科省と交渉させていただきましたが、学力格差指標の導入は見送られました。
高等学校以降は更に厳しく、学校は「格差生成装置」とすら指摘されています。控え目に言っても、日本の大学入試制度の都市部在住、男性、高所得者の子供たちに有利な格差生成装置にすぎないのです。
主要先進国とは異なり、日本の教育政策だけが、公正の実現と格差是正を政策に位置づけていません。
※文部科学省・大学入試のあり方に関する検討会議・第5回議事録(2020年4月14日)より筆者の発言を一部修正して掲載している。
親ガチャではなく「政府ガチャ」だ
さらに、子どもの貧困問題について、わが国の研究・政策改善の地平を切り開いてきた阿部彩東京都立大学教授らの指摘からは、生まれる前からの妊婦の不安定な状況(栄養・食・生活習慣格差)が、子どもの健康・発育に影響するというエビデンスも示されている。
「親ガチャ」は生まれる前からの格差の蓄積の産物であり、それを是正しようとしない政権与党(主に自由民主党)の消極姿勢によって、維持され固定化されているのである。
もちろん教育の無償化などの支援策は拡充されつつあるが、「親ガチャ」を解決するための政府投資はあまりに不足している。
わかりやすくいえば、「親ガチャ」なのではなく、「政府ガチャ」なのである。
解決のために必要なたった一つのこと
くりかえそう。
「親ガチャ」を改善するためには「公正な教育機会」の実現こそが、必要なのである。
そしてそれは、現実に可能なことである。
さきほど指摘した生まれる前からの格差のすべてを改善する政策と政府財政出動が行われれば「親ガチャ」は解消可能である。
【公正な教育機会を実現するために必要な政策】
□出産前からの妊婦の栄養・食・生活習慣格差の改善(出産無償化、特定妊婦への妊婦手当の支給等)
□産まれてからの子どもの健康・発育格差の改善(児童手当拡充、医療費無償化・困難世帯への食やケアなどのアウトリーチ・現物給付の充実等)
□子どもの意欲格差につながる家計不安定・親のケア能力を補う支援(児童手当拡充、委託里親の拡充、子育て世帯への生活支援サービスの拡充、就学前教育~高等教育までのカウンセラー・ソーシャルワーカーの常勤配置による相談支援等)
□乳幼児期からの学校外教育格差への介入(学校外教育バウチャーの支給)
□就学前段階・義務教育・高校教育を通じた学力格差縮減策(困難層の多い学級・学校園の教職員・支援員・スクールソーシャルワーカー・スクールカウンセラーの配置拡充)
□高校・大学受験料の無償化(低所得層からの導入)
□高校・大学の無償化の所得制限の緩和(低所得層から所得制限を緩和し、全所得層に拡大)
□高校中退者、大学・専修学校等の進学歴のない若者の進学支援・リカレント教育機会の拡充と質の向上(リカレント教育バウチャー)
□貸与型奨学金を利用しなければならなかった若者への返済条件・免除条件の緩和
できない、とあきらめる限りにおいて「親ガチャ」は日本からは消えない。
あきらめる必要はない、できるはずだ、というのが筆者の見解である。
すでに教育の無償化等は低所得層には拡充されてきている。小学校35人学級の推進など、教職員配置の充実への政府投資も充実の方向に転換しつつある。
また、今回の衆議院議員選挙において自民党以外の主要政党は、子ども・若者支援や教育支援を大きく拡充する方向性を打ち出している。
※末冨芳「#なくそう子育て罰 立民・国民・共産・公明は公約充実、スカスカの自民 #衆院選2021政策比較 」(Yahoo!個人,2021年10月18日記事)
「親ガチャ」を嘆く若い世代の有権者や教育費に悩む親たちが、子ども・若者への投資を拡充させる政党に投票すれば、与党自民党も焦り、政策の実現のスピードが増すことは間違いない。
投票せず「親ガチャ」を維持するのか?
投票し「親ガチャ」を改善するのか?
あなたの一票も、親にフリーライドしてきた日本の政治を変えられる未来と、変えられない未来の分岐点を決めることができるのだ。
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
抜粋終わり
親ガチャを、天皇家とその信者が無くすはずがない。
天皇を頂点とするピラミッド構造を作り、在来日本人の大部分を奴隷にする。
いや家畜にする。と、天皇家の地位は安泰である。
それでの利権構造も安泰。
海外から糾弾されると、国民を国富を売れば、国内の天皇家とその閨閥は無事安泰。
こんなにおいしい「日本人を喰い殺せる」仕組みを、天皇家とその閨閥と外資が無くすはずが無い。
天皇制廃絶OR天皇家皆殺しだけが、日本を救うのですはな。
そもそも天皇に、国民を守る義務はない。
世界の恥、日本人の仇敵の 悪魔王天皇を殺しつくせ
天皇の無い 蒼い空を取り戻す
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