宗教・社会学・哲学が滅びた世界・・・それが近代西洋リベラル派の奉じるディストピア  ガンダムというディストピア。

上記文抜粋
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「絶滅戦争」に突き進む描写があまりにリアル…軍事分析のプロが思わず感心した「ガンダム」の名セリフ
人種差別と戦争の関係に目を向けた良作

アニメ作品は戦争をどう描いているのか。防衛研究所防衛政策研究室長の高橋杉雄氏は「現実の国際政治学では人種差別と戦争の関係はほとんど研究されてこなかった。このテーマに正面から取り組んだ『ガンダムSEED』シリーズの先見の明は注目に値する」という――。
※本稿は、高橋杉雄『SFアニメと戦争』(辰巳出版)の一部を再編集したものです。

宇宙世紀シリーズとは異なる「ガンダムSEED」の戦争の構図

戦争の原因を描き出す上で、『機動戦士ガンダムSEED』に始まるガンダムSEEDシリーズは興味深い問題提起をしている。ガンダムSEEDシリーズでは、宇宙に移住した人々が住むスペース・コロニー国家のプラントと、地球上の国家群が形成した地球連合との戦争が描かれている。

ただし、宇宙世紀シリーズとは対立の構図が異なる。宇宙世紀シリーズでは、宇宙移民者と地球に残った人々の対立・抗争が描かれているのに対し、ガンダムSEEDシリーズの対立・抗争の原因は単に住む場所が違うからだけではないからである。プラントの人々の多くは、遺伝子を調整して身体的にも知能的にも高い能力を持つ人間となったコーディネーターと呼ばれる人々である。

一方、地球連合の人々の多くは遺伝子を調整していないナチュラルと呼ばれる人々である。ガンダムSEEDシリーズでは、遺伝子調整を行って生まれたかどうかを巡って人種差別的な偏見が生まれ、戦争に至る。

国際政治学では研究が進んでいない人種差別と戦争の関係
現代の世界において人種差別を巡る問題は非常に根が深いが、実は国際政治学においてはほとんど研究されていない。たとえば、米国の国際政治学者であるケネス・ウォルツの著書『人間・国家・戦争:理論的分析』(※1)には人種差別(racism)についての言及は一切ない。

2023年に米国ワシントン大学のジョナサン・メーサーが日露戦争におけるロシアの人種差別的対日観が政策決定に与えた影響についての論文(※2)を著すなど、ようやく関心が向けられるようになったが、研究は非常に少ないのが現状である。

その意味で、人種差別と戦争との関係に目を向けたガンダムSEEDシリーズの問題提起は非常に重い。

【※1】Kenneth N. Waltz, Man, the State, and War: a Theoretical Analysis, with a new preface, (Columbia University Press, 2001). 邦訳版。ケネス・ウォルツ(岡垣知子、渡邉昭夫訳)『人間・国家・戦争:国際政治の3つのイメージ』(勁草書房、2013年)。
【※2】Jonathan Mercer,“Racism, Stereotypes, and War” International Security, Vol.48, no.2 (Fall 2023), pp.7-48.

相手を「劣等」とみなして戦えば絶滅戦争になる
ガンダムSEEDシリーズでは、「青き清浄なる世界のために」というスローガンを掲げ、地球連合の政策決定に大きな影響力を持つブルーコスモスという団体を中心に、ナチュラルの間に人種差別的なコーディネーター排斥運動が生まれている。コーディネーターの側にも、『機動戦士ガンダムSEED』後半にプラント最高評議会議長となるパトリック・ザラを中心に、優生主義的なコーディネーター至上主義が存在している。

お互いが人種差別的意識を持つ陣営同士で戦われる『機動戦士ガンダムSEED』における戦争は、相手を完全に滅ぼそうとする絶滅戦争の色合いを呈していく。相手を劣ったものと見なす思想に基づいて戦うとすれば、利害を政治的に調整して共存の道を模索するよりも、完全に滅ぼすか支配すべきという考えに立ちやすくなる。物語の中でも、幾度か相手を滅ぼすまで戦争は続くという発言が見られる。

実際、物語の前史として、プラントのスペース・コロニー「ユニウスセブン」に対する地球連合からの核攻撃が行われている。そのため、パトリック・ザラのように、生き残るためにはナチュラルを滅ぼさなければならないという主張が一定の支持を得ている。

物語終盤になり、地球連合が核攻撃を行い、プラントは巨砲兵器ジェネシスで対抗する。先に撃ったほうが決定的に優位に立てるため、先制攻撃をしようとする誘因が双方に働き、状況が急激にエスカレートする。特に、『機動戦士ガンダムSEED』のように、そうした攻撃優位の状況の根底に人種差別的意識があるとすれば、エスカレーションを抑制させる要因はほとんどない。

「人はすぐ慣れるんだ。戦い、殺し合いにも」
核攻撃とジェネシスの応酬が行われた後、アンドリュー・バルトフェルトが「戦場で初めて人を撃ったとき、オレは震えたよ、だが、すぐに慣れると言われて、確かにすぐ慣れたな」と語る。ラミアス艦長が「あれ(注:ジェネシス)のボタンも、核のボタンも、同じだと?」と問いかけ、バルトフェルトは「違うか? 人はすぐ慣れるんだ。戦い、殺し合いにも」と答える(第46話「怒りの日」)。『機動戦士ガンダムSEED』の終盤では、そうしたエスカレーションのダイナミクスが見事に描き出されている。

なお、劇中において、核攻撃とジェネシスの応酬は、第3勢力である主人公たちのアークエンジェル、エターナル、クサナギの3隻の戦闘艦から出撃したモビルスーツのジャスティス、フリーダム、ストライクルージュなどの攻撃で、核ミサイルとジェネシスの双方が破壊されたことで終わりを告げる。

彼らが出撃するとき、第3勢力の指導者であるラクス・クラインは「平和を叫びながら、その手に銃を取る。それもまた、悪しき選択なのかもしれません。でもどうか、今、この果てない争いの連鎖を断ち切る力を」(第47話「悪夢は再び」)とつぶやく。

争いの連鎖を断ち切るためのディストピア的構想
「争いの連鎖を断ち切る」には争いから中立的な立場にいなければならない。ガンダムSEEDシリーズの世界観においては、それはコーディネーター至上主義にもナチュラル至上主義にも立たないということになる。このことが、劇場版『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』冒頭から登場する中立的な武装組織である「世界平和監視機構コンパス」の設立につながっていくとみられる。

なお、第2作の『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』では、終盤にプラントのデュランダル議長からデスティニー・プランという構想が発表される。これは、一人ひとりの遺伝子を詳細に分析することで、それぞれに適合した社会的役割を割り当てようとするもので、そうすれば人間が過大な欲望を持つことがなくなり、戦争をなくすことができるとして打ち出された構想である。

デスティニー・プランは「個人の自由と夢がない」という意味でディストピア的な社会につながるが、この時点で全人類的な人気があったデュランダル議長の政治力を背景とし、さらに反対する勢力には月面の巨大レーザー砲のレクイエムと2基目のジェネシスであるネオ・ジェネシスで攻撃することで実現を図ったものであった。

「未来を得るために、私たちは戦わねばなりません」

デスティニー・プランは政治的な対立の解消につながらないが、ガンダムSEEDシリーズの世界においては、遺伝子の解析によって社会的役割を決めるとすれば、遺伝子を調整されたコーディネーターのほうが優れた存在であると結論づけられる可能性がきわめて高い。つまり、デスティニー・プランによって、コーディネーターの支配が確立することになる。

続編にあたる『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』では、デスティニー・プランの一環として、コーディネーターよりもさらに高度に遺伝子に手が加えられたアコードが支配階級との位置付けで登場するから、遺伝子の調整のレベルに応じた社会的な階層が生まれることになる。

ラクスは、このデスティニー・プランに抗することを決め、「夢を見る。未来を望む。それはすべての命に与えられた、生きていくための力です。何を得ようと、夢と未来を封じられてしまったら、私たちはすでに滅びたものとしてただ存在することしかできません。すべての命は、未来を得るために戦うものです。戦ってよいものです。だから私たちは、戦わねばなりません」(第48話「新世界へ」)と語る。

人種差別的優越意識と戦争の結びつきを描いた革新性
これは、先に触れた『機動戦士ガンダムSEED』での「平和を叫びながら、その手に銃を取る。それもまた、悪しき選択なのかもしれません」よりも迷いのない言葉であり、戦う選択を強く支持している。劇中のこの言葉から解釈するならば、ラクスにはそれだけデスティニー・プランの持つディストピア性が受け入れられなかったということであろう。

また、明言はされていないが、コーディネーター至上主義にもナチュラル至上主義にも立たない立場を貫くならば、コーディネーターとナチュラルの差別を制度的に永続化してしまうデスティニー・プランに反対するのは必然的な選択となる。このように、人種差別的優越意識と戦いとのつながりを、ガンダムSEEDシリーズは描いている。

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抜粋終わり

私は、正直「コーディネーターは、阿呆だから迫害された」って思った。

そりゃ、圧倒的な能力を先天的に備えながら、ナチュラルの信望を得られず迫害される。。仮にナチュラルの信望を得て社会に不可欠な存在になっていたら、わざわざプラントなど地球外にコロニーを作って逃げる必要などなかったのだ。

能力に鼻をかけて、能力の低いものを馬鹿にする・軽蔑する。なら「追い出される」の当然の話なのである。
それに気づいてコーディネーターたちは、対処したわけではない。正直「コーディネーター」たちの思想が「通俗道徳」程度でしかなかったし、その程度の人間がコーディネーターを作ったのだ。

最初から「間違っていた」のがコーディネーターだったのだ。

でもコーディネーターが生まれたことが罪でなく、それ生んだ親・製造者がアホだったのが一番の罪だったりする。
その能力を持ったら、それにふさわしい処世術・精神性を持たないと、当然に迫害される・・・そっれはそのような「能力に比べて低すぎる精神性」の持ち主は、社会の「害悪」になるからだ。
ちょうど、今のセレブが「銭だけ・今だけ・自分だけ」で、国富を売り払い日本人を殺しつくしている帝政日本や、WOKEが、平等をうたいつつ弱い立場の人間を迫害し搾り取るようなものである。

「左翼の社会正義カルトであり、その信者は新生福音派と同等の熱意を示し、罪人を社会から追放したり、公の場で恥をかかせる行為を強要したりすることで異端を罰する」宗教

北朝鮮から脱北し、韓国の大学からコロンビア大学に編入した人権活動家のパク・ヨンミは、コロンビア大学に広がるウォーク文化には北朝鮮との類似が見られると述べている。彼女は学内が「反西洋的な感情と集合的罪悪感、息苦しいほどのポリティカル・コレクトネス」で溢れていたと述べ、例として、ジェイン・オースティンの著書が好きだと述べた際に、担当者に「植民地主義的なマインドセットの作家のひとりだってわかってる? 彼らは差別主義者でレイシスト」と言われたと述べている。彼女は、学内では「思想の検閲」が蔓延しており、「人々は自発的にお互いを検閲し、沈黙させ合っている」「皆が同時にひとつのイデオロギーに夢中」になっていると述べている[53]。

2019年には民主党バラク・オバマ元大統領も懸念を表明した[54][55]。彼は、「ウォーク」は若者の間に広がっている欲望だと表現し、「自分は決して妥協しないという態度、自分は常に政治的にウォークだという思い込みは、早々に忘れるべき」と述べている。キャンセル・カルチャーは「ウォーク」だと自分を示したいために起こっているとし、「こんなやり方で世の中を変えることなどできない。そうやって気に入らないものに石を投げつけているだけなら成功には程遠い」と批判している。他者を徹底的に批判する現代の風潮も非難している

「人を侮辱したがる男は、みんな末路がよくない」

と左伝

人はすべてを許すことができるが、軽蔑だけは受け付けない という言葉もある

上記文抜粋
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ウォーク・アウェイ運動――アメリカのリベラル派はなぜ嫌われるのか

リベラルと民主党から立ち去ろう!――ブランドン・ストラカというニューヨークのゲイの美容師が、自分は嫌悪に満ちたリベラルと民主党を支持することは出来ないため立ち去ることにしたという内容の動画をYouTubeで発表したのが話題になり、「ウォーク・アウェイ運動」がアメリカで展開されている。

かつて自分はリベラルだった、という言葉で始まるビデオで、彼は、人種・性的指向・性別に基づく差別や独裁的思想、言論弾圧を拒絶するために昔リベラルになったが、今では、それとまったく同じ理由からリベラルと民主党から立ち去るのだと説明している。SNSには彼に賛同した人々によって、なぜ自分がリベラルに愛想をつかしたのか、民主党を捨てたのかを告白するメッセージが数多くあげられている。

このウォーク・アウェイ運動は組織だった運動ではないので、彼らの掲げるメッセージは多様である。リベラルに愛想をつかしたという人もいれば、左派に愛想をつかしたので自分と同じリベラル派は民主党から立ち去ろう、という人もいて、ウォーク・アウェイ運動が目指すのが、民主党批判なのか、左派批判なのか、リベラル批判なのかは厳密にはよくわからない。

これは、アメリカにおいてリベラルや左派という言葉の用いられ方がもともと曖昧なことにも原因がある。だが、民主党系の政治家や活動家に対する批判の高まりと、トランプに対する支持の強まりという近年のアメリカ政治の流れを反映していることは間違いない。

日本では、保守という言葉に批判的な人が多い一方で、リベラルという言葉にはよいイメージを持つ人が多い。だが、今日のアメリカでは状況は異なる。ギャラップ社が発表したアメリカ国民のイデオロギー調査によれば、1990年代から今日まで、保守を称する人はアメリカ国民の4割弱、リベラルを称する人は2割程度で、リベラルよりも保守の方が評判が良い。

2017年には自称保守は35%で、自称リベラルが26%に増大したため、ギャラップ社が現在の調査方法を導入して初めて、両者の差が10%未満となった。また、民主党支持者の半数以上がリベラルを称するようになったのは、調査開始後初めてだという。このように、トランプ政権に対する反発もあってリベラル派が勢力を増大させてはいるものの、アメリカではリベラルが良いイメージでとらえられているわけではない。

では、アメリカにおけるリベラル派とはどのような人で、どのようなイメージを持たれているのだろうか。

今日のアメリカ政治で一般的に用いられている意味でのリベラルという言葉は、フランクリン・ローズヴェルト大統領のニューディール政策を実施した人々が自らをリベラルと称するようになったことによって登場した。アメリカでは連邦政府は大きな役割を果たすべきでないと伝統的に考えられていたため、大恐慌が発生してもハーバート・フーヴァー大統領は積極的な策を講じなかった。その方針を転換し、公共事業を実施したり、年金を導入したりするなど、政府機能の拡大を目指す人がリベラルを称するようになった。

第二次世界大戦後、アメリカでは30年に及ぶ好景気が続くことになり、そのきっかけを作ったとされた民主党に対する支持が続いた。大統領選挙で共和党候補が勝利することはあったものの、連邦議会選挙(とりわけ下院)では民主党が共和党に優位していた。その中で、自らの利益関心を実現したいと考える人々は、勝ち馬に乗ろうとして民主党陣営に加わった。1960年代以降には、黒人やエスニック集団、女性、LGBTなど、自らのアイデンティティの実現を目指す人々や、環境保護など新たな価値の実現を目指す人たちが民主党連合に加わり、リベラルを称するようになった。

民主党とリベラル派が優位する時代にあっては、民主党陣営を構成する集団は、拡大するパイを他集団と奪い合う関係に立ったため、必ずしも協調的な態度をとらなかった。また、1960年代に学生運動や第二派フェミニズムの活動家が「個人的なことは政治的なことである」というスローガンを掲げたことに象徴されるように、リベラル陣営で影響力を増大させた人々はアイデンティティの実現を重視した。

アイデンティティの実現を目指す活動では、自らのアイデンティティについて他から介入されることは往々にして想定されない。また、経済的利益とは異なり、妥協は容易でない。これらのことが重なり合った結果、アイデンティティを重視するリベラリズムは、非妥協的な立場をとるようになっていった。リベラル派は、保守派の目には、非妥協的で協調不可能な存在に映るようになっていったのである。

アイデンティティ・ポリティクスを展開する人々の議論やスタイルには、いくつかの限界があると指摘される。

第一に、アイデンティティ・ポリティクスを主張する人々は、多数派に属すると考えられる人々のアイデンティティや利益関心に十分に配慮しないことが多い。マイノリティとされる人々を社会的弱者と見なし、そのアイデンティティと利益関心の実現が追求される。アメリカの多文化主義者はしばしば、マイノリティの文化を擁護するよう主張する一方で、伝統的な主流派文化を白人に有利なように偏ったものと位置付け、白人(とりわけ男性)を既得権益者とみなす傾向が強い。論者によっては、白人(男性)を、マイノリティを無意識のうちに見下す差別主義者と位置づけることもある。

だが、一連のトランプ現象が明らかにしたのは、アイデンティティ・ポリティクスの担い手や多文化主義論者が既得権益者と見なした人の中でも、労働者階級の白人は、自分たちを被害者とみなしていることだった。

彼らは、社会的に成功した白人からは見下され、マイノリティからは積極的差別是正措置という名の逆差別を受け、家庭内では妻に見下されている(製造業の衰退によって、主たる家計支持者としての立場をサーヴィス業に従事している妻に奪われた場合は特に顕著である)という三重の被害者意識をしばしば抱えている。ある論者はこのような労働者階級の白人(男性)のことを「新しいマイノリティ」と呼んでいるが、彼らはアイデンティティ・ポリティクスに代表されるリベラル派の議論の射程には入ってこず、民主党とリベラル派に不満を感じているのである。

第二に、アイデンティティ・ポリティクスを重視する論者は、差異を強調するあまりにしばしば対話を拒否し、アメリカ国民全体に共通する利益の実現を目指していないとみなされることがある。リベラルの立場からリベラルの再生の道を模索するマーク・リラが指摘するように、アイデンティティ・ポリティクスを重視する人々が自らの立場を絶対視する態度をとり始めると、立場を異にする人々が議論を積み重ねることで互いに歩み寄り、共通の利益の実現を図るという、リベラル・デモクラシーが目指してきたものが達成されなくなってしまう。

ニューディールの実現を目指したリベラル派が目指していた社会政策を実施するには、国民の間で何らかの一体性の感覚や連帯感が存在することが不可欠だった。だが、アイデンティティ・ポリティクスの提唱者が異なる立場を尊重するよう他者に要求する一方で、自らとは異なる立場に徹底的に不寛容な態度をとるようになると、対話が成立しなくなり、全体に共通する価値や利益の実現を目指すことができなくなってしまう。

第三に、アイデンティティ・ポリティクスを重視する論者の暴力性が、ときおり指摘される。アイデンティティ・ポリティクスの提唱者やリベラル派は、集団の尊厳や人権など、それ自体としては誰も否定しない価値を掲げ、異論を認めず敵対者を非難・攻撃する人と見なされることがある。

その非難・攻撃というスタイルはじつは暴力的だが、その暴力性に無自覚な人も多い。仮にその暴力性を認識していたとしても、自らは弱者の味方で、正しい規範に依拠していると考えているため、その暴力性を正当化する人もいる。そして、自らに対する批判をリベラルな規範の否定と捉え、糾弾者をさらに批判する。その際には、批判者の発言内容だけではなく、人格や動機も含めた批判がなされることもある。

このような状態は、自らの奉じる価値や規範は絶対視するものの、他者に対する敬意を欠くものと見なされ、非難されている人にはダブルスタンダートに映る。それがリベラルに対する敵意を生み出す要因になっている。

このような背景の下、今日のウォーク・アウェイ運動は発生している。

第二次世界大戦後のアメリカを、世界でも魅力的な存在としてきたのは、まぎれもなくリベラル派の功績である。彼らは多くの人々の生活を保障し、尊厳を認め、希望を与えてきた。だが、リベラル派内では、その構成要素が多様化しているにもかかわらず、内部での対話すら十分になされなかった。その結果として、リベラルとリベラル以外の人との距離は一層広がってしまった。

リベラル・デモクラシーを意味あるものとするためには、異なる立場の間で対話を成立させ、信頼と合意を形成していくことが不可欠である。だが、今日、アメリカの社会全体で対話が成立しなくなっている。そのような状態の責任は、リベラル派のみにあるわけでは決してない。減税、銃規制反対、中絶禁止などの立場をとる保守派も同様に激しく対話を拒絶している。分極化傾向が強まっている今日のアメリカで、保守とリベラルの人々による対話可能性は一層低くなっている。だが、今日では、自らを保守でもリベラルでもないと位置づける人々がアメリカ国民の最大勢力である。ウォーク・アウェイ運動は、それらの人々とリベラルとの間の対話も不可能になっている事態を示している。

2018年の中間選挙で、民主党は下院で議席を増大させた。比較的選挙区が狭い下院の選挙では、同質的な有権者集団に対するメッセージを投げかければ勝利することができるため、多様な観点を踏まえた複雑なメッセージを出す必要はなかった。だが、2020年の大統領選挙で勝利するためには、広範な有権者の支持を獲得することが必要になる。

今回の選挙のように、トランプに対する敵意とアイデンティティ・ポリティクスを前面に出すだけではダメである。民主党とリベラル派は多くのアメリカ人によって支持されるビジョンを示すことが必要になるだろう。

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抜粋終わり

成功者の「正論」による、弱者への迫害。。それにアメリカ人がキレたのだ。

通俗道徳や自己責任論は、弱いもの・不遇なものを、なぶりものにできるのだ。

CE世界でいうと、それでなぶりものにされたナチュラルは、当然にコーディネーターに復讐したのだ。

通俗道徳と自己責任論は、確実に、社会を分断する・・CE世界ではそれにコーディネーター技術が分断を大きくしている。。

そうなると、政治やガバナンスは、「飴と鞭」だけになるよね。。弱肉強食の修羅の世の中になるは必至・・・

その結果に当然に、コーディネーターが迫害されたのだ。

でも、なぜに、コーディネーターの親は、その「人の人たる道」を教えれなかったのか・・・・コーディネーターがその英知を使って「通俗道徳・自己責任論による分断を修復する」ってならなかったのだろうか・・。

一つは「宗教の衰亡」もう一つは、それに伴う「思想・哲学・社会学の衰退」だった。
まあ私は相手が「理系」の人間でも、まともな道理をわきまえてないと正直認めないよな・・。

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ガンダムシードの世界は、「宗教は、衰亡した」ので、「無宗教」が圧倒的多数な世界である。

なら、儒学を信奉しているわけではない。。ので、まっとうな倫理などほぼない。辛うじて慣習で残っている程度なので、「ナチュラルとコーディネーターの和合」をいう思想家も現れない。

なんと20歳になったばかりのラクスが大声をあげてなんとかなる・・・て無残な状況なのである。


 つまり、科学技術の進歩が極限にまで達し、もう学ぶべきものは無いと言う状態からは、まだまだ程遠かった筈です。

 にもかかわらず、なぜそんな事が起きたのでしょうか?

 ここで再び、宗教の放棄が出てきます。

科学と宗教の幸福な関係
 古代より人類は宗教からインスピレーションを受け、様々な文化を発展させてきました。

 そしてキリスト教が支配する十五世紀ヨーロッパで、科学革命が始まりました。
 

 興味深いのは、科学のコンセプトが一神教のそれと通っている所です。

 唯一神による真理と、万物に通用する法則の探求。

 教会は科学を抑圧しましたが、その実、ヨーロッパにおける科学は、そのキリスト教の影響を大いに受けていました。 
 

 似たようなプロセスが、十世紀中国に成立した宋王朝でも起きていました。

 こちらは儒教のテキストの再解釈が試みられ、この革新運動から宋学が誕生しています。

 それが刺激となり、様々な分野に大きな波及効果を及ぼし、火薬・印刷術・羅針盤と言った人類文明を大きく飛躍させる発明がなされ、あるいは普及する様になりました。
 

 この様に、宗教や哲学は人文科学に大きな刺激を与え、更には、数学や化学、そして技術面に新たな成長の糧を与える。
 

 このフィードバックが、人類文明を大いに進歩させた事は間違いないでしょう。

 ここでは宗教や哲学、文学等の分野を精神文化と呼ぶ事にします。

 それ以降、精神文化の影響は徐々に弱まっていた事でしょう。

 まず宗教が断絶し、それに続いて哲学や人文科学、次いで社会科学等が勢いを失う。

 そして、銀河連邦時代になると、最初に基礎科学が衰え、途中から応用科学が下火になって行った。
 

 と、言う事は、銀河連邦の衰退は、長年続いた物資偏重の文明と、それによる精神文化の枯渇が大きな原因だったと言えます。

 このプロセスは少しずつ、権力や政体の交替を経て、誰しもが気づかないうちに進行していた。

 自覚症状が出た時には、既に重態か、さもなくば甚大な苦痛を伴う外科手術が必要になっていた事でしょう。

 そしてより悪い事に、既に精神文化の価値すら忘れてしまった銀河連邦市民は、この事態に見向きもせず、ひたすら物質的享楽を貪り続けました。

 一部の人々は堕落と頽廃に警鐘を鳴らしましたが、彼らですら、時間をかけて根治するより、安易に独裁制を求め、短期かつ物理的な解決を望んだのです。

より短期で物理的な解決・・・・CE世界なら、絶滅戦争になるよね。
で、まあそれを今実践しているのが、イスラエル~厳密にいうとシオニズム~だったのだよ。
シオニズムて、ユダヤ教ではなく「唯物的ご利益教のカルト」ですから、ガザやヨルダン川西岸で、皆殺しをしているのですよね。
WOKEも一緒だは、、、確かに宗教には瑕瑾もあるかもしれない。でもそれを捨てたら、いったい何を基礎に、倫理や学問を構築するのだろうか。。価値判断自体が、そういう倫理や学術と無縁ではないのだから。

米国の左派エリートたちは「トランプは極悪だから、民主主義よりも勧善懲悪の原理が優先し、大統領就任を阻止するのが良い」と考え始めている。リベ全な左派の本性が露呈し始めている。

こりゃ、絶滅戦争できるよな。


西洋近代文明は、良くも悪くも「政教分離」だった。

でもそんなのは、実はいうと世界でも「カトリック・新教」だけの「奇習」にすぎない。

むろん、東アジアの「三教調和」のような「有宗教的な宗教の偏波の排除」をしたわけではない。

それで宗教を失い、哲学思想を脆弱化させると、当然に「修羅の世」になるしかないのです。

西洋近代文明自体が「カトリック的無宗教文明」だったわけで、その「無宗教」「カトリック的不寛容」が、社会を人間を破壊しているのです。

それがCE世界も行き着いた先の証拠は、「ユーラシア連邦」という欧州ロシアの連邦国家の首都が最初は「ブリュッセル」だったてこと。
ロシア正教と東方教会のロシア・東欧が、カトリック新教の西欧と同じ国家になるのは普通はない。歴史の途中で、西側がロシア。東欧を飲み込んだ・・・滅ぼしたってこと。そりゃ、地獄の世界になりますは・・・今のアメリカの都市で薬物依存者や犯罪者が跋扈しているし、、まさに地獄しかない。

日本では「天皇」には「宗教はない」とされているが、それ自体が、西側・米英による日本破壊工作の一環であるといえる。
まあ「天皇」は、それ自体がカルトだし「唯一の統治権者」なのに無責任なのだから。。天皇の存在が日本人を破壊兵器なのですから。

天皇を根絶やしにして 日本人を救う

天皇の無い 蒼い空を取り戻す

慈悲と憐みに富む社会になりますように

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