見出し画像

傲慢かつケチなら、評価に値しない。

上記文抜粋
・・・・・・・・・

普通に就職でき、給料も順調に上がり、終身雇用が守られ、非正規雇用もなく、消費税もなく、重い社会保障負担もなく、高金利で貯金も増えた。
世代によっては、バブル経済の恩恵も受けた。
24時間働けますか?という価値観で馬車馬のようにこき使われる経験もした世代ですが、それのリターンもちゃんとあった。

そんな世界は、下の世代には夢物語でしかない。

今は、働かされるだけ働かされて、それに見合う給料もなく、それどころか、収入に見合わない「税と社会保障の一体高負担」を押し付けられている。

こんな社会で、希望を見出すことができるかと言えば、そうではないという理解が当然だと思います。

本来は、リベラルの人たちがこれらを理解すべきはずですが、上の世代のエリート・リベラルはわかろうともしない。

それどころか、
・石丸に投票するなんてありえない。
・103万の壁程度の話が争点なんて、民主主義の危機を理解していない。
・面白可笑しく選挙に行く連中なんてありえない。

とか言っているわけですから、若い世代の共感など得られるはずもない。

自分たちの力のなさを棚に上げて、下の世代の選挙行動に刃を向けるのですから、彼らがエリート・リベラルに絶望するのは当然ではないかと思います。

・・・・中略・・・

エリート・リベラルが憂うべきは、今の現実ではなく、現実に何ら影響を持てない自身の思考であることに気づくべきではと思います。

それは、若い世代の苦悩を理解していないことを出発点にしている。

なぜ彼らは、若い世代の苦悩を理解しないのか。

それは、エリート・リベラルも通俗道徳に侵食されているからだと思っています。

それは、就職氷河期世代が、今もなお苦しんでいることへあまりに冷淡な態度をとることがそれをよく示していると思います。

さらに言語化できているかどうかは知りませんが、「若者は努力が足りない」と思っているのでしょう。教養が不足しているのは、努力が足りないと本気で思っている。

上の世代のエリート・リベラルは、麻雀三昧の片手間であっても教養と向き合う時間があった。
しかし、今の大学生は違います。奨学金という「サラ金」に拘束されている。だからアルバイトをせざるを得ないのがデフォルト。

さらに役に立つのかわからない教養に時間を割くことはできず、「現世利益」のある資格であったり、語学であったり、企業でのインターン活動に時間を取られている。それがやりたいことなのかすら考える暇もなく、そうするものという現実を生きている。

そこまで資本の力は若者の「時間という資産」を食い荒らすほど侵食しているという理解はあるのでしょうか。

その現実を見ずして、若者を責めるのであれば、話を聞いてもらえると思う方がどうかしていると思っています。

下の世代は、「どうせ、お前たちは逃げ切れるとおもってるんだろう?」という先入観でしか見られてないことをよく考えるべきしょう。

若者は、今の現実にウンザリしている。だから彼らは、異世界ものと呼ばれるジャンルのエンタメを好む。この世のどこに希望があるのか。
希望があるのは、ここじゃない、「異世界しかない」という厭世観。

こんな地獄を作ったのは、大人です。


・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり


「無職転生」て、アニメのプレストーリーを見て愕然とした。。


>前世では高校時代の虐めが原因で34歳まで引きこもって両親の葬式にも出なかったため、兄弟に家から追い出されてしまい、直後にトラックに轢かれかけた高校生3人を助けようとして事故死した。

>転生後は前世で何事も中途半端に投げ出した後悔から、今度こそ真面目に生きようと決意する[18]。

これって、まさに「学校教育」も「社会福祉」も、まったく役に立たず、むしろ害悪であったと証明しているそのものだ。

ようするに
「転生」しないと=死なないと、

「学校」「学校のいじめ」「それでの引きこもりや経歴の損耗」は、
フォロー出来ない

ってことを、「ジュルナイブ」「アニメ」で告発している。

もう3年前以上に「リベラルエリート」は、「オルガリヒ」になっていたのだ。


パワハラやモラハラで、精神を病んで挙句に自死させられる。

体罰で、終生にわたる障害を負っても「根性が足りない」「みんなのため」と泣き寝入りさせられる。

ヘイトを「愛国心」という。

先輩・後輩で、後輩の助言・諫言も、「逆らうな」と昔日なら暴力が当たり前。

それを法律も司法も、是正しようとしない。

世の中がおかしくなったのは、「頭がおかしい奴らがエリートだから」なのが正しいのだ。

上記文抜粋
・・・・・・・・・

しかし、庶民を愚民扱いする国家は、必ず転覆する運命にあると私は考えている。そして、民意を無視することのできた国家は、これまで存在しなかったように思う。
たとえば江戸時代は封建主義で、一見民主主義から遠いように見えるけれど、民意に対して為政者はとても敏感だった。

庶民は一揆や打ち壊しなどを実行することがあったが、政府転覆をはかることは考えていなかった。あくまで政治の「正常化」(庶民の生活のことを考えること)を促す目的で行われた。為政者である武士は、常に庶民の生活が無事に行われるよう、心を砕く必要があった。

だから、江戸時代みたいな封建時代でさえ、「民意」を無視することはできなかった。その意味で、江戸時代も形を変えた民主主義ともいえる。庶民は、自分に与えられた仕事を全うすることで役割を果たし、武士は庶民の生活が立ちゆくように諸調整をするのが役割。つまり役割分担でしかない。

・・・・・・中略・・・・・・・

哲人国家、賢人国家に憧れる人って、どうも「俺達って賢いよね、愚民どもと違う人種だよね」と自己満足に酔って、庶民のことなど無視する、民意を「愚民どものわがまま」とみなして軽視する、という傾向を強める。その結果、民意に裏切られ、転覆することを余儀なくされるもののように思う。

つまり、哲人国家、賢人国家の構想は、非民主主義と言われる封建主義や専制国家よりもさらに非民主主義的なために、民意を無視しがちなために、機能不全に陥りやすい、と私は考えている。では、なぜそうなってしまうのだろうか?

自分を哲人だ、賢人だと考え、「愚民どもとは違う人種」と捉えてしまうと、庶民を同じ人間とみなせなくなってしまうのだろう。そのために、庶民の意見を「愚にもつかぬ、聞き入れる必要のない言葉」と解釈し、無視するようになってしまう。そして、自分たちだけで政治を決そうとしてしまうようになる。

すると必然的に、「賢人である私たちのためになることだけ考えればよい、愚民どもは野垂れ死にするがいい、愚かであることが悪いのだから」と考えるようになり、自分の利益しか考えなくなる。この結果、民意を無視し、転覆される運命をたどるのだろう。

ではなぜ今、一部の人たちからこの「哲人国家」構想がウケるようになっているのだろう?私が思うに、2つ理由がある。80年代からイギリスやアメリカで新自由主義が広がり、2000年代に日本でも新自由主義がはびこり、富裕層優遇を当たり前と考える思考が広がった。このため。

カネという権力を握った富裕層は、「おカネを稼げる俺達って賢人といえるんじゃない?だとしたら、俺たち賢人が国家を運営したほうがうまくいくよね?そしたら国家はますます繁栄するよね?その邪魔をするだけの愚民は野垂れ字ねばいいよね?自業自得だし」と考えやすくなったのかも。

もう一つは、「自分は賢人側」と考える人の支持。「俺は愚民とは違う」と考えることで自分を慰めたい人が、哲人国家、賢人国家に賛成することで、賢人側に回りたい、という欲望をかきたてているのかも。たぶん富裕層からはその人たちも「愚民どもめ」とみなされているにも関わらず。

つまり、現在増えている「哲人国家」ファンは、カネという権力を握った富裕層が自分を賢人、哲人とみなしたいという欲求、あるいは富裕層でないんだけど自分を賢人とみなすことで一発逆転の発想を持とうとする欲求を持っている人たちなのではないか、と思う。まあ、幼児的。

しかし、「哲人国家」は、やはり崩壊する宿命にあるように思う。ジャレド・ダイヤモンド「文明崩壊」では、人口が一定数以下になると、知識や技術を維持することができなくなり、新石器時代にまで技術が退化することがある、と指摘している。私は、哲人国家もその運命をたどるように思う。

たとえばプロ野球選手が「有力な新人が生まれたら自分たちの地位が危うい」と考え、高校野球や社会人野球を破壊しようと企んだらどうなるだろう?プロ野球を目指す人間がいなくなる代わり、ファンもいなくなり、プロ野球を目指す人もいなくなって、プロ野球という制度は成り立たなくなるだろう。

プロ野球という職業が成り立つのは、高校野球や社会人野球だけでなく、草野球や少年野球などの「すそ野の広さ」があるから、プロ野球という頂点が高くそびえ、憧れの存在でいられるのだろう。そうしたすそ野が失われれば、プロ野球も存在し得なくなる。

哲人国家もそうした面があるように思う。もし自分たちだけを哲人、賢人と捉えると、やがて、「愚民」とみなしてきた庶民から「賢人」として這い上がってくる人間を煙たがり、嫌うようになるだろう。すると、賢人だった人たちも次第に愚かな子弟の世代に代わり、アホボンばかりになっていく。

結果、自分たちの利益のことしか考えない人間ばかりが為政者となり、愚民とバカにしてきた庶民の手によって駆逐されることになる。哲人国家、賢人国家は、無言のうちに「自分以外はバカ」とみなすシステムであるために、こうした宿命をたどることになるように思う。


・・・・・・・・中略・・・・・・・

国家というのは、常に政治の中心に「民意」への配慮を欠かさないようにすることが、秘訣なのだと思う。なのに、「哲人国家」は、庶民を視野の外に置く。アウト・オブ・視野。哲人国家が機能しえないのは、人類が経験してきたあらゆる政体と比べても民意を無視しがちだからなのかもしれない。

なお、プラトンの提唱した哲人国家思想がナチスを生んだ、と私は考えている。「賢い人間が運営する国家は素晴らしく機能する」という発想が、ヒットラーを賢人とみなし、ナチズムを哲人国家として捉えることを成立させたのだろう。そしてナチスは、国民を愚民とみなす代わりに、「身代わり」を選んだ。

それがユダヤ人だったのだろう。ナチスはユダヤ人を徹底して愚民としてみなすことで、同じ人間としてみなすことを放棄し、「虐殺しても構わない存在」と心理的な処理をしてしまった。これがユダヤ人大虐殺につながったのだと思う。

哲人国家の恐ろしいのは、かなり高い確率で誰かを愚民とみなし、人とみなさなくなり、その人たちが命を失ってもなんとも思わない組織になってしまうことではないか。でもそんなことをしたら、必ず深く恨まれ、それが国家転覆の原因を生むことになるだろう

・・・・・・・・中略・・・・・・

スパルタは少数の貴族によって支配されていた。貴族は子どもの頃から厳しく育てられ、軍人として、将軍として鍛えられた。プラトンはここから着想を得て、哲人国家を構想したようだ。
ところで、哲人国家のモデルとなったスパルタはその後、どのような経緯をたどったのだろうか?

スパルタは一時、古代ギリシャの支配者になるほどの隆盛を見せた。ところが、少数の貴族による支配にこだわったために、支配しきれなくなった。スパルタの強さの理由だった、貴族で構成された軍隊統制システムも、維持できなくなった。自分たちだけを賢人とみなすシステムが機能しなくなった。


・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
抜粋終わり

本当に賢明なら「自分は偉い・お前らはあほ」ってならないけどな・・


三国志 董和伝  より 諸葛亮の訓示

「そもそも職務に携わる者は、人々の意見を求めて参考にし、主君の利益を上げるように。もしもわずかな不満によって人を遠ざけ、自分と意見の違う者を非難して検討しなおすことをいとうなら、仕事に欠陥を生じ損失を招くであろう。異なる意見を検討し直して適切な施策ができれば、ちょうど破れ草履を捨てて珠玉を手に入れるようなものである。

とはいえ、人間は残念ながらそうすべててのことに気を配れないものだ。ただ徐庶だけは、こうしたことに対処して迷わず、董和は職務にたずさわること7年、仕事上で不十分な点があれば、何度も考え直し、相談にやってきた。仮にも徐庶の十分の一の謙虚さと、董和の繰り返し検討する態度に心をよせて、国家に忠誠を尽くすことができるのならば、私も過失を少なくすることができるであろうに。」

「昔は、はじめ崔州平とつきあい、しばしば欠点を指摘され、後に徐元直{庶}と付き合い、何度も教示を受けた。先に董幼宰{和}といっしょに仕事をしたが、いつも言いたいことを遠慮なくいってくれたし、後に胡偉度と仕事に携わったが、たびたび諫言してまちがいをとめてくれた。私の性質は暗愚であり、すべてを受け入れることはできなかったけれど、しかしながらこの4人とは終始気が合った。これも彼らの直言をためらわない態度を証明するのにたるものである」

越石父は答えて
「臣はこう聞いています。士は己を知らざる人には屈辱も忍ぶが、己を知る人には志を伸ばすと。ゆえに君子は自らの功を誇って人を軽視せず、人に恩恵を受けたとて、 我が身の正道をまげません。わたしは3年人のしもべとなりましたが、己を知られませんでした。 いまあなたは私をあがない、わたしはあなたをして吾を知る人としました。さきにあなたは馬に乗って私に挨拶をしませんでした。わたしはあなたはわたしを忘れたのだと思いました。 今また挨拶をしないで入りました。これでは私はしもべと同じです。私がしもべであるなら、私を売って馬の代価としようとなさるのです」
と言った。

晏子はやって来て見えんことを請うて
「前はあなたの容儀を見、いまあなたの意見を知りました。
嬰はこう聞いています。我が行いを反省する者は、過失をすぐ改める、
人の実情を観察する者は、その人の言葉をはかって絶つことはしないと。
嬰のことばは間違っておりました。嬰はすぐに改めましょう」
と言い、けがれを除いて水で清めて席を改め、酒を汲み、これに礼をもってした。

越石父は
「わたしはこう聞いています。至恭の礼に対しては、途を避け、尊礼に大しては擯(礼式を助ける人)を避けると。あなたは礼をもってなさりました。私はこれを辞退します」
と言った。 晏子は彼を上客としてもてなした。

君子は
「俗人は功があったときはこれを徳として誇る。徳として誇れば奢ることになる。晏子は功あって人の危難を助け、またこれにへりくだった。俗人とはへだたりすぐれている。 これは功を全うする道である」
と言った。


国君は、神の祀り手であり、民の仰ぎ望む者です。もしも民の生活を困め、祭祀をなおざりにすれば、人々の望みは断たれ、社稷の神は祀り手を失います。こんな{国君}は無用ですから、追い払われるのが当然です。天が民を生じその国君を立てたのは、民を統治して本性を失わせぬためです。国君がいてそれに補佐を設けたのは、国君を教導して度を過させぬためです。そこで天子{の輔佐}には公が、諸侯には卿があり、卿には分家が、大夫には弐宗{次子の家}があり、士には朋友が、庶人・工・商・雑用係・牧人にもみな親近するものがいて、それぞれを輔佐し、善行があれば褒め、過失があれば正し、災難があれば救助し、失敗があれば革めさせるのです。周王より以下には、それぞれ父兄子弟がいて、政治の得失を指摘し欠陥を補います。史官は記録を作り、盲目の楽師は詩を作り、楽工は箴言を誦します。大夫は意見を述べ、士は意見を伝え、庶人は誹謗し、行商人は市場で{議論し}各種工匠は技芸を献じます。
・・・・中略・・・・・・
正月孟春という時期にこれが行われるのは、常規からの逸脱を諫めるためです。深く民を愛おしまれる天のことゆえに、一人{の君}だけを民の上にのさばらせて放恣を許し、{民を蔽い包容する}天地の本性を自ら棄て去るはずはありません。きっとそんなことはなさまいと存じます。

君子が、幼弱 卑賎 を虐待しないのは、天を畏敬するからである。
 天の威光を畏みつつ
 ここに福をば保ちゆく {詩経 周頌 我将}
とあるように、天を畏敬しなければ なにごとも保つことができぬのだ。 


「知識を持っても、傲慢。謙虚でない」のなら、なにが知識人なのか、わかりません。





西洋の指導者たちが、自分たちが慣れ親しんだ優越感、つまり、自分達が最も賢く、最も美しく、最も発展し、最も裕福であるという感覚を放棄するのは難しい。欧米のエリートたちは「古い栄光の現状」を守るために自らを整えており、それが結局は経済的、政治的な閉塞につながるだろう。

つまるところ「古い栄光の現状」にしがみついているだけなのが「エリート・リベラルエリートも例外なく」ってこと。


そのリベラルエリートが、腐っていく一因は・・・・。

上記文抜粋
・・・・・・・・

人間を「創造した」一神教のGodにとって、人間はモノみたいなもの? | 信じることで、守ってもらう
11月21日 

COURRIER JAPON

日本人が指す「神様」と「God」は違うようだ。もし人間を「創造した」のがGodなら、Godにとって人間は、モノみたいなものと言えるのかもしれない。

その起源であるユダヤ教に触れながら、社会学者の大澤真幸と橋爪大三郎が、対話形式でキリスト教を紐解く。

怖い「God」と付き合うのは、身の安全のため

──橋爪 「創造する」って、どういうことか。わかりやすいのは、モノです。モノは、つくることができて、壊すこともできる。所有したり処分したり、好きにできる。モノは、つくったひとのもの。つくったひとの所有物なんです。

Godが人間を「創造した」のなら、Godにとって人間は、モノみたいなもの。所有物なんです。つくったGodは「主人」で、つくられた人間は「奴隷」です。

人間を支配する主人が、一神教の「God」なんですね。(日本語で「神」というと、どうしてもなれなれしいニュアンスがまぎれ込んでしまうので、以下、一神教の神をさすことをはっきりさせたい場合には、なるべく「God」ということにします。)

Godは、人間と、血のつながりがない。全知全能で絶対的な存在。これって、エイリアンみたいだと思う。だって、知能が高くて、腕力が強くて、何を考えているかわからなくて、怒りっぽくて、地球外生命体だから。Godは地球もつくったぐらいだから、地球外生命体でしょ?

結論は、Godは怖い、です。怒られて、滅ぼされてしまっても当然なんです。

──大澤 橋爪さんらしい明快で、ユーモアのあふれる説明ですね。

お聞きしながら、昔、丸山眞男が書いていたことを思い出しました。丸山は、宇宙の起源を説明する論理は三つある、と述べています。一方の極に、神が宇宙を創造する、という論理がある。旧約聖書は、このヴァージョンです。他方の極には、宇宙は植物のように生成する、という論理がある。

丸山は、古事記等の神話から、日本はこのヴァージョンに入ると言っている。日本の神の名前についている「ムスヒ」の「ムス」は、「苔ムス」の「ムス」で、自然と生えてくるという意味ですね。この両極の中間に、神が宇宙を産む、出産するという説明がある。この丸山の類型でも、日本とユダヤ・キリスト教は反対の極にあります。

ともあれ、宇宙と人間を「創造した」Godが、人間にとってはエイリアン、地球外生命体のようなものであるなら、そんな怖いGodといかに付き合うかが一神教の重大なテーマになりますね?

──橋爪 はい。順番に考えていきましょう。一番目に、Godは何を考えているか。これは、大事な点だが、預言者に教えてもらいます。

二番目に、Godが考えているとおりに行動する。そうやって、身の安全をはかる。

Godを信じるのは、安全保障のためなんです。Godが素晴らしいことを言っているから信じるんじゃなくて、自分たちの安全のために信じる。Godが考えているとおりに行動するには、預言者の言葉が手がかりになる。それが、Godとの「契約」になります。

この「契約」の考え方は、わかりにくい。ま、「条約」だと思ってください。ユダヤ民族が、Godと「契約」を結ぶのは、Godに守ってくださいと頼むことなんだけど、これは日米安保条約の感覚に近い。安保条約は日本がアメリカに、「守ってください」と条約を結んでいるでしょう? 同じなんです。

だから、Godと付き合うには、なれなれしくしたらダメなんですね。まかり間違っても、Godと対等だなんて思ってはいけない。いつもへりくだって、礼儀正しくする。自分はGodにつくられた価値のない存在です、としおらしくしているのが正しい。これが、Godと人間の関係の、基本の基本です。

でもこれでは、いかにもよそよそしい。そのよそよそしい関係を打ち砕こうと、イエス・キリストは「愛」をのべて、大転換が起こるんです。それまでは、こういう厳しくてよそよそしい関係が、基本だったと理解しておかなければならない。

11月21日 COURRIER JAPON 2013年06月26日 | 宗教 「ふしぎなキリスト教」不思議な橋爪大三郎


・・・・・中略・・・・・


【名言】中国外務省スポークスマン趙立堅:米国の敵になるのは危険だが、友人になったら破滅だ

NATO加盟国トルコは欧州諸国最大の兵力を有するアメリカに次ぐ№2の国家だが「同盟国だから大事にされる」と思っているのは今の徹底的にお人好しの日本人だけ。主君の織田信長を殺した明智光秀とか豊臣家を滅ぼした徳川家康のように、天下を取ったアメリカにとって一番の脅威とはナンバー2国家。アメリカは20世紀にWW1とWW2と二回連続でドイツを叩き、WW2の同盟国だったソ連を完全に破壊し、冷戦崩壊後に経済だけは№2だった日本は現在ボロボロになっている(★注、政権を取る前の鳩山由紀夫は日本を動かしているのは首相だと思っていたが、首相になってみると日本政府の上に「日米委員会」が存在することに気が付いたという)

「神との契約」とは日米安保と同じ

全知全能で絶対的な存在のGod(アメリカ)は知能が高くて、腕力が強くて、何を考えているかわからない、怒りっぽい、地球外(日本外の)生命体のエイリアンなのだ。

辻褄が合わない不気味で奇妙なケネディ大統領暗殺の「公開処刑」もアメリカの場合はGodはエイリアンなので怖い、怒らせれば、滅ぼされても当然だったのである。Gobを理解しようなどと考える方が間違っていた。

79年前に日本を徹底的に破壊したGod(アメリカ)は地球外(日本外)知的生命体であり、地球(日本の民主主義)も作ったが、そもそも人間(日本人)と血のつながりがない。日本を再び破壊しても何も心が痛まないのである。


・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
抜粋終わり


まともでもなかったのが「西洋近代文明」だったのだよ。

論理形式も


 しかしこの無類に強力な欧米的合理主義にはおのずからなる限界があり、欠陥がある。十字軍を始めとして、苛烈な宗教裁判、新教と旧教との間の妥協なき宗教戦争等々、合理的な西洋の世界には再三再四発現した不合理極まりない闘争のくりかえしは何と説明してよいのであろうか。そうした好戦的傾向は二十世紀にまで続き、ついに第一次、第二次の世界大戦を惹き起こしたのであるが、それは対日戦を別にすれば、欧米の仲間喧嘩であり、その合理主義が内蔵する自己矛盾の必然的な帰結と言わねばなるまい。

それならば、欧米的合理主義のなかに内在する不合理は何に由来するのか。その合理主義は元来矛盾を徹底的に排除して無矛盾性を維持することである。それが、矛盾を排除するが故に矛盾に陥って自滅しかねない状態になるのは何故であるか。欧米的合理主義は何か根本的な欠陥を内に抱いているにちがいない。さもなければ、矛盾を排除して却って矛盾に陥るはずがない。その根本的な欠陥とは何か。それは欧米の合理主義が自我中心的合理主義である、という点にあると考えられる。その合理性は自我を中心とした無矛盾性のことであり、自我に背を向けるものは徹底的に排除するのである。デカルトは神の存在を証明するのに「我思う」から出発し、カントは科学の妥当性を保証するのに「我思う」を証人に立てたが、このように欧米の合理主義は自我を基準として、これに矛盾するものを除き、これに矛盾しないものを保存するという思考法である。一見矛盾を許すかに見えるヘーゲルの弁証法も、「絶対精神」と名づけられる自我が自己に矛盾するものを排除しながら自己を展開していく体系であって、自我中心的合理主義の一典型である。かかる自我中心的合理主義を要約して言えば、「自我に敵対するものを合理的に倒すこと」という一文に尽きるであろう。この原理を忠実に守れば、暴力革命も是認され、民族鏖殺も正当化されるであろう。ここに欧米的合理主義の病巣がある


 パルメニデスの言葉と共に、存在論は西欧の権力に特有の暴力行使の在り方と一体になった教説として出現する。存在は到るところに在り、一切の存在者に対し容赦なく己れの支配を貫徹し、己れの存在に対して、いかなる弁明も知らない。「何ゆえに存在があって、無があるのではないのか?」 ― 存在するとは、一つの根源的な暴力に引き渡されてあることなのだ。だからパルメニデスが「在るものは在る」と断言するとき、「存在」とは語りの主体たる彼と彼の言辞(レーマ)を聴取する他者を共に同時にさし貫くような、普遍的な暴力の開示である。言い換えれば彼は見た目は対象としての「存在」について語りながら、その実は、自らの存在を根拠となしつつ、己れが独占する可知性へと他者を還元するような言説の主人に自分を仕立てあげている。これは他者と世界を〈客体〉に引き下げながら自らは絶えず無へと遁走する、〈主体〉の神話の原型にほかならない。

2)「西欧合理主義」とは、自我中心の合理主義であり、その合理性は自我を中心とした無矛盾性のことであり、自我に背を向けるものは徹底的に排除するものである

3)言い換えると、「自我に敵対するものを合理的に倒すこと」であるから、暴力革命も是認されるし、民族鏖殺も正当化される。現代のグローバリゼーション下でも、核武装している大国が「ジャイアン」であり、非核武装の中小国が「のび太」だから、現代国際社会も、事実上、中世の自力救済の世界とあまり変わり映えしない、といわねばならない。

あの偉大なるカント先生(Immanuel Kant)も、大学で人類学なるものを、黒人は生まれながらに「理性」が不足しているので、白人が使役したり、奴隷として役に立たせるのは、むしろ彼等のためであり理に適っている、という具合に講義していました。

そういう偉大なる西欧の知性が「人間」や「人間性」について語るとき、非西欧人は眉に唾したうえで、拝聴したほうが良いだろう、ということですね。

ましてや、西欧人の思考パターンは、自分が真(でなければいけないの)だから相手が偽、自分が善(でなければいけないの)だから相手が悪、自分が正しい(でなければいけない)のだから相手が間違っている。だから、敵は、悪かつ偽かつ誤、なので、殲滅して当然で、殲滅すべき、となりがちなわけですね。

イラク戦争の際、ブッシュ政権はイラクを、核爆弾を作ろうとする「悪の権化」だから殲滅するといって、米兵を使って民間人を10万人以上殺戮しました。しかし、戦後の調査で核開発の証拠は発見されませんでした。米軍のやらかした虐殺は、真かつ善かつ正(のはずなので)、ジョージ・ブッシュはジェノサイドの首謀者、ではないのです。西側で、ブッシュを人権犯罪の極悪人だから裁けと論陣を張るメディアは当時も今も、皆無です。「ハーバードの超一流講義」などのfakeに浮かれている(一部)日本人には、ハーバードで「ブッシュをジェノサイド犯罪で訴追しろ」叫ぼうものなら、即座に追放されるであろう、ことを知らない愚か者が多すぎます。

戦後日本人は、頭の中身も米軍に「占領」され、21世紀になっても、あまり代わり映えしない、のは、メディアもアカデミズムも「同じ穴の狢」です。


その「西洋リベラル思想」自体が「自我中心合理主義」と欠陥品でできていて、その上に「通俗道徳」で「できない人を馬鹿にする・切り捨てる」となると、もうご臨終のただのバカなのです。


論語で孔子が
「周公のような才能があっても、傲慢でかつケチなら、評価に値しない」
諸葛亮兵書でも、それが引用されている。

まあそのような「評価に値しない」奴らが、官僚だの政治家だの学者や教育者やセレブとかいう糞見たいな社会だから、当然に衰亡しているのです。




いいなと思ったら応援しよう!