「キラのエッチ」と「易経」と「自由」と。。


SEED FREEDOM特別版のその後は?新規エピローグカットを解説考察(ネタバレあり):SEED FREEDOM解説・考察


やっぱり円盤買うなり、特別編を見に行かないといけないかな・・・・・・・ガンダムシードフリーダム


この特別版のエピローグで、キラとラクスの喋りがみられる。そこで「アコード」という特殊能力とそれを発現したラクス自身のことが話題になる。


【対象の精神波動を探る→対象の精神に触れると碇を打ち込むようにリンクを確立→「闇に堕ちろ」→奥底にあるどす黒い感情を励起させる】

劇中でこの精神干渉を行ったのはグリフィンとラクス。「ラクスがアコードの力でキラに戦艦を見せた時、グリフィンが『闇に落ちろ』と言ったのと同じことをしているんです。精神を共有して、ラクスの思考がキラのビジョンに落とし込まれている。だからキラの目が一瞬、ラクスの目と同じ色になっているんです。わかりにくいですけど(笑)」とアニメージュ4月号で監督は説明している。

動画の中で
「心の中を読む能力」
も、アコード能力に含まれている。


動画主も指摘しているがラクス自身は

「意思の中から精錬された・出てきた・出す意思をもった「言葉」を大事にしたい」

てことわかる。

意思と、そこから発する「言葉」には、その「意識から発する」という意志が介在してそれがより強い「意思」で重要である・・ていう見解に、現時点は、ラクスは持っている・・と推測される。


なぜにラクスはそう至ったのか・・・それは一つは、作品中にでてくるアコード能力の持ち主よりも、その発現が遅く、通常の凡人の「意識~言語&行動」と同じ様式であったのが長くそれで成長したことがある。
もう一つは、彼女自身と特に父の影響で強く持った「自由主義的志向」で、「個々人の自由を尊重する」のも関わっているだろう。

「意思」の時点で、その人の在り様・行為を指摘する・時に賞罰を受けるとなると、それは極めて「自由」が減退する。

銀英伝でヤンが「奴隷でも精神の自由はあった」と怒っているが、「意識を見れる・みられる」てのは、その「精神の自由」され奪われかねないのである。

その辺のことの考慮して、作品中でアコード能力者のイングリットで女性が「閉心術」というの編み出し、自分の心を見せないようにしていたのもある。

易経に

「書は、言を尽くさず。言は、意を尽くさず。」


それでも言葉にしなければならないので「微妙な言葉」や「比喩」を使って、聖人・賢者は、経書を書いた・・・てのが儒学の主張である。

で、その「微妙な言葉」や「比喩」がなければ、その意思・意図は伝わらない。むろんその「言葉」に発しようとする意志も、言葉にしなければ、伝わらないのである。

ラクスは、その「言葉に発する意思」含めて大事なものとした。。あるいは「意思の中からチョイスして言葉・行動にする」て自由を大事にし、その「意思」と言葉・行動の総体を、その人のより重い「意思」とした・・てことなのかもしれない。


心理学・精神医療ってのが西洋世界で生まれたのは「近代以降」である。それは「神学」が学問の最高位を追われることで生まれたが、それがフロイトの近代心理学の発生と完成がされるのが「リベラルデモクラシー」が発生して、ある程度西欧社会で伝播することで、ようやく生まれたと思える。

まあ仏教で、唯識思想って心理学が生まれる1000年後の話だ。

神学が長く支配したのは、、、その一因は私は「存在論」の為だと思っている。


パルメニデスの言葉と共に、存在論は西欧の権力に特有の暴力行使の在り方と一体になった教説として出現する。存在は到るところに在り、一切の存在者に対し容赦なく己れの支配を貫徹し、己れの存在に対して、いかなる弁明も知らない。「何ゆえに存在があって、無があるのではないのか?」 ― 存在するとは、一つの根源的な暴力に引き渡されてあることなのだ。だからパルメニデスが「在るものは在る」と断言するとき、「存在」とは語りの主体たる彼と彼の言辞(レーマ)を聴取する他者を共に同時にさし貫くような、普遍的な暴力の開示である。言い換えれば彼は見た目は対象としての「存在」について語りながら、その実は、自らの存在を根拠となしつつ、己れが独占する可知性へと他者を還元するような言説の主人に自分を仕立てあげている。これは他者と世界を〈客体〉に引き下げながら自らは絶えず無へと遁走する、〈主体〉の神話の原型にほかならない。

これは容易に

別の例で言いますと、フーコーは、一定の人間集団において、正常者(or理性、A)と異常者(or狂気、not A)を区別する法廷の裁判官が、どの審級においても正常者(or理性、A)であること見抜き、これを「権力」現象である、と喝破しました。

「理性」と「狂気」を区別するのは、常に「理性」側という訳です。従いまして、欧米人は、たいてい当面の敵を「狂っている」とか「狂人」と罵ります。

心の中の「言葉の前の葛藤」など、「存在論」でとやかく言いにくい。

そういう「生煮え」や「成熟過程」のことを、論じたりするのがひどくやりにくいのである。

「思った」だけで「狂人」てされかねないからね・・・


仏教でも「心の中の悪を除け」っていう。だけど「唯識」とかでは「無意識の悪を、意識で選別し拒否する自由の可能性」を指摘し、それ為す勇気と言動を善とする。
悪であっても、それは訂正可能で、その末を変える自由があるのだ。

儒学では、王陽明が「心の中で思っても、それを悪として判断して拒否する行為」も努力と称し評価している。まあ「そう思わんようになる努力もしないと、疲れ果てるよ」とは言っているけど。


これはどうも「存在論」がある西欧文明とそれ以外の文明や社会の大きな違いかもしれない。

「存在論」が大きくて「神・神学」が巨大で、ようやく1800年代後半から心理学・精神医学をやり始めれた西洋近代文明と、

「存在論」など最初から話にしない、他の文明が、形が違うがなんだかの「心理学」を持っていたのと違いもある。

同時に「自由」「自由思想」ってので、ようやく「人の心」を問題にできた「西洋近代文明」ってことと、ある程度の「心の自由」が「存在論の不在」で最初からあったほかの文明の差・・とも思えます。


そんなこんだで見てみると「西洋近代文明の申し子」のエリートのギルバート・デュランダルが、反対勢力の皆殺しを平然とできるのも、

アコード能力を早くから発現させたファンデーション王国の「アコード」たちが、比較的容易にほかの人間を殺せて、簡単に「全人類に宣戦布告」をできるのも

「ディステニープランに反するものは、ゴミ」ってできるのも、「存在論」ってのが、彼らのパーソナリティ―だけでなく、それも大きな要因としてあるのではないのか。

似たようなモノが、「民主主義・人権」を歌った「リベラル思想」が、今では「リベラル全体主義:リベラルファシズム」になって、集団的西側を支配しているのもそれかもしれない。


結局、このまま「西洋近代文明の文脈・論理で、民主主義・人権」を続けると、ディステニープランかファシズム全体主義になるしかない・・て結論できる。

そもそも「存在の揺らぎ」~「認識する人間の正誤を加味しない」ことの「自己中心の合理性」を「絶対・墨守」なら、当然その思惑から外れる「現実」「他者」は、排斥か破壊しか残らないようになるからである。


19世紀中葉の西欧人たちは、アジア・アフリカの珍しい少数民族を檻に入れて「展示」するということを平気で行いました。その「人間」の定義は西欧人のでっち上げでした。
あの偉大なるカント先生(Immanuel Kant)も、大学で人類学なるものを、黒人は生まれながらに「理性」が不足しているので、白人が使役したり、奴隷として役に立たせるのは、むしろ彼等のためであり理に適っている、という具合に講義していました。
そういう偉大なる西欧の知性が「人間」や「人間性」について語るとき、非西欧人は眉に唾したうえで、拝聴したほうが良いだろう、ということですね。

てなことでね。

ちょうどガンダムシードシリーズで、アコードたちや、宇宙在住のコーディネイターが、ナチュラルたちを「欠陥品」と定義し罵倒したり使い捨てもできるようになっているのと同じだよね。

てまあコーディネイターとかアコードてやつが「西洋近代文明」ってかなり癖と欠陥のある文明・思想の産物ってのがよくわかりますは。


で、話の掴みのラクスの件だが、彼女は、他のファンデーション王国のアコードたちよりも、その能力の発現が遅かった~その能力を使う・扱うための精神や知的な成長・教育・知見があり、それを使いこなすために学識や経験も積めるし、話の流れではそれのための時間も与えられるようになっているようだ。

それから考えると「他者からねたまれたり利用するために拉致される」とか無い限りに、大過ないだろう。


まあ、これまでの話の根幹を少しぶっ壊すことになるが、禅仏教なら「そんなものは、狐狸の化け物に過ぎない」って一刀両断で否定し

「まともな知見・識見を得るのが一番。とっと修行しやがれ小娘が!」

とラクスに一喝しているだろうね。関係性も有るけど、ラクスは喜びながら座禅を始めるかもしれない・・

ちなみに、この程度の「超能力」って禅宗の坊さんや武術の達人とかで、散見される「能力」なんだけど、彼ら・その人たちには、その能力は「論じるほどのものでない」とされている。
明恵にもそんなエピソードがあったしね。

こんな闇夜に、しかも遠く隔たった所の物さえ見ることができるのだから、まして我らが陰で良くない振舞いをするのを、どんなにか怪しからんとご覧になっていることだろうと、弟子衆や同宿の者も、後ろ姿までも恥じ恐れて、真っ暗な部屋の中でさえも、気ままには振舞わなかった。
こんな事があったので、侍者の僧が「上人は仏菩薩の化身だと、陰で人々は申しております」と申し上げたところ、上人ははらはらと涙を落して、次のようにおっしゃった。
「ああ、愚か者どもの言い草だ。だから、わたしのように禅定を好み、仏の教えの通り修行してみなさい。いますぐ、お前たちにもそのような事があるだろうよ。わたしはそのようになろうなどとは全く思ってはいないけれども、教えの通りに修行して長年になるので、知らぬ間に自然と身についたのだ。これは大したことではない。お前たちが水が欲しければ水を汲んで飲み、火に当たりたければ火のそばへ寄るのと同じことだ」
「大神通」を体得した人にとって、「小神通」など造作もないことだということがわかる。


まあ、武術家なら「まともに修行したら、心が清明になって、そんなこともあるはな」だし。最近では、山岡鉄舟山田次郎吉とかそういう逸話がある。


禅家なら「そんな戯言妄想するよりも、まず平穏無事でおれ」っただろう。ほか仏教でも「たいそうなモノですはな」って話の種になっても、真剣に話にならない。「まともな知見」「心の安心」に大して関わらんものだからね。。。密教系なら「祈祷」とかに有益だけど、それだけの話。



そんな感じで

「キラのエッチ」  てことで、論旨が生煮えのこの無駄話を終わります。



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