仮説 新庄剛志 = 光武帝 て妄想。
監督~ビックボスになるそうです。
で、
「監督と呼ばないで」てのも面白いし。
もっているし。
あえて、光武帝・劉秀に似ていると、してみよう。
1・イケメン 新庄はそれ。劉秀は、「親衛隊長か警視総監になりたい」と言ってた。
これは、劉秀の若い頃の言葉だが、執金吾とは首都の警察長官のことである。武人の憧れの職業といってもよいだろう。
2・武勇・身体能力に優れている。
新庄は、当然だよね。先年のトライアウトをみたら、凄いよね。
劉秀は・・・
驚くべき行為だが、より驚くべきは馬武の反応である。劉秀がこちらの部下になって突騎を率いて欲しいと誘いをかけたのに、馬武は「私はのろまで臆病者で兵法も知りません」と、まるでおびえていたような反応なのである。後に劉秀の部下になってから宴会の席で「私は武勇抜群ですから盗賊を取り締まる役人として活躍するでしょう」と広言したのとあまりに違うのがわかる。
当時、馬武も劉秀も更始帝の将軍として同僚であり、経歴を考えると年齢は馬武がやや上である。ここまで謙遜する理由はないのだ。しかも馬武は率直かつ単純な性格で、頭に浮かんだことを何の遠慮もなく口にする男であり、その生涯で何度も事件を起こした。するとこの馬武の発言は謙遜でなく、文字通り劉秀に一対一で呼び出されたことに恐怖したと考えねばならない。馬武はかつて昆陽の戦いを劉秀とともに戦い、劉秀の戦闘能力を知り尽くしていた。劉秀は馬武が恐怖するほど強かったのである。
劉秀陣営の関羽、張飛というと、賈復、馬武の二人である。この二人が常に先鋒となり、敵を打ち破ったのである。賈復は自らを一番と考え、何事においても人に譲らず、出しゃばって自慢をする男であった。ところがこの賈復も劉秀の前ではおとなしくなり、劉秀の前では一度として自分の功績を誇ったことがなかったのである。賈復は劉秀の親衛隊長のような存在で、戦場ではいつも劉秀の側で戦っていた。賈復もまた劉秀の戦闘能力を知り尽くしていた。
最強の関羽、張飛級の二人ですら、劉秀には敵わなかったのかもしれない。
劉秀は歩兵と騎兵のわずか千人あまりを率いて最前線に陣をひいた。
王邑、王尋らはこの少数の兵力を見て苦笑したであろう。百万の大軍の前に千人の軍など何の意味があろうか。数倍あれば充分と、数千の兵士を派遣して迎え撃たせた。
大軍が後ろにいて慢心している王莽軍の数千の兵はのんびりと進んできた。劉秀はそれを見ると自ら先頭に立ちこれを急襲した。次々と敵を斬り、斬首すること数十、あっという間に敵を敗走させたのである。
劉秀の後衛にいた将軍たちは驚愕した。あのおとなしく弱そうな劉秀がこれほどの戦士であろうとは誰も考えなかったのだ。
「劉将軍はいつも小さな敵ですらおびえていたのに、いま大敵を見て勇気にあふれている。何とも奇怪なことだ……おおっ、また進撃したぞ。皆よ、将軍をお助けしようぞ!」
劉秀はまた突撃して次々と敵を蹴散らしていく。王莽軍の兵は雪崩をうって退却し、劉秀の後ろから将軍たちがこれに乗じて進撃、斬首すること数百、さらに千を越える戦果を挙げた。
戦力差ギネス記録の勝利・昆陽の戦い
運命の日は更始元年六月己卯(西暦23年7月7日)。
劉秀は、意気挙がる兵士からさらに選りすぐりの精鋭を三千人選びだした。そして、敵に気づかれぬようにこっそりと迂回し、城の西の川を越えて、今までと異なる方向から急襲した。
王莽軍はこの奇襲に大混乱となった。劉秀は凄まじい勢いで一気に王莽軍の中央部まで突入し、ついには大将の一人、新朝の大臣である大司徒王尋の首級を挙げてしまったのである。
この一大事に昆陽城内も気がつき、王常、王鳳らも出撃して攻勢をかけた。王莽軍は前後に挟み撃ちとなったのだ。
このとき天気にも異変が起こり、雷雨と暴風が吹き荒れ、川が大きく氾濫した。この異常気象は大軍の指揮系統を完全に麻痺させ、王莽軍は混乱を立て直すこともできず雪崩のように敗走したのである。さらに連れてきた猛獣が逃げ出して暴れ、兵士は先を争って逃げ出し、氾濫した河川へと飛び込み、次々と溺死していく。王邑、荘尤、陳茂ら残った将軍たちは、死体で埋め立てられた川の上を騎馬で駆け抜けて、辛うじて脱出したのであった。
王莽軍の死者は数万に及び、輜重部隊の食料や財宝は数えきれず、その後、数ヶ月に渡って回収しても終わらず、残りは焼却したのであった。
劉秀はなぜ勝利できたのか。最大の要因は劉秀が現地の地理天候に詳しかったことだ。劉秀は地元南陽の人間であり、農民として自ら働いたから天候をよく知っていたし、商人として旅をすることも多かったから地理に詳しかったのである。
少なくとも関羽・張飛のレジェンドクラスの武勇・身体能力。
3・楽しいことがすき。
新庄さんの先日の会見。これも見てもよくわかるよね。
で、劉秀は・・・・死ぬほどダジャレが好き。名言とスベリを歴史に残している。
人とともに楽しめばその楽しみは長く続くが、自分一人で楽しむのは長く続かず無くなるものだ(楽人者其楽長,楽身者不久而亡。)
劉秀は天性の世話好きであり、お節介な人間である。酒も飲めないのに宴会好きなのも、他人が喜ぶ姿を見るのが楽しいのである。自分自身で楽しむよりも、他人と楽しむのがよいというのは心からの実感であった。
家庭でも、家計を破綻させそうな兄の劉縯のため農業に努めて稼いだし、税金の減免交渉に出たり、姉の結婚相手を探すのに協力したりと、ここでも他人の世話ばかりである。長安での学生時代も同級生のために解説してあげたり、郷里から上京してきた人に情報を与えたりしていた。いい人づくしである。
侠客とつき合いがあり裏社会に通じているという裏の面があると思ったら、そこで行ったことも逃亡者を匿って逃がしてあげることだった。どこまでも困っている人を助けるのが何よりも好きな性格なのだ。
河北へ脱出したとき、自らのことを考えれば河北の有力者と連携し独立の準備をすべきなのに、そうせずに、王莽の新法で法律にかかって困っている人々を救済する作業を始めた。
王郎との戦いが終わったとき、敵に内通した者の内心を思いやって許してやり、銅馬軍との戦いの後は自分の命をかけて不安におびえる銅馬軍を安心させた。皇帝に即位すると兵士たちの家族との再会の願いを叶えるため奴婢の解放令を出した。隠者を招聘しても相手が拒絶すれば強要せずに、相手の志に従った。
皇帝になっても相手の気持ちを考えて喜ばせるという劉秀の行動原理は変わらなかった。
死に際しての遺言が「朕は百姓に益するところなし」という衝撃的な言葉で始まるのも、自分が他人に何ができるかということを常に念頭に置いていたことを示している。最後の瞬間まで他人に対して何をできるかを考えていたのだ。劉秀の言葉や行動には、常に相手の視点から見て考え、相手の望みをかなえるという思想がこもっている。そしてそれを自分の喜びとして取り込んでいくのが劉秀なのである。
この劉秀の性格をかつて馬援は、人にしてあげられることがあればすべてしてあげようとする人だ(極盡下恩)と評したほどである。
ただ人の望みをかなえることばかり考えて、人に与え続ける生涯を生きた劉秀は、逆説的にも世界のすべてが自分のものになってしまう。それも文字通りの世界帝国の支配者としての物質的なものだけでなく精神的なもの――国民からの厚い信頼、美しい妻と愛する家族、生涯変わらぬ戦場の戦士たちとの友情……。
しかしもちろん劉秀にとって何が本当に欲しかったものなのかは明白だ。
無数の押しつけられるように得たものの中で、ただ一つ、公言して自ら望んで得たもの。
ところがこのただ一つの願望を実現するには、信じられないほど大きなことを成し遂げなければならなかった。離ればなれになった陰麗華と再会するためには、皇帝になって郷里に帰る以外に道はなかったのだ。
陰麗華との息子である明帝劉陽は、母親思いでしばしば両親の夢を見た。そこでは劉秀と陰麗華がいつものように楽しく会話していたという(先帝太后如平生歓)。"歓"とは声を出してにぎやかに騒ぐことを言う。冗談を言うのが何より好きな劉秀と、時にはその冗談が嫌いと反発した陰麗華。二人がどんな愉快で楽しい会話をしていたか想像に余る、二人の仲睦まじさが偲ばれるエピソードである。
劉秀は、その夢を実現したのである。
劉秀は天性の世話好きであり、お節介な人間である。酒も飲めないのに宴会好きなのも、他人が喜ぶ姿を見るのが楽しいのである。自分自身で楽しむよりも、他人と楽しむのがよいというのは心からの実感であった。
どこまでも困っている人を助けるのが何よりも好きな性格なのだ。
だよね。
新庄さんも
コメント欄で
2球団を助けたい。
自チームだけでなく、しっかりと12球団を思ってくれる新庄さん素晴らしいです!来年がすごく楽しみです。
だしね。
旨いこと行くと、光武帝劉秀が
死に際しての遺言が「朕は百姓に益するところなし」という衝撃的な言葉で始まるのも、自分が他人に何ができるかということを常に念頭に置いていたことを示している。最後の瞬間まで他人に対して何をできるかを考えていたのだ。劉秀の言葉や行動には、常に相手の視点から見て考え、相手の望みをかなえるという思想がこもっている。そしてそれを自分の喜びとして取り込んでいくのが劉秀なのである。
この劉秀の性格をかつて馬援は、人にしてあげられることがあればすべてしてあげようとする人だ(極盡下恩)と評したほどである。
ただ人の望みをかなえることばかり考えて、人に与え続ける生涯を生きた劉秀は、逆説的にも世界のすべてが自分のものになってしまう。それも文字通りの世界帝国の支配者としての物質的なものだけでなく精神的なもの――国民からの厚い信頼、美しい妻と愛する家族、生涯変わらぬ戦場の戦士たちとの友情……。
そんな感じにいくかな・・
まあ、劉秀は、さらに明石家さんまさんの気もあったしな。
"歓"とは声を出してにぎやかに騒ぐことを言う。冗談を言うのが何より好きな劉秀と、時にはその冗談が嫌いと反発した陰麗華。二人がどんな愉快で楽しい会話をしていたか想像に余る、二人の仲睦まじさが偲ばれるエピソードである。
優れた将軍は兵と同じ待遇でなければならないとされる。食事も兵士と同じでなくてはならず、すべての兵士が休むまで休んではならないのだ。そしてその通りに、皇帝でありながら兵士と同じく自ら武器を取って戦ったのが劉秀である。皇帝であるよりもまず将軍として生きた劉秀は、平等であることこそが人の能力を最大に発揮できることを知っていたのである。
またこれは劉秀自身の天性も関係する。ジョークを好む劉秀であるが、ジョークというものは、言う人間と聞いて笑う人間が平等であることを前提とした行為だからである。怖い上司のジョークでは追従して笑うことしかできないし、ネタにされた人間が反論できない場合も、ジョークは嫌がらせや皮肉になってしまう。ジョークを心から楽しむためには話す相手と対等でなければならないのである。劉秀にとっては、自らが楽しく生きるため万民は平等でなければならないのである。
3・もっている。
新庄さん、もってますは。
メジャーいって活躍するし、パリーグいって日ハムを日本一にするし。
で、今度監督になるし。
で、劉秀・光武帝は、持っている。
昆陽の戦いって、ギネス級の逆転勝利だが、暴風雨を自然の観察と、データーの分析で、劉秀と緑林軍はわかっていたけど、その前になんと、隕石まで降ってきて応援してくれる。
夜には流れ星が陣の中に落ちた。昼には山が崩れたような形の雲が見られ、陣に当たって砕け、地面の一尺手前で散った。兵士たちはみな不吉なものを感じた。なかにはこう言うものもいた。
「崩れた山のような雲気は、いわゆる営頭の星と言うやつだ。占いでは、営頭の堕ちるところ、その下で軍が壊滅し流血が三千里に及ぶと言う」
大将の王邑は、この不吉な放言をなした人物を探したが分からなかった。
もってるは。
さらに
凍り付いた川の奇跡
呼沱河に着いた。候吏(物見の兵)を派遣すると、川の水の流れが速く船もないから渡ることができないという。属官たちは大いに恐れた。劉秀は王覇にもう一度見に行かせた。王覇が見たものも同じであったがみなが驚くのを恐れ、また少しでも進ませようと思い、嘘を言った。
「堅く凍りついていて渡ることができます」
属官たちはみな喜んだ。劉秀もまた笑っていった。
「候吏はやっぱりでたらめをいったのだ」
川につくと、意外にも川は本当に凍っていた。王覇に見張らせながら川を渡った。
凍りついて滑り馬も倒れ、おのおの砂を袋に詰めて河原を埋め、布を氷の上にひいて渡した。しかしまだ数車しか渡りきらない内に氷が解け始め、最後尾の車の何台かが川に落ちた。
劉秀は王覇にいった。
「我らがみな川を渡ることができたのはそなたのおかげだ」
「これは明公(との)の徳と神霊の助けであります。武王の白魚の応(伝説時代の聖王の奇跡の一つ)といえども、これ以上ではないでしょう」
劉秀は官属にいった。
「王覇が渡るために策略を用いたのは、ほとんど天瑞である」
白衣の老人
進んで下博城の西に着いた。しかしどこに行ってよいのか分からなかった。
白衣の老人が道端におり、指さしていった。
「頑張りなさい。信都郡は長安のために守備していますぞ。ここから八十里です」
劉秀は急いで信都へ向かった。
川が、いきなり凍る・
謎のじいさんが、逃げ道を教えてくれる・・・
て持っているは。
改めて、新庄さんも、劉秀も、「人と共に楽しむ」が大事というのは、そのコアにあると思う。
そこの街に住む人達の暮らしが少しだけ彩られたり、
単調な生活を少しだけ豊かにする事に他なりません
その裏側に誰を笑顔にするのかを常に心に秘めて
劉秀・光武帝は
人の貴さは天の定め、法は万人に平等なり
劉秀が統一後に目指した世界とはどんなものだったか。
その姿は統一前から少しずつ政策に現れていた。まずは奴婢の解放令である。
建武二年五月癸未(西暦26年6月25日)。嫁に出した娘、売られた子どもで親元に帰りたい者は、すべてその願い通りとし、それを拒否する者は法律によって処罰する。
建武六年(西暦30年)十一月。王莽の時代の下級役人や民衆で罪に問われて奴婢となった者で、漢の時代の法律によるものでないものは免じて庶人とする。
建武七年五月甲寅(西暦31年6月30日)。下級役人や民衆で飢饉や戦乱に遭ったもの、青州、徐州で賊によりさらわれて奴婢や妻とされた者、去りたい者も残りたい者、自由にすべてその願い通りとし、それを拒否する者には売人法を適用する。
建武十二年三月癸酉(西暦36年4月23日)。隴や蜀でさらわれて奴婢とされた者で、自ら訴え出たもの、判決が出ていない者(及獄官未報)とすべて庶人とする。
建武十三年十二月甲寅(西暦38年1月24日)。益州で建武八年以降にさらわれて奴婢となった者は庶人とする。また身を売って他人の妻となったもので去りたいものはすべてこれを聞き入れよ。敢えて引き留める者は、青州、徐州同様に略人法を適用する。
建武十四年(西暦38年)十二月。益州、涼州で建武八年以降に申告した奴婢は、裁判なしで庶人とし、売った者は代金を返さなくてよいとした。奴婢の多くは、夫が妻子を売るケースが多いのだが、そのとき夫は代金を返さなくても妻子を取り戻せるということである。
何度も出しているのは、効果がないからではなく、新しく敵地を平定するたびに解放令を出しているためである。あくまでもそのときの解放令であるから、自国領でしか無意味だからである。
また文面に出てくる売人法と略人法は、劉秀の時代に創設された法律であるとされる。売人法は人を売ることの罪を決めた法律であり、略人法とは人をさらったときの罪を決めた法律である。
この時代の民間の奴婢の多くは、貧乏であるために妻や子を売るケースと、戦争で女や子どもを略奪してそのまま妻や奴婢にするケースである。そこで劉秀は、人身売買についての「売人法」を制定し、人さらいについての「略人法」を制定した。二つの奴婢の成立状況を狙い打ちにした法律を制定したのである。
さらに劉秀は歴史的にも驚くべき宣言を行う。
建武十一年春二月己卯(西暦35年3月6日)
「この天の地の性質として、人であるから貴いのである。故に殺したのが奴隷でもその罪を減らすことはできない。(天地之性人為貴。其殺奴婢,不得減罪。)」
という詔書を発行し、法律の改革を進めた。人が貴い存在であることは、天地、すなわちこの宇宙自体が持つ自然の性質、言うなれば重力のように誰にも変えられない天与のものとし、貴さの起源が人間存在にある以上、貴族も良民も奴婢も貴さは同じであり、同じ刑法が適用されるのだ、というのである。現代の人権天賦説に近いものと言えよう。この言葉は中国における人権宣言として、アメリカの独立宣言にある「人はみな平等に造られている(All men are created equal.)」に相当するものとして注目されている。
劉秀はこの年に、不平等だった法律を具体的に一つ一つ排除を進めている。春二月、
「あえて奴婢に焼き印したものは、法律の通りに処罰し、その焼き印された者を庶人となす」
冬十月には、奴婢が弓を射て人を傷つけたときに死刑となる法律を削除した。
「天地之性人為貴」という言葉自体は『孝経』からの引用であり、曽子の質問に孔子が答えた言葉である。こうした昔から知られた理想を示す言葉、悪く言えば建前だけの空言に、実のある改革を付け加えることで、実際に意味のあるものにしてしまうところに劉秀のすごさがある。聖典に根拠を置くことで誰にも反論できなくしてしまうのである。
蜀と隴西は戦乱の少ない新天地であり、中原の大混乱を避けたたくさんの避難民が流れ込んでいた。着の身着のままの難民は資産もなく土地もない。新しい土地で地元の豪族に奴婢として使役される身分に甘んじざるを得ない。公孫述と隗囂の政権では、無数の奴婢が使役されていた。
ところが劉秀政権は奴婢の解放を早々と宣言し、その待遇改善を実行していた。公孫述、隗囂から見れば、兵員の八割以上が銅馬、赤眉、緑林の三大農民反乱軍から構成され、奴婢の解放と保護を宣言し、馬武、臧宮、王常といった緑林の将軍まで現役で活躍している劉秀政権は、農民軍政権そのものとしか映らなかったであろう。
公孫述と隗囂の政権にとって劉秀に降伏するということは、その財産を大量に没収されることを意味していた。そのため公孫述も隗囂も劉秀の六分の一にすら満たない勢力であるのに、徹底抗戦を展開し、全滅するまで戦い続けたのである。劉秀の奴婢解放は統一戦争の妨げになっていたことがわかる。
しかも当時の中国には道義的な理由で介入するような外国は存在しない。劉秀の奴婢解放は、実際の政治政策としては死傷者を増やす誤った政治戦略であったことがわかる。リンカーンの奴隷解放とはすべての意味で真逆なのである。
もし奴婢解放をするのなら、天下統一後にすればこうした抵抗はなかったはずである。ではなぜ劉秀は皇帝に即位するとすぐに奴婢の解放を始めたのか。それは劉秀の政権の兵力のほとんどを銅馬、赤眉、緑林の三大農民反乱軍が占めているということにある。
飢饉のために飢えに苦しんだ農民には、二つの選択肢があった。土地を捨てて流浪し農民反乱軍に加わるか、豪族に身売りして奴婢に転落するかである。このとき反乱軍に加わるのは壮年の男子が多く、女子供は豪族に売られることが多かった。劉秀の率いる兵士たちの妻子は、豪族に買い取られて奴婢に転落している者が多かったのだ。
劉秀は常に自ら先頭に立って戦い、直接に兵士を率いていたから、当然、彼らの悲しみや悲劇を良く知っていた。夜な夜な妻子を想って涙する兵士がいることを。劉秀は自分の兵士たちの、家族に再会したい、家族とともに暮らしたいという願いを叶えるために、奴婢の解放に踏み切ったということなのである。
劉秀自身、皇帝に即位してそれから洛陽を陥落させてやっと、妻の陰麗華、姉の劉黄、妹の劉伯姫と再会できた。家族との再会の喜びを自分だけが味わうことは許されないと考えたのであろう。そのため劉秀は皇帝に即位するとすぐに奴婢の解放を始めたのである。
てな感じで。
こんなんですが、どうですかね。
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