なぜかこの国を信じれなかったわけがわかった。


でも、何度も何度も試行錯誤を重ねるうち、その子はある日、大発見をした。「ケーキやピザを何分の1に切るにしても、真ん中にまで庖丁を入れればいい!」私たちからすれば当たり前のことかもしれないけれど、その子はその時初めて気がついた。そこから分数の理解が始まり、能動性も回復した。

もしかすると、旧来の看護のあり方は、この高校生のおばあちゃんのような対し方だったのかもしれない。看護師の方は「よかれと思って」、患者が何をしなくてもすべて世話してしまっていたのだと思う。でもそのために、患者の能力を損なわせ、寝たきりや痴ほう症に進ませていたのかもしれない。

また、加藤忠相さんのこの文章
https://izumo-kaigo.jp/voice/interview/223
を読むと、介護の世界でも、入居者の高齢者の世話を全部介護士がやってしまおうとするために、高齢者は「世話しやすいよう」自由に動くことを制限され、能動的に動かないように強いられ、結果、認知症や寝たきりに追い込まれるらしい。

能動性って、この国の教育で大事されてない、、意外と・・・

「指導者に都合のいい」ことの能動性って喜ぶけど。。

スポーツの世界でも長らくそうだよね。

 この問題を「女性蔑視」と考えるべきではないだろう。支配と服従の問題である。JOCの臨時評議員会に出てくるような男性は権力に服従しているということだろうが、性別の問題ではない。服従を拒否する男性もいるが、支配システムの枠組みの中で成功することは困難であり、もし、そうした人が出てきても排除される。ところが、今ところ、女性は排除しにくい。

 スポーツ、特に個人競技の場合、男性であろうと女性であろうと、強い意思と判断力がなければ世界のトップを争うことはできない。「頭のない鶏」状態で勝てる種目は限られているだろう。強い意思と判断力を持ちながら自分たちに従属することを権力者は願っているのかもしれないが、そう都合良くは行かない。

 かつて、世界的に人気のある球技では日本人の弱点として瞬時の判断力が足りないとされていたが、その原因は日頃、絶対服従を要求されていることにあるだろう。自分で考える能力が鍛えられていない。子どもの頃から暴力で行動をコントロールされていた人は、周囲に暴力で抑えられる人がいなくなると暴走しがちだ。

「絶対服従」は、半分は「指導者・為政者」の優しさの結果である。

それでなければ、効率的に「人間」を指導・指示しにくい。

でもそれが度を過ぎると、人間を「家畜」に変える。

そう、高齢者が、どんどん認知症が進むように。

まあ、その「能動的な行動を認めない」ってことから、延長線的「体罰」でも出てくるのだよね・・・

その原因は日頃、絶対服従を要求されていることにあるだろう。自分で考える能力が鍛えられていない。子どもの頃から暴力で行動をコントロールされていた人は、周囲に暴力で抑えられる人がいなくなると暴走しがちだ。


だからね。。。

まあ、これは「やさしさ」と「狡知」の複合的産物と私は想像している。

「考えないと楽だぞ」ってそうすることで「人間の能動性を奪い・家畜化する」

ちょうど、今のサラリーマンが「税金」を自分で処理しないでよい制度にすることで、「仕事に励める」けど「社会や政治への関心や能動性を奪う」ことに成功した、現在の帝政日本のありようなどその典型でね。


 こうした結果、ほとんどの労働者は納税手続きに自ら直接関与することはなくなりました。個人の負担軽減、税務行政の簡素化に寄与したことは間違いありませんが、事業者側の負担は増加。税に関する国民の関心は低下し、「タックスペイヤーとしての権利意識」は欧米に比べて著しく希薄になったとされています。

楽にしすぎる事で、能動性を奪うことに成功し、日本人を「肉ロボット」に改造することに成功したのが、帝政日本なのです。


能動性に期待するのは、その人への信頼・人間への信頼や愛などの資質が不可欠です。
また、それが無くても人間性の深い洞察なくして、他人の能動性をあてにすることはできません。

それが無くても、人を指導できるように「指導者が楽」するには、指導される側が「人間以下」になれば、容易にコントロールできるわけですよ。


その「日本人の家畜化」が潜在的に進行したのが、戦後日本で有り、それが本格的になったのが、戦後日本の「通俗道徳・自己責任論」で、個人の分断し、「男尊女卑思想」と「フェミニズム」で「家庭の崩壊」が始まった「バブル崩壊後」だったと私には思えます。


ちょうど年始の「機動戦士ガンダムシードフリーダム」でも、この「能動的に考えない幸福~家畜の幸福」を保証した「ディステニープラン」が一つのメインである話だった。



この動画の中にあるかどうか失念したし、原典をちゃんと見てないので、確認しきれないが、ラクスが

「自分を愛しても無い人に、自分の価値を決めさせるな」

て趣旨の発言をしている。

だが、それを「決めさせる」ことで、資本主義社会の「雇用」って成立している面もあるのだ。

もっというと作品中「ディステニープラン」が、心情的贔屓も含めて、一定度の支持がその世界であったのは「指導者側の中の支持」だけでなく「庶民の支持」もあった。

「庶民の支持」の理由は、ちょうど「小泉郵政選挙」や「マルクス主義社会主義」熱狂した歴史をみても了解されることだが、「生きるためには、自由をある程度売り渡すしかいない」って追い込まれていたら、責め切れない選択としかいえない。

「就労の自由」「職業選択の自由」を売り渡すことで、ほかの「生活の自由」を買い戻す・・・てような。
それが庶民側が、共産主義やディステニープランを支持した理由の一因とみてもいいかもしれない。


能動的に行動する・考える・・・と教育なり訓練なり生育できないと、本当の意味で「自由意志・自分の意見」など、持ちえない・・少なくともマトモ行使できないし、駆使できない。

そんな教育、まあCE世界では知らんけど、少なくとも「天皇日本」では、能動的に考えて行動する・・てほぼ受けることない。
なんせ「しつけ」ごときで、体罰を振るえる馬鹿どもがまだ跋扈しているのだから・・・能動的に考えて行動する・・などそのような馬鹿どもには高級すぎる教育内容なので、そこまでの馬鹿には不可能なのである。
ようするに「日本」では「自分の意思で考えろ」って言われても「道具」も使い方も「ノウハウ」も無い状態に近いので、極めて「厄介」であり、そもそも「自分で考えれない」って教師が想像以上に圧倒的に多いようなのだし。


で、
ましてや、多くの普通の人が「雇用や生活を保障されない」資本主義という世界で「ひたすら競争」を大前提に札束の殴り合いをするのが「正しい生活」って成っていれば、、
「ディステニープランで、遺伝子で適性を決めてそれに応じた教育・就労をさせてくれるのなら、職業選択の自由くらいは売り払っても良い」ってなっても、それは「大間違い」ではないのだ。


就職市場で、自分の価値を勝手に決められて、圧迫面接等ですさまじい侮辱と恥辱を受けても、それでも仕事に就けない・・・なんてなると、「ディステニープラン」ですら、「クモの糸」にみえる・・・


でも、それは「自分以外の自分を愛してない人に、勝手に自分を価値を決める」ことで、
それが国家制度となると
「人生の意味も命の価値も、勝手に、愛されても無い・かかわりの無い人間の都合で決められる」
って成るのだけどね…その行き付く先は
「無用な家畜~働けない人間~は屠殺」
って確定してはいる
けど、「将来の死より、今の死を免れる」ってなるのも止む得ない面もあるよね・・・


私たちの国「日本」では、「能動的に個々人が感じ・考え行動」することは、かなり低い価値だったのだ。それは言い過ぎかもしれないが、「それがまともな行動・発言」でも殺される・干されるのはテンプレートな社会だったのだ。

日本人は社会を維持するために悪意ある行動や意地悪な考え方を培ってきた。前近代の村社会において最大の正義は「共同体の維持」だ。手を取り合わなければ生きていけないからこそ、秩序を乱すものには罰を下してきたし、はじき出されれば生きていけない。とすると、日本人の礼儀正しさや親切さは社会から村八分にあわないための同調圧力に起因するものであると言えるのではないか。

正しい事。正常な個々人の意思よりも、「集団への従順」が絶対的正義だったのだから。

それが明治以降は「戦争ができる国家」となるために加速され、どんどん日本人が家畜化された・・・て話である。


この「家畜化された社会」は、指導者・指導層が「間違いない」限りに、時代や状況が大きくない限りに、それなりに、構成員の生存と幸福を約束する。。
「家畜度」が、今ほど高くなく、社会がそこそこ安定した江戸時代は、まあなんとかうまいこと行っていた。

でも、明治以降は、「日本人の家畜化の促進」と「社会制度や社会の在り様な急激な変化」それに「指導層・指導者の無責任」で、カタルシスを必然的に短期に迎えるようになったと、私は思う。
まあディステニープランが、主人公たちに二度も叩き潰されたようにね・・・


最近荀子を読んでいるけど、「礼」てのを「社会規範」とかでなく、「他者と適切に関係する技術とノウハウ」て面もあるので、そう考えると「礼~関係性の構築」のが、如何に重要か・・・てのは、このユニマチュードってことの話からも改めて理解できる。

まあ私は荀子は「礼」による「関係性」を国家の制度・機能や社会規範まで広げ過ぎたところが「人を殺す礼楽」ってなった一因とは思うけど、
それほどに「人と人の関係」は、礼とかに言われる「関係性」が重要で、
「親しき中にも礼儀あり」てのは、当然な話で、それが「日本人」には、どこか欠けていて、想像以上にその社会や個々人の「深い傷」になっていると思う・・・

「いじり芸」ってお笑いの芸も、関係性を万全していたら、まだ笑える・・でもその「関係性」を「礼を軽視する」とか軽視していたら、それが児童生徒・子供同士では「いじめ自殺」の原因になり、大人では深刻な相互不信の原因や「日本国衰亡」の原因となっている、、と私は思うのだ。

 

「関係性の軽視」ってのが、実は「日本」の大きな根本問題って私は感じる。

一つは

日本人は社会を維持するために悪意ある行動や意地悪な考え方を培ってきた。前近代の村社会において最大の正義は「共同体の維持」だ。手を取り合わなければ生きていけないからこそ、秩序を乱すものには罰を下してきたし、はじき出されれば生きていけない。とすると、日本人の礼儀正しさや親切さは社会から村八分にあわないための同調圧力に起因するものであると言えるのではないか。

関係性よりも、強者・集団への従順が遥かに重要だった過去。

あとは「天皇」だよね・・・

「天皇」は神聖ていうか、今も敗戦の責任を取らない・・・それを象徴とか元首とかする国家は、指導者・指導層は、部下や庶民と「関係性」をまともに構築する必要も無い。
しそれなので、関係性など普通に軽視して、それを前提にした「社会制度・法整備」をしているのだ。
「抗命罪」はあっても「抗命権」は認めてない自衛隊法や、「内部告発」を原則「裏切り」しか取り上げない「国家・経済界等の巨大組織群」

そもそも「日本人」を舐めて「関係性」など「誤魔化」して、騙すことしか考えてないのだ。


上が腐れば、下も腐る・・・脳が異常なら、身体の異常を治すのは困難である・・・なんせそれを認知することが狂っているのだから。。


結局は「関係性を大事にする」ってのは「相手を大切に扱う・尊ぶ」てことで、「唯仏与仏」ていうか、「礼は往来を貴ぶ」ってことだと思う。



 儒はこの時代の主要な学問であるから、こうしたイベントに兵士を参加させることは、兵士の教育に熱心であったことを示している。
 孔子はかつて「民を教えずして戦わせる、これを棄てるという」と述べた。兵士を教育してから戦わせることが肝要なのである。祭遵は、孔子の用兵を行っていたのである。
 人にもし立派な振る舞いをさせたいのなら、まず立派な人物として扱い、立派な人物であるという自覚を与えることである。相手を悪人であると見なして応対すれば、相手は悪人として振る舞うし、有能な人として応対すれば有能に振る舞う──これは心理学でいうピグマリオン効果として知られているものであり、集団に対したとき明確にあらわれる効果である。
 すなわち、祭遵は兵士を立派な士人として扱うことにより、兵士に志と自覚を与えその質を高めたと考えられるのである。だからこそ、祭遵の指揮がなくとも自らの意志をもって戦うことができたのであろう。

 

尊重されたら、それに応じようとする・・・日本人でもよくいうだろう「人生意気に感じる」って。


その「立派な人間」とて扱ってもらえないのに「立派な人間」に育つわけは無いし、立派な人間として相手に応対するはずもないのですよね。。

「関係性」ってそういうものですよね・・・・


ちょうど

その子が結構大きくなるまで、着替えも食事も全部おばあちゃんがやってしまっていたらしい。あまりに孫ラブ過ぎて、「全部おばあちゃんがやってあげる」になっていたらしい。その結果、その子は能動的に何かをするという能力を開発することができず、仕方がないから唯一残されている自由、
心のお花畑に魂を飛ばす「魂飛ばし」をすることが習慣づいてしまったらしい。ともかく魂ここにあらずだし、これまで能動的に動かなくても全部やってもらえていたから、能動的に動くということ自体を諦めていた。能動性が全く失われていた。でもこれでは学習が進まない。
仕方がないから、魂を飛ばすたびに机をバン!と叩き、ビックリさせることで魂を召還。これを繰り返すうち、だんだんと「今、ここ」に魂がとどまるようになった。そこで小学3年生の内容からやり直したのだけれど、典型的な「ケーキを切れない少年」。ケーキやパイを3分の1に切れといってもできない。
でも、何度も何度も試行錯誤を重ねるうち、その子はある日、大発見をした。「ケーキやピザを何分の1に切るにしても、真ん中にまで庖丁を入れればいい!」私たちからすれば当たり前のことかもしれないけれど、その子はその時初めて気がついた。そこから分数の理解が始まり、能動性も回復した。

愛ゆえに、こどもを「家畜」か肉人形のように扱えば、、子供は「家畜」か肉ロボットになってします。
でもそれは「愛」だけでなく「支配欲」なり「自己満足」の混じったモノであったのだ・・・・・・

相手を知りそれの内情をおもんばかれば、そのようなことにはならなかったと思う。
そう言う風に「規制」して持っていくのが、荀子にいわせれば「礼」みたいですけど・・・

「自分の優しさ・都合」ばかりで、相手のことを考えなければ、それは「自己満足」の「暴力」にすぎず、それも「礼」に反するって荀子ならいうかもしれないし。
強者の弱者への命令・・はほぼ支配か飼育であり、それが「教育」だったかね・・日本は・・・

逆に言うと一介の兵士でも、忠臣のように将軍がいなくても戦えるようになるのも、「関係性の尊重」によるのだし。

なんか雑多な話になったが、締めでもない無いけど・・・蒼天航路で劉備が

「この袋{自分の気持ち}を自分でいっぱいにしてしまった。でも本当はそんなものを入れるものじゃなかったんだ」

ていう場面があるけど、、関係性・・他者とのかかわりあいってことでは、この劉備の言葉も参考になるかもしれない。


なんかまとまらんね・・・

社会・政治的なことを書くと「為政者・権威」の想いでいっぱいになった、命令や政治など、我々庶民が、もう受け付けるべく正当性など、これポッチも無いし。
今の集団的西側・天皇カルトの政治・政策は、みな「自分の想い・欲望だらけ」で、関係性も「庶民への敬意」も糞も無いのだよ・・・


まあ雑多な話で、終わりまで読んでいただけたら、大変ありがとうございます、


「天皇」の無い 蒼い空を取り戻す


慈悲と憐みの富む社会になりますように。



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