そんな話。
より
上記文抜粋
・・・・・・・・・・・
さて荀子はここで儒家として推奨するカリキュラムを詳説する。礼儀規則を学び、音楽を学び、『書経』『詩経』『春秋』を師について詳しく学ぶべきであると言う。中華文明の歴史・国語・音楽・道徳修身の学習である。そう考えると、内容は変わっているが現在の教育と教科はそんなに変わらない。この他に、士が学ぶ六芸(りくげい)には計算術があり(数)、弓術があり(射)、馬車の運転術があり(御)、書道があった(書)。なので初等数学と武芸もあったのである。もっとも、古代ギリシャのように体育教育を最重視することはなかった。西洋の英雄は裸体となっても美しいことに憧れるが、中華世界の君子は上半身ですら裸になることは非礼の極みであった。
しかし、荀子は古典を尊重するとはいえ、古典がそのままでは現代の役に立たないことを認めている。古典の現代的意義を師から解説されず、ただ独学で詩経や書経を学んで知識人ぶる者を、荀子は三流教師と蔑み、志ある君たちはそうなってはならないと説くのである。そして礼儀規則を学ぶことを通じて、現代の世界の法の精神を読み取り、為政者の勘を育め、と言うのである。
”
・・・・・・・・・中略・・・・・・
https://twitter.com/aoJvqLcHOrs7UWg/status/1636150369922297858
“来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
AI関係で荀子の言うように「君子は物を役し、小人は物に役される」って事でしかないんだよね
中共が塾の禁止とか言い始めたのは科挙の時代にその弊害があったのと、AI時代においてはAIを動かす側を養成・育成する事となればペーパーテストだけでは足りないとなったんでしょうね
午前8:40 · 2023年3月16日
・・・・・・・・中略・・・・・
来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
左翼で自由主義を問わない
右翼で漢籍・国文引用しない・諫めたりしないならただのキモヲタ
荀子で忠臣には4つあり
君主を諫めて、ダメなら職を辞す者
君主を諫めるのを命がけするもの
君主を諫めるのを官僚・役人組織全体でするもの
君主の過ちを止めるべくワザと君主の権を奪ってするものがいるんよ
午前6:58 · 2021年8月7日
勿論、佞臣・奸臣も同じことをするので君主が君子であれば、徳治であるなら下は上が存在しなくとも君主の権を侵さないし
法治なら機構・構造によって、事前に潰す事が出来る
要は法術、法は法律そのものと術はその運用方法を言う
で、イスラームでもそうだが法よりも術の方が遥かに重要なのよ
午前7:03 · 2021年8月7日
・・・・・・・中略・・・・・
2016年10月14日(金)
[非公開] 魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi
16年10月14日
そう言うと韓非とかはというのでしょうけど、あれもまた儒の一部です
だって、あれは荀子一派の分派が法家なのですから、あれもまた儒の一部なのです
だから、名による原子化する分類法は西欧の田舎ものが複合的にモノを考えられない人達の為でそれに従う道理なんてないのです
タグ: 編集
posted at 05:03:18 削除
2017年02月19日(日)
[非公開] 魔法おっさん(30代住所不定無職童貞) @douteimaturi
17年2月19日
なので、日本で一番資料があって・翻訳されていて・読みやすいのは形而上をするのであれば孔子・孟子・荀子・朱子・陽明学をやるのが無難で形而上を絶対殺戮する気なら唯識などの古典仏教と臨済さんとかの古い禅のおっしょさんの文献に当たるのがいいでしょう
それ以外は何一つオススメしません
タグ: 編集
posted at 20:55:21 削除
仏教系の仏教破壊者4人。臨済流ボクシング。拳法ならぬ仏法。仏法を拳で語る『臨済録』(岩波文庫と中公版)と小川隆の解説書で魔(境)インドフルネスを打破しようhttp://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-412.html
)
・・・・・・・中略・・・・
[ 《音楽の必要不可欠性について》
そもそも音楽というものは快楽である。人情として必ずなくてはならないものである。人間はもちろん楽しみがなくてはおれないが、楽しければ〔その感情が〕必ず音声にあらわれ動作にあらわれる。こうして人の道としての〔外的な〕音声動作と〔内的な〕本性の動きの変化とはこの音楽において尽されるのである。だから人間だれでも楽しまないではおれないが、楽しければ〔その感情を〕外に出さないわけにはいかず、外に出して道理を守るのでなければきっと社会的混乱をひきおこす。古代の聖王はその混乱を憎んだのである。だから雅頌の調べ(九)を制定してそれを指導し、その調べが十分楽しめてしかも放縦に流れないようにし、その文飾が十分理解できてしかもそれだけには終らないようにし、その音楽の曲直・繁簡・するどさ円さ・節奏(緩急抑揚)が人々の道義心を感動させることができるようにして、あの邪悪な気分のやってくる余地のないようにさせる。これが古代の聖王が音楽を設けたそのより所である。それにもかかわらず墨子がこの音楽を否定するのはどういうわけであろうか(一〇)。]
(音楽は侵略手段として有効だから、自衛が必要だとわかる。カタカナ語と英語が混ざる曲が流行る理由だ。娯楽は侵略手段にも使えるから注意が必要だ)
・・・・・・中略・・・・・・
p.120から
夫(そ)れ声楽(せいがく)の人に入るや深く、其の人を化するや速やかなり。故に先王は謹しみてこれが文を為(な)せり。楽(がく)の中平なれば則ち民は和して流れず、楽の粛荘なれば則ち民は斉(ただ)(正)しくして乱れず。
(略)
故に礼楽廃して邪音起る者は危削侮辱の本なり。故に先王は礼楽を貴びて邪音を賤しみ、其の序官に在りても(五)、憲命を脩め詩商(章)(ししょう)を審(つまび)らかにし、淫声を禁じて時を以て順脩し、夷俗邪音をして敢えて雅を乱さざらしむるは、太師の事なり、と曰えり。
[ そもそも音楽は深く人心を感動させ、また速やかに人々を感化するものである。だから古代の聖王はそのための修飾を慎重に作りあげた。音楽が調和的であれば民は和合して放縦(ほうしょう)に流れず、音楽が荘重であれば民は正しくなって乱れない。
(略)
そこで礼と音楽とがすたれて邪悪な音曲のおこるのは、国家が危うく領土が削られて侮辱をうけるようになる始まりである。だから古代の聖王は礼と音楽とを貴んで邪悪な音曲を軽蔑したのであって、その官職記録にも「法令を修めて詩章を検察し、淫らな音楽を禁止して適切な時期に治め整え、蛮夷の奇妙な音楽の侵入によって正統音楽を混乱させないようにするのは、大師の官の仕事である。」といわれている。]
(音楽は影響力が強いから、正統音楽を混乱させないようにせよってことね)
・・・・・・中略・・・・・
p.122から
故に楽(がく)なる者は楽(らく)なりと曰えり。君子は其の道を得ることを楽しみ小人は其の欲を得ることを楽しむ。道を以て欲を制すれば則ち楽しみて乱れず、欲を以て道を忘るれば則ち惑いて楽しめず。故に楽(がく)なる者は楽しみを道(みち)びく所以なり。金石絲竹は德を道びく所以なり。楽(がく)の行われて民は方(みち)に鄉(むか)(向)う。故に楽なる者は治人の盛んなる者なり。而るに墨子はこれを非とするなり。
[そこで〔さきに〕「音楽というものは快楽である。」といったのである。君子はその道義を身につけることを楽しみ、つまらない小人(しょうじん)は自分の欲望をとげることを楽しむ。道義によって欲望を制御していけば楽しんで乱れはないが、欲望のために道義を忘れるのでは惑乱して楽しめなくなる。だから音楽というものは快楽を導びくためのものであり、金石糸竹の楽器は徳を導びくためのものである。こうして音楽が行われれば民衆は正しい道に向かっていく。従って音楽というものは人々を治めるのに最も有効なものである。それにもかかわらず墨子はこの音楽を否定するのである。]
(楽器は徳を導くためにあるつまり、音楽の目的には徳もないといけないってことね。楽しけりゃいいぜってのはダメってことね。惑乱つまり冷静な判断ができないほど心が乱れると音楽が楽しめなくなるって見解が興味深い。そもそも〔快〕楽の意味が君子と小人では違う。君子の楽は、欲望をとげるって意味ではない)
・・・・・・・中略・・・・・
【2024年6月25日に追加:
子どもの頃に刷り込まれた音楽は消えない。
https://twitter.com/aoJvqLcHOrs7UWg/status/1562258931694546944
”来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
音を管理するのが支配者よ
音韻学や音の旋律に気をかけているのはどの歴史資料みてもわかること
孔子のおっさんが斉の国で韶の音楽を聞いて3ヶ月肉の味を覚えていないほど重要視していたのを知ってくれば
権力者が音楽を支配したがるのは常識でしょうに
言葉と音・その旋律を支配するのが管理だすよ
午前11:02 · 2022年8月24日”
https://twitter.com/aoJvqLcHOrs7UWg/status/1640178545828798470
”来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
反出生主義というより、今の四十代以下はアンパンマンマーチ聴いて育ったという事実の方が重そう
労働教徒やりながら、魂の救済も同時並行でやんなきゃいけなく
道具と手段は増えたが、便利な槌と鎌が増えただけでそれ自体は魂意味を与えるものでなく、結果モノの増減以外の基準を与えられてないんよ
午前11:26 · 2023年3月27日·674 件の表示”
https://twitter.com/aoJvqLcHOrs7UWg/status/1640439204483153920
”来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
アンパンマンマーチは実害と言うのは、子供の時に覚えた旋律って忘れないのよ
自由七科で下級の三学を用い切った上で立っているのは音楽だけで、数学・幾何学・天文学の三つは精々論理学で修辞学を少し使う程度でしかない
五経で天の理である易経の次に来るのが人を含めた世界の理である詩経だろ
午前4:42 · 2023年3月28日·1,040 件の表示”
・・・・・・・中略・・・・・
https://x.com/AXv4075LUC78949/status/1806260905929515355
”触おぢ
@AXv4075LUC78949
音って、階級なのよ
残念ながら底辺が聞く音と上位が聞く音というのは全くの別物
それは音楽という意味だけではなく、会話単位での話も含める
底辺は悲惨だ
しかし、それは常時そうであったし、コレからもそうでしかない
午後6:38 · 2024年6月27日
·
809
件の表示”
(本記事初登場の、最初のシーア兄貴呟き)
https://x.com/AXv4075LUC78949/status/1806263483421667378
”触おぢ
@AXv4075LUC78949
底辺の音楽は「無意味」どころか「実害」しかなく、ある程度の階級あったものが作った音楽は効果があるの
底辺は底辺以上の発想が出来ないので「今を解決したい『しかない』」ので、連中に水を飲ませるよりは「渇かして塩水を与える方が賢い」のである
今までそうだったし、コレからもそう
午後6:49 · 2024年6月27日
·
1,030
件の表示
”
https://x.com/AXv4075LUC78949/status/1806265055522304176
”触おぢ
@AXv4075LUC78949
底辺は輩でしかないので、何でもかんでも「家族だの、絆だの」言うが、それは「領主と領民の関係でしかない」
そして、どんな歴史書を読んでも「領主と領民の関係では『何も改革も転回することはない』」
故に何かを変えたいならば、底辺や輩の音を忌避せねばならないの、コレが入り口
午後6:55 · 2024年6月27日
·
479
件の表示
”
https://x.com/AXv4075LUC78949/status/1806266282612011237
”触おぢ
@AXv4075LUC78949
権力者やその社会の不満を歌う底辺は「権力者の力を保持・維持する『補完勢力』」でしかない
アンタら畜生は誰かが歌ったことに満足する、それで無意味で再構築されることのない「労働」に隷属するのである
コレがずっと続いている、誠に馬鹿らしい
午後7:00 · 2024年6月27日
·
410
件の表示
”
(
もしかしたら、最近の私が荀子記事[作成中。未公開]に載せているシーア兄貴の音についての呟きをRTしたからかもしれない。
荀子には楽論という音楽論の個所がある。蛮夷の奇妙な音楽の侵入によって正統音楽を混乱させないようにしないといけないって旨の個所があるよ。統治する側が正統音楽を定める必要があるってことだ。
音楽は影響力が強いから、正統音楽を混乱させないようにせよってことね。
音楽は侵略手段として有効だから、自衛が必要だとわかる。カタカナ語と英語が混ざる曲が流行る理由だ。娯楽は侵略手段にも使えるから注意が必要だ。
神出マキナさんもRTしているのだが発端は私のRTだろうな。
神出マキナ⚙機械仕掛けの政治思想さんがリポスト
来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
音を管理するのが支配者よ
音韻学や音の旋律に気をかけているのはどの歴史資料みてもわかること
孔子のおっさんが斉の国で韶の音楽を聞いて3ヶ月肉の味を覚えていないほど重要視していたのを知ってくれば
権力者が音楽を支配したがるのは常識でしょうに
言葉と音・その旋律を支配するのが管理だすよ
午前11:02 · 2022年8月24日
)
”
・・・・・・中略・・・・・
https://twitter.com/Historian_nomad/status/1562993109231104000 と会話
”遊牧民@候選
@Historian_nomad
荀子に謝ってもろて…(あの人の性悪説は「人の本性は悪『だから』学んで善に向かわねばならない」であってそういうこっちゃない
午前11:39 · 2022年8月26日
Твиттерить‐Нет!
@BlueSiberia
だって孔子からして「上智と下愚は移らず」で、よっぽどダメな人間でもない限り教育すればまともになると思ってますし。
孔子孟子も荀子も、儒家は教育大好きですよね。
午後6:42 · 2022年8月26日
遊牧民@候選
@Historian_nomad
ある意味人間への厚い信頼に満ち溢れているひとびと
午後6:48 · 2022年8月26日
”
https://twitter.com/Historian_nomad/status/1562994868095709186 と会話
”遊牧民@候選
@Historian_nomad
荀子の性悪説、別に人間の本性が悪だから誰も信用するなとかそんな話はしてないんだよなっていうあれ(同時に孟子の性善説も人間の本性は善『だけど』ちゃんとこれを保持成長させないと駄目だよって話をしている
午前11:46 · 2022年8月26日
矢崎右兵衛権佐竜座@6/3みらスタvs長崎
@yazakiryuza
人間の本質は悪であるからこそ法治や礼節でそれを正す必要があるというのが真意でしたか?
午後0:50 · 2022年8月26日
遊牧民@候選
@Historian_nomad
荀子のいわんとするところの大意はそのように一般的に理解されますね
午後0:51 · 2022年8月26日
〔「荀子の性悪説、別に人間の本性が悪だから誰も信用するなとかそんな話はしてないんだよなっていうあれ(同時に孟子の性善説も人間の本性は善『だけど』ちゃんとこれを保持成長させないと駄目だよって話をしている 」に対して:〕
小太刀右京/Ukyou Kodachi
@u_kodachi
·
2022年8月26日
みんなもっと韓非子を読むべき
・・・・・・・中略・・・・
https://twitter.com/Historian_nomad/status/1392723452935643143 と会話
”遊牧民@候選
@Historian_nomad
性悪説性善説って「人間の本性は悪か善か」の話だけにされがちですけど、あれそのあとに「悪だから善になるようまなばにゃならん」or「善なのに悪に染まってるからなおさにゃならん」って説なので、勝手に悲嘆したり楽観したりしてねえで性根叩き直せって話なんですよね(なに
午後3:08 · 2021年5月13日
メグミ・ツカサ🍋
@6k2zbQ1jPgybgW2
2021年5月13日
あくまであれは、「教育によって取り戻す」か「教育によって身に付ける」か程度の話です。
何故か日本では、「他人を信じろ」と「他人を信じるな」みたいな議論にすり替えられてますけど。
メグミ・ツカサ🍋
@6k2zbQ1jPgybgW2
·
2021年5月13日
もし孟子が他人を無条件に信じる人間なら、わざわざ遊説先で周りに武装したやべぇ連中でごえいさせたりしません(コラッ)
”
・・・・・・中略・・・・・
p.247
一 大略。人に君たる者は、礼を隆(とうと)び賢を尊べば而(すなわ)ち王たり、法を重んじ民を愛すれば而ち霸たり、利を好み詐多ければ而ち危うし。
君主として人の上に立つ者は、礼の規範を尊重して賢人を尊ぶなら王者となれるし、法制を重んじて民衆を愛するなら霸者となれるが、利益を好んで民衆をあざむくことが多いと危険である。
・・・・・・・中略・・・・
宥坐篇第二十八(2) | 新読荀子
By 河南殷人 | 2016年2月5日
http://sorai.s502.xrea.com/website/xunzi/宥坐篇第二十八/yuza02/
”孔子が、魯国の司寇となったときのことである。
ある父とその子が、互いに争って訴えてきた。孔子は両名を拘置して、三ヶ月間裁判を行わなかった。その後父のほうから訴えを取り下げることを願い出てきたので、孔子は両名を放免した。
季孫(きそん)(注1)がこのことを聞いて、不快に思って言った、「あの老先生(孔子のこと)は、私に嘘をつきましたな!かつて老先生は、私に言われたものだ、『国家を治めるときには、必ず孝道をもって行わなければならない』と。ならばこういう事例においては、子を死罪に処して父を訴える不孝に対して厳罰を下さなければならないでしょうが。なのに、老先生は父子ともに放免するとは!」と。
冉子(ぜんし)(注2)が、この言葉を孔子に告げた。孔子は深く嘆いて、こう言われた。すなわち、「ああ!上の者が正しい政治を失いながら、下の者を殺す。それが、許されるというのだろうか?己の人民を教化する仕事を行わずに、いきなり裁判を行えば、罪なき民を殺すことにならないだろうか。たとえ三軍が大敗したとしても、兵を斬罪に処してはならない。たとえ裁判がうまく進行しなかったとしても、人民を刑に処してはならない。なぜならば、それらは人民に罪あるがゆえの失態ではなくて、軍の指揮者と裁判の官吏の罪なのだから。法令が疎漏でありながら誅罰をきっちり行うのは、人民を傷つけることである。農作物の生育には時期があるのに時期を考えずに税を取るのは、暴政である。人民を教化することなくして人民がよく働かないことを責め立てるのは、虐政である。これら三者を取り除いて、しかる後にはじめて罪ある者に刑を課さなければならない。『書経』には、この言葉がある。:
たとえ義刑・義殺であっても、直ちに執行してはならない。「私は順番にまだ従っていない」と言おう。
(周書、康誥より)
この言葉は、教化をまず行え、と言っているのである(注3)。ゆえにいにしえの先王は、この政治の正道を明らかに述べて、上の者が率先して正道を行い、それでもうまく行かなければ、次には賢者を尊んで登用して賢者による政治を尽し、それでもうまく行かなければ、無能者を罷免してこれを一掃することに努めたのだ。三年間こうした努力を行った後に、人民は上の者によく従うこととなった。それでも従わない邪民については、刑罰をもってこれに臨んだ。こうすることによって、人民は何をすれば罪であるかを知ったのであった。『詩経』には、この言葉がある。:
尹(いん)氏は大師(たいし)、周のいしずえ
平らかに治め、四方(よも)を維(つな)ぎて
天子を庳(たす)けて、民を迷わせぬ
(小雅、南山より)
と(注4)。「威は厳格であって、しかもそれを行うことはない。刑は定めて、しかもそれを用いることはない」(注5)という言葉は、このような先王の統治を言うのである。しかしながら、今の世はそうでない。人民の教化はでたらめで、人民への刑罰はこと細かで、人民が進む道に迷って罪に堕ちたときには、飛んで行ってこれを刑に処す。こうして刑罰はますます煩雑となり、しかも姦邪の行いはそれ以上に増えるのである。わずか段差三尺(67.5㎝)の崖であっても、空の車は乗り越えることができない。しかし、高さ百仞(157m)の山であっても、荷物を載せた車は登ることができる。それは、坂の勾配がゆるやかだからだ。高さ数仞(10m程度)の垣根であっても、人は乗り越えることができない。しかし、高さ百仞の山であっても、子供は登って遊ぶことができる。それは、坂の勾配がゆるやかだからだ。今の世は、先王の正道がだらけてゆるやかになってしまってからずいぶんと長い年月が経ってしまっている。これでは、人民がやってはいけないことを自ずから乗り越えないように仕向けることが、果たしてそんな簡単にできるだろうか?『詩経』には、この言葉がある。:
周朝の道、平らなりしこと砥石の如し
周朝の道、真直ぐなりしこと矢の如し
これぞ君子の履(ふ)み行く所、小人も見習う所
去りし往時を顧みるれば、涕(なみだ)はらはらと流る
(小雅、大東より)
と。周朝の道は、今や遠くに去ってしまっている。なんと哀しいことではないか!」と。
・・・・・・・中略・・・・・・
この論文によると、
渋沢の儒学は徂徠学・水戸学の学統にあり、政治・社会論重視のいわゆる「荀学」の学派に属している。
荀子・徂徠学・水戸学には、為政者が利を求めることの必要性を説いたり、商業の社会的役割を是認する発想が存在したが、賤商・抑商思想も存在していた。
渋沢はこれとは対照的に抑商思想を説くことはなく、むしろ積極的に商業を正当化していた。このような態度は、儒者としても特殊である。
(そもそも儒教に基づいているのか?って指摘だ(笑) 実際、異端どころか異教でしょ。
日本の儒教って儒教じゃなくて儒教カルトだからな。その原因の1つは渋沢帰一だよ[渋沢栄一と帰一を合体させた言葉])
荀学において商業はどのように考えられているのか。それは大きく分けて三つの捉え方をされていると言って良い。まず第一は賤商・抑商思想である。商業は社会的に問題の多い産業であり、可能な限り抑制されるべきであると荀学では考えられている。例えば荀子は次のように述べる。
(「商買の数を省き」などと書いてある)
また荻生徂徠も『政談』で次のように賤商思想を展開する。
(農民の商売に変ずることは国政の上に古より大いに嫌うことだという旨)
この賤商思想は徂徠学の大きな影響を受けた水戸学にも相続されて、(以下略)
(ここまで読んでわかると思うけど、論語について論ずる資格がないんだよな、渋沢帰一)
荀学においては、民間の商業はただ抑制されるべきと考えられているわけではない。それはある程度抑制されなければならないが、同時にある程度の社会的役割を是認されたものでもある。
(この論文、荀子がいかにすごいかがわかる論文だ。渋沢帰一はおまけだ(笑))
以上、荀学においては
①抑商思想、
②為政者による経済活動の義務、
③民間の商業の社会的役割の是認の三つがあると言える。渋沢は当然のことながら、このうち①は否定ないし無視している。渋沢は民間の商業者に官僚と同等の権限・義務を与えることによって商業を正当化したが、これは②と③を融合させて商業の必要性を説いたと解釈できる。つまり商業者に為政者と同じ国家・国民を安んずる義務を与え(②)、同時に民間の商業者をより強く社会的に是認させる(③)発想である。
(一番抜いたらダメなものを抜いてるじゃん。つーか②と③の前提が①だぞ。もはや儒学のうちの、荀子派じゃねーな)
孟子には荀子ほどの商業の社会的役割を積極的に是認する主張はないが、商業がある程度は正当化されることを前提とした主張はいくつか存在している。
(書き下し文省略)
その他市場に課税することを批判する主張が他にもあるという旨に続く。
(『論語にも)「民間の商人の存在意義を認めているかのような発言がある。」とも論文にある。
「修身重視の孟子に比べて荀子は政治 ・社会論重視であったが,具体的にはそれは道徳ではなく「法」によって民を制することを重視するものである」
(そうだよね。荀子の特徴。で、渋沢は法の重視思想じゃないから荀子系思想に矛盾って主旨に続く)
「通常の儒学では,商人は一般的に 「民」に入るはずであ り,法で制せ られる対象である。これに対 して渋沢は,後に述べるように工場法や産業振興策においては,法による商業への介入を認めるものの,財閥など巨大化 した産業の抑制そのものは説かない。彼の晩年にはいわゆる「財閥悪玉論」が浮上 し,財閥の巨大化その ものが問題になっていた。 しか し渋沢のこれに対す る反応は, もっぱら商業者に道徳を説 くのみである。」
(マジで糞じゃん)
「渋沢の主張を荀学的に解析すると,彼の商業正当化論は,商業を 「上」ない し 「士」 と対等とすることによって,商業者に為政者 と同じ国家意識の義務を与え,同時に為政者と同 じだけの裁量を与える論理構造を有 している。『立会略則』で彼が明治初期に主張 した政府の市場不介入論 も,この論理構造である。政府は商業者 も臣と見なして,その主体性を認めなければならない。これを先ほどの荀子の主張に単純に当てはめると,商業者 も 「士」なのだから 「礼」で制し,「法」で制 しなくて良いということにな りうる。これは形式的には, 彼が抑商思想を説かず,商業そのものの過剰な拡大に対 して道徳 しか脱かなかったことに符合する。
しか しそれではまず第一に,彼の主張が孟学 と同様になってしまい,全ての人に道徳を説 くという修身重視の主張になる。 これは先に引用 した渋沢による朱子学批判 と完全に矛盾する。
渋沢によれば,朱子学は修身論重視であるがそれは間違いであり,儒学は本来は経世論だったはずである。民を法で制 しない経世家 とはどのような経世家であろうか。行 き過ぎた勢力は,荀学では法で制せ られるべ きと考えられるはずである。渋沢は別なところで 「孔子の説は…今日のいはゆる法治主義な り」 (渋沢 〔18〕589貫) と述べる事 もあったが,行 き過 ぎた財閥の勢力を法で制するべ きとは考えなか った彼の主張は.明らかに彼の中で も矛盾 している。渋沢は客観的に見て荀学的思想を展開していたのであったから,やはり財閥の問題に法的対処を考えるべきであったと言わざるを得ない。」
(つまり詭弁を用いているということ。意図的に詭弁を用いたのではなかったと仮定しても、そもそも財閥の巨大化を問題視しないのがダメ。結局、資本主義に好都合なことを言うのに利用しているだけじゃねーか!)
「儒教はいずれの学派であって も古代中国における伝説上の皇帝の治政を理想 としているので,未来へ永遠に発展 して行 くことを理想 とす ることはない8)。」
(進歩思想の否定)
・・・・・・・中略・・・・・
【2024年7月4日に追加:
韓非子27 「五蠹(ごと)」8
2012-06-12 10:02:39
https://ameblo.jp/yk1952yk/entry-11272330430.html
”故明主之道、 故に明主の道は
一法而不求智 法を一(いつ)にして智を求めず、
固術而不慕信。 術を固くして信を慕わず。
〔略〕
今、世間では高尚でむずかしい言葉がたっとばれ、それを使う者が
知恵者といわれる。
人をだまさない「貞信」の行為がたっとばれ、それを行う者が賢人と
言われている。
高尚でむずかしい言葉は、どんな知者でも理解しにくいものだ。
広く人民に知らせるべき法を、そんなむずかしい言葉でつくっても、
とても人民には理解することはできない。
糠(ぬか)さえ腹いっぱい食べられない者が、白米や肉を食べたい
と思うだろうか。
粗末な木綿(もめん)も着られない物が、色鮮やかな絹を着たいと
思うだろうか。
政治を行う場合にも、火急の問題が解決しないうちに、不急のことに
力を用いるべきではない。ところが、現在の政治や世間の風潮では、
どこの誰にでもわかる言葉を使わず、高尚でむずかしい言葉を使い
たがっている。これは政治の目的に反することである。
高尚でむずかしい言葉など、人民には無用の長物なのである。
もし、「貞信」な行為をたっとぶなら、人をだまさない人物を尊重する
ことになる。
それというもの、こちらに人にだまされないための術がないからである。
無位無官の者同志なら、人を利益でつる財力もないし、押さえつける
権力もないのだから、人をだまさない人物にたよりもしよう。
だが、君主とともなれば、人を統率する地位にあり、一国の財力を手に
しているのだ。
賞罰を加える実権を使って、「術」によって臣下を正体を見抜くことが
できるのだから、
たとえ相手が田常(でんじょう)や子罕(しかん)のような姦臣であろうとも、
だませるわけがない。人をだまさない人物にたよる必要がどこにあろう。
それに国中さがしたところで、「貞信」といえるような人物は十人といない。
ところが、国の官職は何百何千とある。「貞信」な人物でなければとりたて
ないとしたら、官職につかせる人間が足りなくなる。こうして、官吏が少なく
なれば、当然良民が減って、治安を乱す奴等がはびこるだろう。
したがって明君たる道は、法を統一することであって、知者を追い求める
ことではない。
術を確実に実行することであって、人の誠実さなどにたよることではない。
この方法さえ行われれば、法の効力は失われず、君主をあざむく臣下は
影をひそめるであろう。
” ※着色は引用者
『韓非子』五蠹篇に見られる世論の誘導について
nii.ac.jp
https://cgu.repo.nii.ac.jp › record › files
PDF
渋谷由紀 著 · 2022
”『韓非子』五蠹篇は、儒家思想を批判し、国家からの儒家の排斥を論じた
篇として知られている。多くの後学が編纂した篇が含まれているとされる
『韓非子』の中でも、五蠹篇は韓非本人の手になることが確実視されており、
韓非思想の中心となる篇といえる。
〔略〕
『韓非子』五蠹篇で儒者が「五蠹」、即ち国家に寄生し蝕み、やがて国家そ
のものを倒してしまう五種の「蠹」の一つである「學者」に含まれ、儒家思想が否定されているのは周知のとおりである。
〔略〕
次いで五蠹篇には、
今貞信之士不盈於十、而境內之官以百數、必任貞信之士、則人不足官、
人不足官則治者寡而亂者眾矣。故明主之衟、一法而不求智、固術而不慕
信、故法不敗、而羣官無姦詐矣。(今貞信の士は十に盈たざるに、而も
境內の官は百を以って数う。必ず貞信の士に任ずれば、則ち人官するに
足らず、人官するに足らざれば則ち治むる者寡く乱るる者衆し。故に明
主の道は、法を一にして智を求めず、術を固にして信を慕わず、故に法
は破れずして、群官に姦詐無し)
とあり、統治の実務を担わせる官吏として抜擢する対象であっても、彼らの
能力や素質に期待して登用することも韓非は否定している。「法」の基準が
一定であり、君主が臣下を統制する「術」を堅固に実践していれば、官吏に
高い知性や信頼性を求める必要はなく、官吏が悪事や汚職をすることもな
い、と述べる。その国の統治に必要な官職は数百にも及ぶのに、高い知性や
信頼性を持つ人材はその国の統治下に十人も満たないので、それを条件に人
材登用をすべきではないことが主張される。
〔略〕
以上、『韓非子』五蠹篇に見られる儒家批判と儒家勢力を削減する手段を
考察してきた。官吏が教える法令以外、民間での思想・学術活動を国家から
排除すべきと主張する点では李斯の献策と『韓非子』五蠹篇は同様の結果を
目的とするが、その状態を達成する手段は大きく異なっていたということが
できる。李斯が法規制と処罰によって強制力で儒家を含む民間の学術活動を
直接排除する手段を示しているのに対し、韓非の主張は、君主が儒者の登用
や礼遇を廃止し、民衆が功績に基づく登用、耕作と兵役での成果以外では褒
賞が得られないようにし、また一定の「法」の基準に則った信賞必罰を徹底
することにより、世論を誘導し、人民の行動変容を促すことを手段とする。
両者の差違の原因には歴史的・地理的背景の違いもあろうが、政治思想と
しての側面から考えると、民間での書籍の所蔵や「詩書」に基づく表現や議
論を法によって禁止するには、国家的、組織的に警察力や司法制度を用いて
適切に摘発・処罰し、それを持続することが必要だ。摘発・処罰に不徹底や
不公正が生じれば、法の信頼性が失われ国の統治が揺らいでしまうのは『韓非子』五蠹篇が指摘する通りである。
” ※着色は引用者
https://x.com/aoJvqLcHOrs7UWg/status/1424260773929381893
”来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
荀子読み込め
今、読み直しているがほぼほぼわしが言っている事と変わらない
だから読み込め、学が立つぞ
さらに表示
午後3:46 · 2021年8月8日
”
https://x.com/Chimaera925/status/856465797790580737 と続き
”Chimaera925/峨骨
@Chimaera925
生存戦略として自給自足や農業を選択する。それも戦略としてはいいだろう。俺は、土地やしがらみに縛られるからそれは選ばないけれども。
午後8:12 · 2017年4月24日
土地は持って逃げる事ができない。知識はどれだけ持っていても手ぶらで逃げられるけどな。本なんて本当に必要な本を何度も熟読すりゃいいだけで、大層な本棚なんて必要ない。最新の知識も取り入れてアップデートしていくのが好ましいけれども、基本的な古典を頭に突っ込んでおけば対応できる。
午後8:15 · 2017年4月24日
ペンと手帳も必須か。ひたすら着想を書き留めて、それを読み返し、不純物を取り除き精錬する。自分自身を飲み干して作り変えていく。メモ書きの他に日誌みたいな体裁で記録しておくと良い。時事もさらっと記しておくと良いな。電子データなんざ十数年後に残っているかも怪しいものだ。
さらに表示
午後8:20 · 2017年4月24日
・・・・・・・・・・・中略・・・・・・・
自分の最終的な利益や生存戦略を考えた上で大多数の意見や常識に乗っかるのはまだ理解できる。最終的な利益や生存が脅かされるようなものにわざわざ乗っかって同調していくというのは、遠回りな自殺と大して変わらない。俺が生き延びられなくても誰かが生き延びるのならば、俺は安心できるのだけれども
午後8:54 · 2017年4月24日
”
https://x.com/Chimaera925/status/570157878184509440
”Chimaera925/峨骨
@Chimaera925
虎の能く狗を服する所以は、爪牙なり。とは韓非子の言葉だが、虎、主権者の主権は爪牙のようなもので、狗、国家に規制せよ管理せよ禁止せよと命令するのは自ら爪牙を与えるようなものだ。故に国民から国家に対する命令である憲法、国家権力を監視する国民といった本来の構造とあべこべになっている。
午後6:46 · 2015年2月24日”
https://x.com/Chimaera925/status/247579733624238080
”Chimaera925/峨骨
@Chimaera925
やっと熱がひいてきた気がする。風邪か過労か解らんけど、季節の変わり目はキツいわ。食料買い出しだりィ……オートミールだけでいいや。読書とツイートは捗ったけど、家事がさっぱり。愛読書の韓非子、何回読んでも飽きんな。
さらに表示
午後3:16 · 2012年9月17日”
・・・・・中略・・・・・
韓非子
勢利紛華 勢利は権威と利益、紛華は派手できらびやかなもの
智械機巧 権謀術数や策略、謀略
午後11:08 · 2016年9月20日
マキャベリのような権謀術数の技術や人間の心理を応用した人を操る技術について屡々書いているが、これに溺れるとやがて破滅する。逮捕されたカルト教の教祖などを見ても、これらに溺れて人としての欲望の箍が外れ、人を辞めてしまっているのが解る。逮捕されずとも人として再起不能、既に破滅している
午後11:17 · 2016年9月20日
どれだけ富や権力、崇敬を集めたところで人として破滅していれば何の意味も無い。欲が人の脱け殻を着て人のように振る舞っているだけだ。当人の意思で欲し、望む事すらもはや不可能だ。
ある種の技術を学ぶ時は、それらを学ぶ前に意識や欲望のコントロールを徹底的に学ぶ。これが基礎だ。
午後11:23 · 2016年9月20日
基礎ができていないのに、面白半分で試して見て何も効果が無ければ幸いだが、効果があれば破滅の第一歩だ。やがて術に溺れて、それに依存し、傲った全能感から自制心を失い欲望に憑り殺される。自制心を持って術を使わず、日常生活を送る。これが必要最低限。それが出来ぬのに術を学ぶのは自殺行為だ。
午後11:27 · 2016年9月20日
自分は選ばれた人間だ、自分は特別な人間だ、自分は覚醒した、自分は人とは違う力を持っている、これが破滅の兆候。
午後11:32 · 2016年9月20日
欲を解放し過ぎても、欲を抑え過ぎても、人の心が解らなくなるから、ほどほどにな。
午後11:41 · 2016年9月20日
極端に欲が薄いのも困り者だ。生きる気力や活力が湧いて来なくなる。もっとも、気力や活力など無くても生きられるのだが、人の輪の中で生きるのは困難だろう。隠者となり、ひっそりと暮らすならばそれも良いかもしれないが。人間らしい振る舞いを想定して、それを模倣して人のように生きるのは辛い。
午後11:49 · 2016年9月20日
ある程度、自身の心理や意識を観察して制御する習慣が身についていれば、欲に従う事も欲あるいは対象への執着を手放す事もそれなりに自在に行えるようになる。欲や衝動が湧いた時、自身に「何故欲するのか」と問いかける。些細なものであれば答えを探す間に頭が冷めて、欲も冷める。
さらに表示
午前0:00 · 2016年9月21日
スピリチュアルやクリスチャンサイエンス、ニューエイジ、自己啓発、カルト教ではこの逆を行い欲望や自意識を増大させて破滅へ導くものもあるので、お勧めはしない。よくもあそこまで依存させ、生きた傀儡を作るようなおぞましい手口を広めようと思うものだ。良いことだと思っているなら救いようがない
午前0:13 · 2016年9月21日
基礎の出来ていない者に誤った術を教えたり、不安を煽り終末思想とセットで特権意識や選民思想を植え付け教義に依存する宗教ゾンビにしたりと、軽蔑に値する。中には宗教ではなく科学のように見せかけた宗教、神学もある。法衣を脱いだペテン師どもは科学者の装いでやってくるから要注意だ。
午前0:25 · 2016年9月21日
信じて実践したことで一時は救われた気になっても、本質的に救われないからこそ、その商売は成り立つ。そして本質的に救われないからこそ人はそこにしがみつく。それに費やした金や時間、精神、肉体それらが大きければ大きいほど、それへの執着や依存、あるいはそれを手放す事への不安や恐怖が増大する
午前0:34 · 2016年9月21日
だからこそ、それらとの縁を切らせたり洗脳を解くというのは非常に難しい。ブッ壊したり自身に依存させるだけならば、そこまで難しいものでもないだろうが、根本的な解決にはならない。まして、その為に対象の人と接すれば感化される危険性もある。無意識下で人は影響し合うからな。
さらに表示
午前0:44 · 2016年9月21日
”
https://x.com/Chimaera925/status/795195101668462592 と続き
”Chimaera925/峨骨
@Chimaera925
優生思想なのは言うまでもないが、本来、国民の権利である健康にノルマを履かせて義務化して、ノルマ未達成者を差別する。でたらめだ。
http://m.huffpost.com/jp/entry/12664276
午後6:24 · 2016年11月6日
何もかもが逆さまだ。国民の国家権力に対する命令である憲法が国民に対する命令となり、権利が義務となり、生活する為の労働が労働の為の生活となる。これらは戦後間もなくから行われて来た。面倒な手続きや主権を代理人に任せている内に骨抜きにされ、代理人が主のように振る舞うようになる。
午後8:13 · 2016年11月6日
韓非子にも似たような話があったな。出先故、手元に無いが大体どれくらい頁を捲ればその記述があるかは思い出せる。
午後8:15 · 2016年11月6日
”
・・・・・・・・中略・・・・
言葉を尽くして、それより先へ進めなくなるまでは自身や他者に問い、仮説を立て、検証し、僅かながらでも確信を積み重ねていく必要がある。言語化できなくなるまで。非言語の神秘やスピリチュアルから入ると魔境だからな。妄想と確信の区別が付かなくなって、「よつあしいい、ふたつあしだめ」になる。
午前2:27 · 2017年8月14日
主観からどれだけ離れようとして客観視しても、客観視しているのは自身だから自身の物差しを離れられない。物差しなんぞ、世の中にいくらでもあるし、その平均値が真実でもない。真実など誰にもわからない、だがそれに近づこうとする事は出来る。人の数だけあるってのは嘘っぱちだからな。解釈は別だが
午前2:30 · 2017年8月14日
主観100%の神秘なんて、本当に毒にしかならんよ。自分が体験したから正しい、真実なんてな。確かにお薬やって生じた妄想をそれを体験した真実だと脳が嘘吐くことはあるだろうよ。脳って結構バカだからな。薬なんぞ無くても条件整えれば誰でも再現できる。記憶も改竄し放題だしな。神秘は先ず殺せ。
午前2:40 · 2017年8月14日
・・・・・・・中略・・・
Chimaera925/峨骨
@Chimaera925
False flagでも言わされるんだよな。ショックドクトリンからの民意捏造。勝ち馬、主流派(に見えるだけ)に乗りたい奴やヒステリー起こした奴がホイホイ飛び付く。
さらに表示
午前8:48 · 2018年3月10日
肉屋の主人が用意した肉の特売のチラシを見て、「腹一杯肉が食べられる」と肉屋の主人を讃える動物農場の動物達。
午前8:51 · 2018年3月10日
Chimaera925/峨骨
@Chimaera925
受動的な日本人は共産主義者の素養がある。企業やマスコミの声である場合もあるけど、何かあると直ぐに国家へ規制しろ監視しろと他人の人生にまで介入を求める。福祉にせよ権利にせよ国家に保護を求めて管理されたがる。自由からの逃走だ。資本家が独裁者になれば動物農場と変わらん。
さらに表示
午後0:23 · 2012年10月9日
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり
とりあえず「国家なり集団を信じるな」ってのは大事。
天皇だろうが、国家だろうが、法皇だろうが、「己のオールを手放すな」
お読みくださりありがとうございます。