より
上記文抜粋 ・・・・・・・・・・・・・ 資本主義の中の居心地の悪さ
辛いものがあるな、こういう文を読むと。
◾️松下新土「あなたは生きなくてはならない パレスチナ・ノート」序、2025.01.06
ほんとうは知っているのだ。もっと多くの人が。 パレスチナで今、何が起きているのかを。 この地上で、まさに今、大量殺戮に見舞われている人たちがいるということを。 ほんとうは、知っているのだ。 私たち自身の町の、路上で生活する人の姿から。削りとられ、要塞化する島と海の姿から。 私たちは感じている。 私たちの耳には、無数の叫びが届いている。 それなのに、私たちは、じぶん自身が滅ぼされそうになっているせいで、ときに他者の手をとることができなくなってしまう。 ある彫刻家は、「個人はみな絶滅危惧種という存在」といった。 生きているだけで、息をするだけでも必死だ、という人たちが、じつはこの社会の大半ではないだろうか。 私もその一人だ。 私は自死と戦っている。私の友だちも、家族も、自死と戦っている。私はこの戦い、この抵抗を、恥ずかしいことだとまったく思わない。
なぜ「個人はみな絶滅危惧種」になってしまったのか。 直接的にこの問いの答えとするわけでは毛頭ないが、いま松下新土くんの文章を読んで思い起こした次の二文を掲げておく。
…社会的生産様式を支えるメカニズムに対する具体的な洞察。決して誇張ではない、次のように主張することは。すなわち「資本主義の中の居心地の悪さ(Das Unbehagen im Kapitalismus)」のほうが「文化の中の居心地の悪さ(Das Unbehagen in der Kultur)」より適切だと。というのは、フロイトは抽象的な文化を語ったのでは決してなく、まさに産業社会の文化を語ったのだから。強欲な消費主義、増大する搾取、繰り返される行き詰まり、経済的不況と戦争によって徴づけられる産業社会の文化を。フロイトの無意識理論に伴う認識論と政治的問題の結びつきは、資本主義が精神分析にとって重要な問題の一つであり、臨床実践が資本主義的享受様式と呼べるものの病理に絶えず直面していることを示唆している。ラカンは、次の力強い発言でこの点を強調した、「聖人となればなるほど、ひとはよく笑う。これが私の原則であり、ひいては資本の言説からの脱却なのだが、ーーそれが単に一握りの人たちだけにとってなら、進歩とはならない(Plus on est de saints, plus on rit, c'est mon principe, voire la sortie du discours capitaliste, - ce qui ne constituera pas un progrès, si c'est seulement pour certains.)」(Lacan, Télévision, AE520, Noël 1973) …specific insight into the mechanisms that support the social mode of production. It is not exaggerated to claim that Das Unbehagen im Kapitalismus, discontent in capitalism, would be the more appropriate title of Das Unbehagen in der Kultur, discontent in culture, since one can hardly ignore that Freud never speaks of some abstract culture, but precisely of industrial societies marked by insatiable consumerism, intensified exploitation and recurring breakdowns, economic depressions and wars. The nexus of the epistemological and the political problematic that accompanied the Freudian theory of the unconscious suggests that capitalism belongs among the crucial problems for psychoanalysis and that clinical practice constantly confronts the pathologies of what one could call the capitalist mode of enjoyment. Lacan brought out this point in the following emphatic remark: “The more saints, the more laughter; that's my principle, to wit, the way out of capitalist discourse—which will not constitute progress, if it happens only for some” (Television 16). 精神分析と資本主義の関係は、これほどあからさまに敵対的な形で位置づけられることはまずないだろう。精神分析は資本の言説の裏側であり、その対立する裏表であり反転である。つまり、精神分析の内的境界であり、資本の言説が不安定化、妨害、反転される可能性がある点である。これは明らかに、精神分析がすでに資本主義の外に立っているとか、その支配形態から抜け出す方法についての積極的な知識を持っているということを意味するのではない。しかし、精神分析は、フロイトによって発明され、ラカンによって再発明されたように、資本主義との直接の対決を避けず、マルクスの政治経済学批判によって開始された路線を追求すること、つまり資本主義的生産様式を支える外観を不安定化させ、資本主義的社会的つながりをその不可逆的な矛盾の中で想定できる点をマークすることにあることを示唆している。ラカンの言葉を借りれば、「労働者は、疑いもなく、このシステムの真実であるこの対立要素の聖地である」(セミナー XVI 39)。この対立要素、つまりマルクスとフロイトの両者が生産的な社会的労働と無意識の労働で遭遇した主体を資本主義的搾取戦略に対抗して動員することは、精神分析と政治経済批判の共通の取り組みであり、だからこそ、精神分析家は誰も次の問いに無関心ではいられないのだ、すなわち「資本の言説からの脱却をすべての人のために実現するにはどうすればよいのか?」 The relation between psychoanalysis and capitalism could hardly be situated in a more openly antagonistic way. Psychoanalysis is the envers of the capitalist discourse, its conflictual flipside and inversion—which means its internal border and the point where the capitalist discourse can be destabilised, sabotaged and inverted. This clearly does not mean that psychoanalysis already stands outside capitalism, or that it possesses positive knowledge of how to break out of its forms of domina-tion. But it does suggest that the imperative of psychoanalysis, as it was invented by Freud and reinvented by Lacan, consists in not shying away from direct con-frontation with capitalism and in pursuing the line initiated precisely by Marx's critique of political economy: to destabilise the appearances that sustain the capitalist mode of production and to mark the point, from which the capitalist social link can be envisaged in its irreducible contradiction. In Lacan's words, “Without any doubt, the worker is the sacred place of this conflictual element, which is the truth of the system” (Seminar XVI 39). To mobilise this conflictual element—namely the subject that both Marx and Freud encountered in productive social labour and in unconscious labour—against the capitalist strategies of exploitation is the shared effort of psychoanalysis and the critique of political economy, which is why no psy-choanalyst can be indifferent to the question: How can the exit from the capitalist discourse be brought about for all? (サモ・トムシックSamo Tomšič: Laughter and Capitalism, 2015, pdf)
21世紀の象徴秩序…それはフロイトが「文化の中の居心地の悪さ」と呼んだものの成長、ラカンが「文明の行き詰まり」として解読したものの成長とともにある。 それは20世紀を置き去りにし、世界における我々の実践を更新し、二つの歴史的要因によって存分に再構成された。つまり科学の言説と資本の言説である。現代のこの支配的言説は、その出現以来、人間の経験の伝統的構造を破壊し始めている。それぞれが他方に依存しているこれら 2 つの言説の複合的な支配は、伝統の最も深い基盤を破壊し、おそらく粉砕することに成功するほどの規模になった。 我々が目にしているのは、象徴秩序に起こった大変動にともなう、その礎である父の名のひび割れである。ラカンが極めて正確に述べたように、伝統による父の名は、科学と資本主義の二つの言説の組み合わせによって影響を受け、価値を下げられたのである。 L'ordre symbolique au XXIème siècle …de ses coordonnées inédites au XXIème siècle, au moment où se développe ce que Freud appelle : « Le malaise dans la culture », que Lacan lira comme les impasses de la civilisation. Il s'agit de laisser derrière soi le XXème siècle, pour renouveler notre pratique dans le monde, lui-même suffisamment restructuré par deux facteurs historiques, deux discours : le discours de la science et le discours du capitalisme. Ces discours dominants de la modernité ont commencé, depuis leur apparition, à détruire la structure traditionnelle de l'expérience humaine. La domination combinée de ces deux discours, chacun s'appuyant sur l'autre, a pris une telle ampleur qu'elle a réussi à détruire, et peut-être à briser, les fondements les plus profonds de la tradition. Nous l'avons vu, …avec le bouleversement survenu dans l'ordre symbolique, dont la pierre angulaire, le Nom-du-Père, s'est fissurée. Et, comme le dit Lacan avec une extrême précision, le Nom-du-Père selon la tradition, a été touché, dévalué, par la combinaison des deux discours, celui de la science et celui du capitalisme. (ジャック=アラン・ミレール、21世紀における現実界 JACQUES-ALAIN MILLER, LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE , 27 avril 2012 )
…………………… 以下、附記的に続ける。
◾️ミアシャイマー「トランプとロシア・中国同盟」2025年1月3日
Prof. John Mearsheimer : Trump and the Russia/China Alliance.
in an interview with Judge Napolitano, January 3, 2025.
in an interview with Judge Napolitano, January 3, 2025.
西洋から外に出ると、ほぼ全員が米国とヨーロッパ諸国は道徳的に破綻していると考えると思う。 つまり、私は言葉を注意深く選んで言いますが、私たちはガザでのジェノサイドを支援しているのです。これは人々が毎日コンピューターやテレビで見ているジェノサイドです。ですから、ガザで何が起こっているのかは正確にわかっています。そして、その偽善にはただただ驚いています。 西洋は、自分たちが道徳的に高潔であり、私たちが例外的な国であるという事実を大々的に宣伝しています。私たちはより高く立ち、より遠くを見ている、と。そして、私たちがジェノサイドの共犯者であるという事実を考えると、それは極度の偽善のように見えます。ですから、西洋以外の人々は、私たちが道徳的に破綻していることを十分に理解していると思う。 そして、西側諸国の中にも、中東問題に関して、私たちが道徳的ジャイロスコープを適切に設置しているという希望を失い始めている人々が大勢いると思う。 I think once you get outside of the West, almost everybody thinks that the United States and the Europeans are morally bankrupt. I mean, we are supporting—and I'm choosing my words carefully here—we are supporting a genocide in Gaza. It's a genocide that people see on their computers and on their TVs on a daily basis. So they know exactly what's going on here, and the hypocrisy is just quite stunning. Because the West makes a big deal of the fact that it is morally virtuous, that we are, you know, an exceptional Nation—we stand taller, we see further. And when you think about the fact that we're complicit in a genocide, I mean, it looks like hypocrisy in the extreme. So I think outside the West, people understand full well that we are morally bankrupt. And I think even inside the West, there are lots of people who have just begun to lose hope that we have our moral gyroscopes in place when it comes to dealing with the Middle East.
《私たちはより高く立ち、より遠くを見ている》とあるのは、マデレーン・オルブライトの言葉 だが、ミアシャイマーはこのフレーズを一月前にも使っている。
◾️John Mearsheimer vs Alexander Dugin: All You Need to Know About China, Russia and the US December 4, 2024.
ミアシャイマー:我々はより高く立ち、より遠くまで見ている。我々はロシア人が本当に何を考えているのか、あるいは何を考えるべきかを知っている。そして彼らが何を考え、考えていると言うかは、それほど重要ではない。そのような考え方で行動していると、大変な問題に巻き込まれることになる。だからこそ、我々はウクライナだけでなく中東でも大変な問題を抱えているのです。 We stand taller and we see further. We know what the Russians really think or what they should think. And what they think and say they think just doesn't matter that much. When you're operating on those kinds of lines of thought, you're going to get yourself into a lot of trouble. That's why we're in a lot of trouble, not just in Ukraine, but in the Middle East as well.
いま重要なのはネタニヤフやその仲間たちを非難することではない(それでは西洋社会の免罪符になってしまう)。そうではなく、何度も何度も問い直すことだ、ジェノサイドを支援し続けている西洋文明とは何なのか、と。例えば、結局500年続いた植民地主義文明ではなかったのか、と。 ◾️プーチンーードミトリー・キセリョフによるインタビュー Vladimir Putin answered questions from Dmitry Kiselev.March 13, 2024 The Kremlin, Moscow
肝心なのは、このいわゆる「黄金の10億人」が、何世紀にもわたって、500年もの間、他の民族に寄生してきたということだ。〔・・・〕彼らは何世紀にもわたって、腹を人肉で満たし、ポケットを金で満たしてきた。しかし、彼らは、吸血鬼の舞踏会が終わりに近づいていることに気付かなければならない。 The point is that this so-called "golden billion" has been practically parasitising on other peoples for centuries, 500 years.(…) They've spent centuries filling their bellies with human flesh and their pockets with money. But they must realise that the vampire ball is ending.
◾️ラブロフ:於国際フォーラム「プリマコフ読書会」 Foreign Minister Sergey Lavrov’s remarks and answers to media questions at the Primakov Readings International Forum, Moscow, November 27 2023
私たちは西側諸国の新植民地主義的本能を目の当たりにしている。 500年以上にわたってそうしてきたように、他者を犠牲にして生き続けたいという願望である。 この時代が終わろうとしていることは誰の目にも明らかだ。 彼らはそれを自覚している。 We are witnessing neo-colonial instincts in the West. There is a desire to continue living at the expense of others, as they have been doing for over 500 years. It is clear to everyone that this epoch is coming to an end. They are aware of that.
植民地主義などもはやない!などと言う勿れ。現在はより巧妙な「債務新植民地主義」あるいは「新自由主義」になっている。 ◾️新植民地主義との闘いの問題について アナトリー・アントノフ 駐米ロシア連邦大使 2024年7月17日 On the Issue of Struggling Against Neocolonial Practices Anatoly I. Antonov, the Russian Federation Ambassador to the United States July 17, 2024
西側資本は、世界のさまざまな地域での地政学的プレゼンスを維持するために、「債務新植民地主義」のメカニズムに積極的に頼っている。環境保護と気候変動との戦いを装い、いわゆる「黄金の10億人」にのみ利益をもたらす「グリーン帝国主義」という概念を偽善的に推進している。西側IT企業の独占を強化するために、技術格差は意図的に拡大されている。西側が管理する情報空間では、西側の確立された物語に反する出版物はタブーとなっている。〔・・・〕 In order to preserve their geopolitical presence in various regions of the world, Western capitals actively resort to the mechanisms of “debt neocolonialism.” Under the disguise of environmental protection and fight against climate change, they hypocritically promote the concepts of “green imperialism” which only benefit the so-called “golden billion.” The technological divide is being deliberately enhanced to consolidate the monopoly of Western IT corporations. There is a taboo on any publications contradicting the established Western narrative in the information space controlled by them.(…) 新植民地主義のもう一つの症状は、伝統的な精神的、道徳的価値観を損なう新自由主義的態度の積極的な押し付けである。それは、ジェンダーの多様性や麻薬の合法化を含む破壊的な議題を推進することである。とりわけ、ワシントンの後援の下で組織されたいわゆる「民主主義サミット」は、米国の対外統制および主権国家の内政への干渉のツールキットを更新するため、また米国で「独裁国家」とレッテルを貼られている人々との戦いのためである。 これらの事実は、真の植民地主義者が誰であるかを明確に示している。少数派を代表する西側陣営は、新植民地主義的慣行(いわゆる「ルールに基づく秩序」を含む)を押し付けること、および誰かに責任を負わせようとする試みの無益さを理解するべき時が来ている。 Another symptom of neocolonialism is the aggressive imposition of neoliberal attitudes to the detriment of traditional spiritual and moral values. It’s about pushing a destructive agenda, including gender diversity and legalization of drugs. Among other things, the so-called “summits for democracy” organized under the auspices of Washington in order to update the U.S. toolkit of external control and interference into the internal affairs of sovereign states, as well as the fight against those who are labeled here in the United States as “autocracies.” These facts clearly point at who remains the true colonizer. It is high time for the Western camp, representing the minority, to understand the futility of imposing neocolonial practices (including the so-called “rules-based order"), and any attempts to lay the blame on someone else.
これこそ「資本主義の中の居心地の悪さ」の最たる現象である。
欧米資本主義ほど「悪性の」強制加入力を持つ人間的事象は他にほとんど類をみないことである(一九八九ー九〇年にはついにこの力の場の中に"社会主義"諸国がよろめきつつ引き入れらた)。(中井久夫『治療文化論』1990年)
今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収、2005年)
「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009年)
柄谷行人はもちろんだが、中井久夫は「資本主義の中の居心地の悪さ」について考え続け、そこから脱却するにはどうしたらいいのかを問い続けた精神科医だった。
個人にとって、強大な帝国の支配下にあるのと、乱世といずれが幸福かは、にわかにいうことができない。さらにいえば、歴史は、四大河流域における文明の勃興をなお善であり、進歩とするが、しかし、生涯をピラミッドの建設や運河の掘削に費やす生活と森の狩猟採集民の生活とのいずれを選ぶかは答えに窮する問題である。「桃源郷」は前者が夢見た後者であろう。(中井久夫「治療文化論再考」1994年)
資本=ネーション=国家を越える手がかりは、やはり、遊動性にある。ただし、それは遊牧民的な遊動性ではなく、狩猟採集民的な遊動性である。定住以後に生じた遊動性、つまり、遊牧民、山地人あるいは漂泊民の遊動性は、定住以前にあった遊動性を真に回復するものではない。かえって、それは国家と資本の支配を拡張するものである。〔・・・〕交換様式Dにおいて、何が回帰するのか。定住によって失われた狩猟採集民の遊動性である。それは現に存在するものではない。が、それについて理論的に考えることはできる。(柄谷行人『柳田国男と山人 』2014年)
人類はエデンの園にいたとき、いわば原遊動的な状態にあった。しかし、それは定住化とともに失われ、A・B・Cが支配する社会が形成された。ゆえに、エデンの園に戻ることが目指される。それがDであるといってもよい。(柄谷行人『力と交換様式』2022年)
古代都市の成立は、技術史家ルイス・マンフォードによれば、すでに人力による巨大機械の成立であり、今日まで連続する事態であるという。逆に見みれば、古代都市の成立あるいは一般に civilisation とは、人類文化の人間個体への一身具現性の急激な低下である。医師はより古い層より出て、この一身具現性を少なくとも最近まで残していた。特に精神科医は、その意味でも王や売春婦とともに"人類最古の職業"といいうるであろう。医療が"技術"といら言葉に尽しえないものを持ち、このことばに感覚的にもなじみえないのはそのためであろう。売春婦の”技術" がきわめて一身具現的であるのにやや劣るとしても(筆者は戯れに言うのではない。下位文化としての"治療文化" 全体を問題にしているのだ、古代中東の神殿売春を特筆するわけではないが)。(中井久夫「西洋精神医学背景史」『分裂病と人類』所収、1982年)
・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・ 抜粋終わり
民主主義やLGBTQも正論ですけど、それを画一化して押し付けたのなら、ただの植民地主義の道具になる。
西洋から外に出ると、ほぼ全員が米国とヨーロッパ諸国は道徳的に破綻していると考えると思う。 つまり、私は言葉を注意深く選んで言いますが、私たちはガザでのジェノサイドを支援しているのです。これは人々が毎日コンピューターやテレビで見ているジェノサイドです。ですから、ガザで何が起こっているのかは正確にわかっています。そして、その偽善にはただただ驚いています。 西洋は、自分たちが道徳的に高潔であり、私たちが例外的な国であるという事実を大々的に宣伝しています。私たちはより高く立ち、より遠くを見ている、と。そして、私たちがジェノサイドの共犯者であるという事実を考えると、それは極度の偽善のように見えます。ですから、西洋以外の人々は、私たちが道徳的に破綻していることを十分に理解していると思う。 そして、西側諸国の中にも、中東問題に関して、私たちが道徳的ジャイロスコープを適切に設置しているという希望を失い始めている人々が大勢いると思う。
道徳・倫理の崩壊は、信用の失墜になる。
その道徳・倫理の腐敗は、西側の中にいたらわかりにくい。腐肉の中でいたらその腐臭にきづかないように・・・。 天皇の無責任という腐肉の腐臭も同様に・・・
「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009年)
ネオコン・ネオリベは、思想的には無道徳なだけの強欲に過ぎない。。
天皇の無い 蒼い空を取り戻す
慈悲と憐みに富む社会になりますように