ちょっと気になる事。


国家の構造を変えるのは、結構大変です。

庶民も問題だけど、一番はその「構造」で富や権力を得ていた人たちの処遇ですよね。

こういう話を思い出す・・・・



 リンカーンの奴隷解放と劉秀の奴婢解放の違い
 劉秀の奴婢解放はしばしばアメリカ大統領リンカーンの奴隷解放と比較される。そして時代の古さから、劉秀の奴婢解放はリンカーンの奴隷解放と違い政治的なものとされる。しかし真相は真逆である。
 リンカーンの奴隷解放は明確な政治的な目的によるものである。リンカーン自身は確かに奴隷制反対の立場であったが、あくまでも国家の統一を優先し、南部が合衆国に戻るなら奴隷解放はしなくてもよいと考え、その意思を何度も南部に伝達していた。
 それが変更されたのは外交の問題である。南北戦争が長引くと、経済も人口も劣勢な南部が善戦していることに対して諸外国から同情が集まり始めていた。イギリス、フランスなどのヨーロッパ諸国が介入する気勢を見せていたのである。
 それを封じるための政治戦略が奴隷解放であった。南北戦争を正義の戦争であると定義し、南部を奴隷制を持つ道義的に劣った存在とすることで、イギリス、フランスに南部を援助させないようにしたのである。これが功を奏し、イギリス、フランスともに南部を支持することなく、リンカーンは南北戦争を終結させることに成功したのである。
 それに対して劉秀の場合はどうか。当時の状況を見てみよう。
 新末の農民反乱の猛威に、豪族は自衛のために独立勢力となって、地方を割拠し、天下は分裂する。劉秀の統一に抵抗した政権のほとんどが豪族連合政権であった。特に蜀の公孫述政権、隴西の隗囂ともに典型的な豪族政権であった。
 蜀と隴西は戦乱の少ない新天地であり、中原の大混乱を避けたたくさんの避難民が流れ込んでいた。着の身着のままの難民は資産もなく土地もない。新しい土地で地元の豪族に奴婢として使役される身分に甘んじざるを得ない。公孫述と隗囂の政権では、無数の奴婢が使役されていた。
 ところが劉秀政権は奴婢の解放を早々と宣言し、その待遇改善を実行していた。公孫述、隗囂から見れば、兵員の八割以上が銅馬、赤眉、緑林の三大農民反乱軍から構成され、奴婢の解放と保護を宣言し、馬武、臧宮、王常といった緑林の将軍まで現役で活躍している劉秀政権は、農民軍政権そのものとしか映らなかったであろう。
 公孫述と隗囂の政権にとって劉秀に降伏するということは、その財産を大量に没収されることを意味していた。そのため公孫述も隗囂も劉秀の六分の一にすら満たない勢力であるのに、徹底抗戦を展開し、全滅するまで戦い続けたのである。劉秀の奴婢解放は統一戦争の妨げになっていたことがわかる。
 しかも当時の中国には道義的な理由で介入するような外国は存在しない。劉秀の奴婢解放は、実際の政治政策としては死傷者を増やす誤った政治戦略であったことがわかる。リンカーンの奴隷解放とはすべての意味で真逆なのである。
 もし奴婢解放をするのなら、天下統一後にすればこうした抵抗はなかったはずである。ではなぜ劉秀は皇帝に即位するとすぐに奴婢の解放を始めたのか。それは劉秀の政権の兵力のほとんどを銅馬、赤眉、緑林の三大農民反乱軍が占めているということにある。
 飢饉のために飢えに苦しんだ農民には、二つの選択肢があった。土地を捨てて流浪し農民反乱軍に加わるか、豪族に身売りして奴婢に転落するかである。このとき反乱軍に加わるのは壮年の男子が多く、女子供は豪族に売られることが多かった。劉秀の率いる兵士たちの妻子は、豪族に買い取られて奴婢に転落している者が多かったのだ。
 劉秀は常に自ら先頭に立って戦い、直接に兵士を率いていたから、当然、彼らの悲しみや悲劇を良く知っていた。夜な夜な妻子を想って涙する兵士がいることを。劉秀は自分の兵士たちの、家族に再会したい、家族とともに暮らしたいという願いを叶えるために、奴婢の解放に踏み切ったということなのである。
 劉秀自身、皇帝に即位してそれから洛陽を陥落させてやっと、妻の陰麗華、姉の劉黄、妹の劉伯姫と再会できた。家族との再会の喜びを自分だけが味わうことは許されないと考えたのであろう。そのため劉秀は皇帝に即位するとすぐに奴婢の解放を始めたのである。

>公孫述と隗囂の政権にとって劉秀に降伏するということは、その財産を大量に没収されることを意味していた。

「派遣業」で儲けたり、それの絡みで巨万の富を築いた人たちも、派遣法を改革以前に戻すと「その財産を大量に没収される」って富裕層も大変多いでしょうね・・・。




平等を目指す戦い・土地調査を始める

だが真の平等はただ法律で規定し、それを強制するだけで達成されるものではない。奴婢の多くは経済的格差が生み出したものなのだ。社会学者ケビン・ベイルズは、人類の歴史で奴隷人口が一番多い時代は古代でも中世でもなく、すべての国で奴隷制が禁止されている現代であることを指摘している。人権の平等は、経済の平等の上にこそ実現する理想なのである。
 真に平等な社会を作るには、経済を正しく把握する必要がある。
 こうして始まったのが度田、建武十五年(西暦39年)の全国の土地人口調査である。劉秀は州や郡に命じて全国の田畑の面積、人口や戸数、年齢の調査をしたのだ。詔して、州郡の開墾された田畑と戸数と年齢を取り調べ、二千石の官吏で上官におもねるもの、民衆をしいたげているもの、あるいは不公平なものを調べた。
 だがここで劉秀の改革は重大局面を迎える。ここまで軍備、税制、法律などを大胆に改革を続けた劉秀であるが、強力な反動が来たのである。
 調べる主体である刺史や太守に不公平な者が多くおり、豪族を優遇し、弱いものから絞り取り、大衆は怨み道に怨嗟の声が広がった。刺史や太守の多くが巧みに文書を偽造し、事実を無視し、田を測るのを名目にして、人々を田の中に集めて、村落の家々まで測ったので、人々は役人を道を遮って泣いて懇願した。
 このとき各郡からそれぞれ使者が来て結果を上奏していた。陳留郡の官吏の牘の上に書き込みがあった。「潁川、弘農は問うべし、河南、南陽は問うべからず」とある。
 劉秀は官吏に意味を問い詰めたが、官吏は答えようとせず、長寿街でこれを拾ったと嘘をついた。劉秀は怒った。
 このとき後の明帝、年は十二歳の東海公の劉陽が、帷幄の後ろから言った。「官吏は郡の勅命により、農地を比較したいのです」
 陳留郡の使者は、自分たちの作為の数字を潁川郡、弘農郡と比較して妥当な数値に収まっているか確認するように指示されていたのである。劉秀は言う。
「それならば何ゆえ河南と南陽は問うてはならぬのか」
「河南は帝城であり、大臣が多くいます。南陽は帝の郷里であり、親戚がいます。邸宅や田畑が制度を越えていても基準を守らせることはできません」
 河南と南陽は問うなとは、この二つは例外地域で法外な数値を出しているに決まっているから、真似して数値を作ると痛い目に遭うから注意しろと指示されていたのだ。劉秀は虎賁将に官吏を詰問させると、官吏はついに真実を述べたが、劉陽の答えのとおりであった。これにより謁者を派遣し刺史や太守の罪を糾明した。
 この結果たくさんの地方官が事件に連座した。河南尹張伋や各郡の二千石級の大官が虚偽報告などで罪を問われ、十数人が下獄し処刑されて死んだ。
 他にも鮑永、李章、宋弘、王元といった重臣までが虚偽報告に連座しているが、最も大物は首相級というべき大司徒の欧陽歙である。
 欧陽歙は汝南で千余万を隠匿した罪で牢獄に収監された。当代最高クラスの学者としても知られる欧陽歙の投獄に、学生千人あまりが宮殿の門まで押しかけて罪の減免を訴えた。ある者は髭を剃ったりした。この時代、髭を剃るのは犯罪者への刑罰としてだけであり、当時としては過激な行為である。平原の礼震という者は自らが代わりに死ぬので欧陽歙を助けて欲しいと上書した。劉秀の旧知でもある汝南の高獲は、鉄の冠をかぶるなど罪人を格好をして減免を求めて門に現れた。
 これはおそらく世界初の学生デモである。劉秀のような評判のよい君主が学生デモの対象となったのは興味深い。このとき劉秀と高獲との会話が残っていることから、劉秀は学生たちと対話したようである。しかし結局、劉秀はこうした抗議に対して断固とした態度をとり続け、欧陽歙は獄中に死ぬことになる。

豪族のゲリラ戦と皇帝の謀略戦
 劉秀に衝撃だったのは、建国の功臣である劉隆(二十八星宿十六位)も不正に連座したことで、周囲の者十数人を処刑し本人も庶人とせざるを得なかった。翌年に劉隆が南越討伐に派遣されているのは、その汚名払拭のためのようだ。
 劉秀の断固たる措置に汚職役人は打撃を受けたが、すると今度は郡や国の名門、豪族、群盗が次々と挙兵し、いたるところを攻め官吏を殺害した。汚職役人を粛清したところ、汚職役人と結託した土着豪族が、新しく刷新された役人を殺戮し脅迫を始めたのである。郡や県が軍を出して追いかけて討伐すると、軍の到着とともに解散し、軍が去れば集結した。ゲリラ戦を展開したのである。青州、徐州、幽州、冀州が最もひどかった。
 このゲリラ戦の戦い方は明白に農民反乱とは異なる。農民反乱は山林に集合して流浪するのであるが、この反乱では帰るところがあるのだ。それはもちろん豪族の邸宅である。かつて南陽で侠客として知られた劉秀の兄の劉縯は、殺人事件を犯すなど問題が多かったが、多数の武装した食客を抱えていたため、役人たちも恐れてその門をくぐることが出来なかった。このゲリラ戦は、典型的な豪族のやり口であることがわかるだろう。軍が到着しても、地元の役人は恐れてどこに逃げ込んだのか申告できなかったのである。
 今回の土地調査を、地方の豪族支配に対する中央政府による重大な挑戦と見なした豪族が、レジスタンス、あるいはサボタージュ作戦を始めたのだ。劉秀政権は挙兵当初より民衆反乱軍を自らの基盤にして、敵対する豪族政権を掃討して天下統一し、その後も一貫して民衆側に立った政治を進めていたが、ここでもまた豪族側の抵抗が始まったのである。
 劉秀は謀略を用いて対応した。使者を郡国に派遣し、群盗が仲間を訴えて五人につき一人を斬ればその罪を免除した。官吏で現地に赴任せずに道中で待機した者、敵から逃げた者、敵を放した者も、みな罪を問わず、これから敵を討って捕らえれば功績とした。現職の牧、太守、県令、亭長で、境界内の盗賊を捕らえなかった者、恐れて城を他人に任せて逃げた者、みなその責任とせず、ただ賊を捕らえた数の多少を重要とし、かくまったもののみを罪とした。
 さらにかつて赤眉戦で鄧禹軍随一の猛将と知られた張宗を派遣すると、その武威を恐れ、お互いを斬り捕まえて降伏するものが数千人となり、青州、徐州は戦慄した。
 こうして賊は次々と解散した。賊の首領を他の郡に遷し、公田を与えて生業につかせた。これより平和が訪れた。牛馬は放牧され邑の門も閉ざされることはなくなったと伝えている。
 この豪族反乱は、豪族が指導者とはいえ実行部隊は一般民衆である。劉秀はそこで豪族をねらい打ちにするため、かくまった者の罪を問い、首領である豪族の力を奪うため、豪族を他の郡へと転居させて民衆との連結を断ち切り、民衆の罪は問わないで済むようにしたのである。
 劉秀得意の敵を分裂させて自滅させる謀略を採用したのである。この謀略であるが、情報戦の達人耿弇の助言があったかもしれない。というのは、耿弇は列侯として朝廷におり、問題が発生するたびに顧問として策略を献じたとされ、しかも乱の発生した青州こそは、耿弇がかつて平定した張歩の領域だからである

史家もまた豪族であること
 この土地調査については、失敗に終わり二度と実施されなかったと伝統的に解釈されてきた。その理由はただ土地調査についてこの後にまとまった記述がないこと、劉秀が豪族出身であるという先入観のためであった。しかし近年の研究の結果その評価は反転し、土地調査は大成功であり、後漢では定期的に行われるようになったとするのが有力だ。
 たとえば『後漢書』五行志には建武十七年(西暦41年)のこととして「各郡は新しい税が定まった後であったため(諸郡新坐租之後)」とあり、この土地調査の後に新しい税制が全国的に施行されたことがわかる。また『武威漢簡』には建武十九年(西暦43年)の記録に「度田は五月に行い、三畝以上の隠匿については……」という記録がある。さらに次の明帝の時代には田畑を過大に申告して、役人が統治成績を高く申告しようとして処罰されるというケースが劉般伝に記載されている。その次の章帝の時代には、秦彭が田畑の質を三段階に区分して測るにように進言し、それが採用されてさらに精密化していくのである。
 土地調査についてまとまった記述がないのは、史家自身が土地調査によって取り締まられる大土地所有者であり、この画期的な政策も、儒家の視点では論ずるに値しない法家的な政策として無視されたためなのである。
 そもそも劉秀の統治下では、豪族の弾圧や取り締まりの記事が歴史的に希有なほど多く、酷吏伝を中心に十七件もの記録がある。それほど劉秀は豪族と激しく対立していたのである。
 二十世紀の歴史研究者は、劉秀は豪族に迎合し法を曲げたと非難していた。ところが史書では儒家の歴史家が、劉秀は法を苛烈に運用して豪族を抑圧した圧政であると非難しているのだ。イデオロギーがいかに恣意的な分析を生み出すのかの典型例であると言えよう。
 度田は中国史上初の土地、住宅、人口の全国統計調査である。そして後漢以後に度田に相当することを再開したのは隋の文帝であり、それは六百年近くも後のことであった。
 土地調査の二年後に、劉秀は有名な「柔道をもって治める」という発言する。かつてこれを土地調査の放棄と豪族への降服宣言であると悪意をもって解釈されたこともあったが、発言時期や場所から見ても豪族対策とは何の関係もなく、そのまさしく同じ月に起こった皇后廃立問題についての発言と考えられる。柔道の発言の年には既に新しい税が施行されたとあり、土地調査の問題は終わっているのであるから、この発言が土地調査と関係があると考えるのはひどいこじつけである。これは後にも詳述する。

史書には、劉秀が隗囂、公孫述と文書でやりとりしていたことを韓歆が非難したこと、今年は凶作となりましょうと、天を指し地を線を描き、激烈に諫言したことが記載されるが、なぜこれで劉秀が怒るのかかなり理解に苦しむ内容になっている。
 だがこれは土地調査と関連していたと考えると謎を解くことができる。
 このとき韓歆は"指天畫地(天を指し地を画し)"して激論したとある。"指天畫地"は後に成語で激烈な誓いや呪いの表現となるが、この後漢書の部分が初出であるから、このときはそういう意味ではない。畫地は大地に線を引いて区切るということだから、そもそも度田のことを示しているとも考えられる。
 土地調査では、南陽の豪族の大土地所有のごまかしが問題になったが、韓歆こそはまさに南陽の大豪族であり大土地所有者であるのだ。しかも韓歆の問責に強く反対した人物に鮑永がいるが、鮑永も土地調査のとき虚偽報告により罪を問われている。
 そして決定的なのはこの事件が建武十五年(西暦39年)一月のことだということ。「今年は凶作となりましょう」の今年とは、まさに土地調査の年のことなのだ。
 土地調査のような大事業を突然思いついて行動するはずもなく、数年前から練って協議していたはずである。それを示す証拠が、同じく南陽出身の大臣である大司馬呉漢の行動である。呉漢は、妻子が田畑を買い集めて土地を広げているのを知ると、それらをすべて処分させた。自宅も古くなった部分を修理するだけで、新しい邸宅を建てようとしなかったのである。呉漢はこれから始まる土地調査に備えて身辺を整理していたことがわかる。
 この呉漢の行動と連動していると見られるのが、功臣の引退である。建武十三年(西暦37年)に鄧禹、耿弇、賈復、建武十五年(西暦39年)に朱祜、李通が引退しているが、彼らはみな大豪族であり、大土地所有者である。度田において、最も危険な立場になる人物が直前に引退していることがわかる。彼ら自身は劉秀の腹心であるが、その家族はむしろ豪族側の存在である。豪族側の旗頭に担がれる危険を未然に防いだわけである。功臣でも呉漢、臧宮、馬武、馬成、王覇など大豪族にほど遠い存在は政権に残っている。例外が劉隆で、見事に処罰されてしまった。
 劉秀はここまで温めていた土地調査の実行をこの年に決め、大臣たる韓歆に相談したのであろう。そしてその返答が、天を指し地を画し、土地調査などすれば天は怒り「今年は凶作となりましょう」というものなのである。劉秀が韓歆を帰郷させ問責したのは、土地調査強行の意志表示なのである。反対派の親玉が執行者のトップでは話にならない。そして、それに対して韓歆が自殺したのは、大地主豪族グループのリーダーとしての決死の抗議なのだ。
 こうして考えると、なぜ韓歆だけでなくその息子まで自殺したのかがわかるだろう。非難されているのは韓歆個人ではなく、韓歆の一族であるからだ。
 韓歆自殺事件とは土地調査における豪族の抵抗の序章だったのである。


はたして、今の日本の富裕層は、

韓歆や多くの豪族の風に倣うのか。

呉漢や鄧禹、耿弇、賈復とかに倣うのか。


今の所は、前者が多いようなので、日本の未来はまだまだ闇でしょうか。



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