Photo by c6h6n10 中・中・多幸かいな。 2 戴晋人{遍照飛龍} 2022年8月22日 09:30 「常に変化する」なら「常」ではないようだが、「変化する」事自体が「常」であるとも言える。常に変わる状況に対して常に柔軟に対応する事で、主観的な判断と客観的な状況の間でかえって動的な平衡が取れて恒常的な安定性が得られるという意味が「中庸」の「庸」には込められているような気がする。— 菊池 (@kikuchi_8) August 14, 2022 荘子の養生主篇に「為善無近名 為悪無近刑 縁督以為経(善行を為して名声に近付く事なく、悪行を為して刑罰に近付く事なし。「督」を常の心掛けとせよ。)」とあり。故意に善悪に近付くと身が危うくなるとの教え。この「督」も「中」と同義と解釈されている。ここでは「善悪にとらわれない」の意。— 菊池 (@kikuchi_8) August 14, 2022 悪行で刑罰を喰らうのは論外だが、意識的に善行を誇示して名声を得ようとするのも危ういという事だろう。自然な善行ならよいが、意識的にこれ見よがしにやる“善行”は身を危うくするという教訓だと思われる。善行のアピールによる名声を欲してSDGsに賛同する者は多いが、NWOという危うきに落とされる。— 菊池 (@kikuchi_8) August 14, 2022 「状況」は「道理」というより「事象」なので、「中道」には「道=道理に中る」だけでなく「事実・事象=事に中る」も含ませてよいと思う。「道理」とは具体的な事実・事象に即したものであるから。そこで、個人的には「中道=道(道理)に中る=道理と事実に中る=事理に中る」と独自の解釈している。— 菊池 (@kikuchi_8) August 14, 2022 「中」の具体的中身が状況依存的なら、「中」は「状況に適合的である事」という意味が含まれる。そうすると、「中道」は単に「道(道理)に中る」だけでなく「事象・事実に中る」という意味も含めないと不十分がと考えた。そこで前述の如く「中道=道に中る=道理と事実(=事理)に中る」と解釈した。— 菊池 (@kikuchi_8) August 14, 2022 「事実・事象=事に中る」という事の一つの現れは、物事を観察された事実や信頼出来る文献に即して探求するという実証的姿勢であろう。江戸時代の学問の顕著な特徴がこれであったと考える。先述の伊藤仁斎の古学(古義学)もそうだが、江戸時代の学問には実証的な方法論が共有されていたように思う。— 菊池 (@kikuchi_8) August 14, 2022 「両建」は人々の思考を適切ではない二択に導く原理である。裏権力に好都合な二択を強制する事。二択のいずれかに飛びつかず、「二択以外の最適解」を自分なりに考える事が両建を打ち破る第一歩になると考える。そこで為す「判断」や導く「答え」が皆同じとは限らないが、自分で考える事が大事である。— 菊池 (@kikuchi_8) August 14, 2022 「両建」を論理的・哲学的に考察すると、両建とは「不中道(道に中らず)」の原理だと解釈する事が出来る。事実や道理に合わない二択を提示し、いずれかを選ばせる。スピンもこの原理。肝心な論点から目を逸らし、明後日=不適切な方向に論を誘導する。その結果、事態は増々良くない方向に導かれる。— 菊池 (@kikuchi_8) August 14, 2022 両建では、あたかも提示された選択肢以外は存在しないかのような錯覚に陥らせる。提示された選択肢以外の「最適解」はないか考える事が両建破りの第一歩。メディアが声高に取り上げる事は大抵の場合「提示された選択肢」である。「その中から選べ」と。横文字では「アジェンダ・セッティング」という。— 菊池 (@kikuchi_8) August 14, 2022 西部邁氏が保守思想に於ける平衡(中庸)について「曲芸師が手にする平衡棒」という喩えを使って解説していたと記憶する。絶妙な喩えだと思ったが、これはアリストテレス以来の西洋的な中庸の考え方に近いと思う。東洋的な「中」は「曲芸を止めるべき時節が来たら止める」という考え方であると思う。— 菊池 (@kikuchi_8) August 14, 2022 「平衡棒を持って綱渡りする」という喩えで言うと、「綱から下りるべき時節が来たら下りる」「上るべき時節が来たら上る」「綱渡りする時は平衡棒を適切に使って平衡を取る」という事になる。「常に両極端の間で平衡を取る」という事ではないと思う。勿論、それが適切な場合はそうするのが中だろう。— 菊池 (@kikuchi_8) August 14, 2022 「曲芸師が手にする平衡棒」の喩えが指し示す場合も東洋的な「中」には含まれる。平衡棒を持って平衡を取らなければならない時にはそうするのが最適解だからである。しかし、曲芸を止めて綱から降りなければならない時にはさっと降りるのが「中」であろう。逆に綱に登るべき時に登るのも「中」である。— 菊池 (@kikuchi_8) August 14, 2022 「最適解」は自分なりに考えて自分で導き出すべきものである。既成の「解答」を提示して「これが最適解だ」と押し付けるのが両建戦術である。人の意見を参考にしつつも、最終的に判断するのは自分である。誰かに思考を預けた時点で既に両建に嵌められつつあると言える。「信者思考」が両建破りの大敵。— 菊池 (@kikuchi_8) August 14, 2022 自分で「最適解」と思っても実際には違うかもしれない。なので、いつでも修正出来る柔軟性も大事だと思う。事理に合致せぬ自分の判断を絶対視するのは「独断」「独善」と言う。また、そもそも「最適解」などない事もあるかもしれない。それでも何が最適かを自分で考え続ける事に意味があるのだと思う。— 菊池 (@kikuchi_8) August 14, 2022 「中」は思考方法であって、主義・イデオロギーとしての「中道主義」とは全く異なる。「中道主義」は「非中道主義」との両建になる。また、「中」という言葉にとらわれて固定化させると、それもまた「主義」の如きものになる危険がある。「中にもとらわれないのが本当の中」だと東洋の先人は教えた。— 菊池 (@kikuchi_8) August 14, 2022 「中」の話の補足。これまで考察した「中」は、「中間」「中位」の「中」ではなく「的中」「命中」の「中」である。「中」は「中る(あたる)」とも訓ず。「中道」と書いて「道に中る」。「道(道理)」に適合する事が中。故に「中庸」は「道と須臾も離るべからず。離るべきは道にあらず。」と教える。— 菊池 (@kikuchi_8) August 21, 2022 「中=特定の状況に於ける最適解の発見」だと述べたが、「最適解」は「状況」だけでなく「目的」にも規定される。つまり、自分がある状況で何を目的として設定しているかによっても左右される。同じ状況下でも、そこにいる人が如何なる目的を持っているかによって「最適解」は変わってくるはずである。— 菊池 (@kikuchi_8) August 21, 2022 例えば、完走する事を目的としてマラソンに参加した人は、トップを目指す職業的なマラソン選手程速く走る必要はない。むしろ、無理をしてマラソン選手並みに走ろうとすると、健康や命を害する危険がある。この状況では、「完走+健康や命を害さない」という目的に適う程度の速さが「最適解」となろう。— 菊池 (@kikuchi_8) August 21, 2022 常に最適解があるとは限らず、むしろ無理に最適解を出そうとせず、問いを問いのままにする事が「道に中る(道理に適う)」場合もあると思う。また、自分の判断が正しいとは限らない。かといって、他者の判断が正しいとも限らない。自他を盲信せず、事理に沿って考える事を「独立的思考」と呼んでいる。— 菊池 (@kikuchi_8) August 21, 2022 「最適解」は少し現代風に表現しただけで、この言葉にもとらわれない方がよいと思う。言葉がないと思考は成り立たないが、言葉にとらわれ過ぎると思考を制約するのも事実。自分なりの考えを言葉で表現するが、言葉を実体視絶対視すると思考が縛られる。よい意味で「話半分で聞く」のがよかろうと思う。— 菊池 (@kikuchi_8) August 21, 2022 荘子の「妄言するから妄聴せよ」は、まさに「話半分で聞く」、「人の言葉を絶対視せずに聞く」という事を言ったものではないか。どれ程柔軟な思考から生み出された言葉でも、一旦固定化されると、言葉が独り歩きを始め、今度はそれが人を縛り始める。言葉を大事にしつつとらわれない事が大事と思う。— 菊池 (@kikuchi_8) August 21, 2022 「思考方法」など理論的なテーマの考察については、個人的には「妄言するから妄聴せよ」、否「妄言しますが、妄聴するもしないもご自由にお願い致します」の気持ちで書いているつもりである。自分なりに考えた事をメモ的に書いているだけだが、読んだ方にとって少しでもご参考になれば幸いである。— 菊池 (@kikuchi_8) August 21, 2022 言葉は物事を二つに分ける作用を持つ。「A」と言えば「非A」が生じる。「両建」は根本的には言葉のかかる性質を利用していると分析する。2択を提示しいずれかを選ばせる。いずれを選んでも同じ結論に誘導される。提示された2択に疑問を持ち、2択以外の選択肢を自分で考える事が両建破りの糸口となる。— 菊池 (@kikuchi_8) August 21, 2022 言葉の実体視を根底とする両建的思考では「A」と「非A」の二分化を絶対視する。「Aでなければ非A」と一括りにして、「非A」の多種多様さを無視する訳である。実際に裏権力の各派閥の工作員は自派閥への批判者を他派閥の人間だと決めつける傾向がある。彼らの中では自派閥とそれ以外しかない訳である。— 菊池 (@kikuchi_8) August 21, 2022 考察の再補足。「最適解は分からないし、問いを問いのままにする訳にもいかず、何らかの決断をしなければならない」という状況もあるだろう。そういう場合は、自分の判断が正しいかは分からないが、迷いつつも決断をする事になる。やはり、その際に大事なのも、自分の判断を絶対視しない事だと思う。— 菊池 (@kikuchi_8) August 21, 2022 「最適解」は自分なりに考えて自分で導き出すべきものである。既成の「解答」を提示して「これが最適解だ」と押し付けるのが両建戦術である。人の意見を参考にしつつも、最終的に判断するのは自分である。誰かに思考を預けた時点で既に両建に嵌められつつあると言える。「信者思考」が両建破りの大敵。だよね。考察の再補足。「最適解は分からないし、問いを問いのままにする訳にもいかず、何らかの決断をしなければならない」という状況もあるだろう。そういう場合は、自分の判断が正しいかは分からないが、迷いつつも決断をする事になる。やはり、その際に大事なのも、自分の判断を絶対視しない事だと思う。その「自分の判断を絶対視しない」ことが、中なのですよ・・。以前書いたけど・・ 絶対など無い・・・理性も天皇も諸行無常なのだ。 仮説を建てる より上記文抜粋・・・・・・・・・・・・・・カルトの何が悪いのか?■人が自立しない。東洋は福沢諭吉ですらも、自 banbutusedou123.blog.fc2.com 保守派は「伝統」「天皇」を絶対視する。リベラルは、「理性」を絶対視する。それは、停滞と堕落と死滅への道でしかない。ただ、自己改悟・自己研鑽・自己肯定のひたすらな研鑽だけで、事実を謙虚に受け入れることだけが、その「伝統」や「理性」を偶像化して破滅すること免れ得、それらを本当に輝かせると思う。ましてや「天皇」や「国家」や「イデオロギー」を偶像化・絶対化するのは、カルトなのだ。て書いたけど。そんな感じ。 ダウンロード copy いいなと思ったら応援しよう! チップで応援する #カルト #両建て #荘子 #中 #竜樹 #中観思想 2