気になる優しい記事・・・でもそういう「底力」をかなり今は失われていると・・・

上記文抜粋
・・・・・・・・・・・

東北地方在住の田山かなえさん(33)=仮名=は、知的障害がある両親のもとで育った。なぜ、うちの家には「できない」ことが多いのだろう。葛藤を抱き、両親への諦めや反発を抱きながら生きてきた。そんな自らを見つめ直すようになったきっかけは、高校生の時、父が病死したことだった。「もっと理解すればよかった」
 大学を卒業し、働きながら子どもを育てる今、感じることは「できない」ながら、愛情を注いでくれていた両親と、支えてくれた恩人の存在の大きさだ。(共同通信=船木敬太)
 ▽支えてくれた「第2の母」
 物心ついた後、幼い頃に覚えているのは、会話が乏しいわが家だった。知的障害がある両親はコミュニケーションが苦手。ただ、小さい頃の田山さんには「それが普通」だった。父は障害者向けの作業所で真面目に働き、病院の清掃などをしていた母はレパートリーが多くはないが料理をし、掃除や洗濯など家事もこなしていた。「決してヤングケアラーではなかった」と振り返る。
 田山さんには「おばちゃん」と呼ぶ女性がいる。浜村良美さん(74)=仮名=だ。浜村さんはかつて保育園に勤務したことがあり、当時の知人の紹介で、保育園児だった田山さんと出会った。初対面で「口数が少なく、表情が乏しい子供」と感じたのを今でも覚えている。
 浜村さんは「ほっとけない。この子を支えたい」と、個人的にサポートを始めた。母ができることは母に任せ、学校の面談の付き添いなども含めて「第2のお母さん」として手伝った。
 ▽抱いた葛藤、何カ所もあけたピアスの穴
 田山さんは浜村さんの家に放課後は毎日のように訪れ、そこで宿題をしたり、友だちと遊んだりした。浜村さんは口数が少なかった田山さんに「伝えたいことは、はっきり言っていいんだよ」と繰り返し教えた。
 浜村さんの夫や子どもも含めて家族ぐるみで接するうち、田山さんはどんどん明るくなり、次第に口数は増え、表情は豊かになっていったという。浜村さんは「性格がとても優しく、素直な子だった。そこがうまくいって、周囲とすぐになじんでくれた」と振り返る。
 浜村さんはその後も、進学の相談に乗ったり、家庭教師役として知り合いの学生を紹介したりして、伴走者として人生を支え続けた。
 田山さんが両親の障害について向き合い始めたのは、小学校高学年の時だった。授業参観の時、真面目な母親は極端に早く来てしまった。「同級生の親は来ていないのに、自分のお母さんだけ来ていて、恥ずかしいと思うようになった」
 思春期になると、父が苦手になった。子煩悩だが、成長する娘とうまく接することができない父。中学生の時は自室に突然入ってくるのが嫌で、怒って強い口調で拒絶したりした。
 両親の障害に対して「うちは仕方ない」と、諦めのような気持ちを抱いたのもこの頃。ずっと悩みを聞き続けてきた浜村さんはこの時期、家庭のことで「やっぱりお母さんには分からないかな」「難しいかな」と、さみしそうに話していたのを覚えている。
 高校に進学した後も「恥ずかしいから」と、同級生たち周囲に両親の障害のことを隠し続けた。両親の障害に葛藤を抱き「やりばのない思いを発散できず」に、耳に何カ所もピアスの穴を開けたこともある。
 ▽父の死に衝撃「支えにもっとなりたかった」
 そんな気持ちを変えたのが、高校2年生の時の父の病気の発覚だった。気付いたときには末期の肺がんだった。ずっと抱き続けていた「恥ずかしい」という感情。結局、きちんと向き合うことができないまま父は亡くなった。病気の父の支えにもっとなりたかった。そんな気持ちもあり、「違う接し方があったのではないか」と強く後悔した。
 父の死に衝撃を受け、気持ちを整理できないで落ち込む日々が続いたが、浜村さんのアドバイスもあって進学した。病気の父を支えられなかった後悔から、大学は医療関係の道を選んだ。
 大学入学当初は母と暮らす実家から通ったが、3年生の時からは実習の授業に出席するために大学近くに住む必要があり、1人暮らしを始めた。母はさみしがったが、送り出してくれた。多くの大学生が経験するような、バイトと学業に忙しい生活。実家を離れたそんな日々の中で、以前は複雑な感情を抱いたりしていた両親のことを、少しずつ消化できるようになっていった。
 それでも、周囲には両親の障害をなかなか言えずにいた。大学時代に出会った恋人に明かしたのも、交際してから何年もたってから。意を決して伝え、相手が自然に受け入れてくれたこともあって、「この人となら」と結婚を決意できたという。
 ▽友人たちに打ち明けた両親の障害
 だが、結婚式の準備では悩みに悩んだ。周囲に両親の障害を隠していたからだ。「式には友人たちにも来てほしかった。でも、親はテーブルを回ってあいさつしなければいけない。母の障害をどう伝えればいいか分からなかった」と振り返る。
 式の前に、一人ずつ友人たちに会って、両親のことを明かしていった。「どう思われるか」と心配しながら話したが、返ってきたのは「知っていたよ」と気にもとめないような返事。長年悩み続けた心境を察して、泣いてくれた友人もいた。
 今は大学時代に学んだことを生かし、医療関係で働く。2人の子供に恵まれ、家族4人で幸せに暮らしている。「両親に障害がある家庭で育った自分に、子育ての仕方が分かるのか」。そんな不安もあったが、浜村さんたち周囲の助けもあって、仕事と家庭を両立しながら忙しい日々を送る。
 子育てを経験して感じていることは、両親が「できない」ながら、愛情を注いでくれたことだ。感情を表に出すのが苦手だった母。逆に過剰なほどに愛情を表現してしまう父。「いろいろ子育てで分からないこともあったと思うけど、その中でも自分を育ててくれた。親のすごさを感じている」と振り返る。
 ▽「私のような存在に気付いて」
 知的障害がある人の結婚や子育てを巡っては、かつて旧優生保護法で不妊手術を強制していた歴史がある。1996年に母体保護法に改正され、手術の強制は法律的になくなったが、2022年には北海道のグループホームで、結婚を希望する知的障害者が不妊処置を受けていた問題が発覚。日弁連は2023年に「不妊手術の強要や勧奨が相当数存在する可能性が高い」として全国調査を求める意見書を国に提出した。障害がある人の結婚や子育てへの視線は厳しく、サポートする仕組みは整っていないのが現実だ。
 知的障害がある人は子どもを産んではいけないのか。田山さんは「そんなことはない」と話す。自身の存在を否定することにもつながるからだ。一方、複雑な気持ちもある。「私には幸い浜村さんがいた。長い人生を支え続けてくれる、彼女のような存在が必要だ。その子の良いところを伸ばしてくれるような人がいなければ、人生で大変な苦労をするんじゃないか」と心配する。
 浜村さんは、小中学生のころから両親のことで悩んでいた田山さんと向き合ってきた。そして、田山さんの両親が精いっぱい子育てしていたことも間近で見ており、「障害があるから子育てできないというわけではなく、やはり愛情が一番大事だ」と感じていた。
 だからこそ、田山さんにはずっと「お母さんとお父さんは一生懸命にやっている。両親を恨んではいけない」と諭していたという。田山さんは、そんな浜村さんの存在に助けられたからこそ、成長するにつれて両親の愛情を感じることができたと振り返る。
 田山さんは訴える。「社会が障害者の結婚や子育てについて想定していない。だから障害者自身へのサポートはあっても、障害がある親から生まれた子どもについては、あまり顧みられていないと感じている。私のような存在がいることに気付いてほしい」

2024年11月25日 11:41北海道新聞どうしん電子版より転載

・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・
抜粋終わり

今の日本・・・「自己責任論」で多くの「第二の母」みたいなものが、失われている・・・気がする・・

自己責任論・通俗道徳を克服して、


もし、彼の殺人がインセルの逆恨みのように、罪なき人々を恐怖に陥れるような殺人であったなら、僕はこの映画を素晴らしい映画だとはみなさなかっただろう。

アーサーが殺すにしろ殺さないにしろ、その動機は極めて個人的なものだ。
そこには社会に対する復讐(ふくしゅう)という意図はない。ただ彼は人々に自分の話を聞いてほしかったし、その存在を認めてもらいたかっただけだ。その彼を社会の人たちは、利己的に利用したり、カリスマとしてあがめ奉ろうとしたりしたのだ。

ジョーカーにて描かれたのは、善良な中年男が人を殺すことを余儀なくされ、悪のカリスマとして人前に立たざるを得なくなった悲劇である。

そしてその悲劇を生み出したのは、貧困と格差を放置する社会システムの欠陥であり、それは富裕層の怠惰と、富裕層に対する憎悪の高まりとして描かれている。これは映画の構図としては非常にシンプルでわかりやすいものだ。


やさしい日本になりましょう。


いいなと思ったら応援しよう!