メンヘラの生き残りのための兵法 の二三・ 三略から



人類は皆、自分たちの思いを実現したいと願っているのです。

自分も含めて、多くの人が、各々の思い・願いを持っている。

それを蔑ろにするような人たちを信じる・ついていく・・のは、虚しいし、バカである。


《軍讖》にこうあります「柔よく剛を制し、弱よく強を制す」と。
柔に身を置けば美徳を得ますが、剛に身を置けば賊として憎まれます。弱に身を置けば人の助けがありますが、強に身を置けば怨まれて攻められます。
ですが、柔はものごとに対応して備えることができ、剛は動いて与えることができ、弱は無茶をせずに人を用いることができ、強は及ぼすことができます。
この柔・剛・弱・強の四者には、ここであげたような使い所がありますので、うまい具合に制御して使うことです。

弱さを知る・受け入れる・使いこなす。

それが強さなのでしょう。。。

自分だけでなんとできると思う・・・強さかもしれないが、実は弱い・・・


兵を用いるときの要は、礼を厚くして俸禄を重くすることにあります。礼を厚くすれば智者が集まり、俸禄が重ければ優れた人材も身を投げ出して働きます。ですから賢者の俸禄は惜しまず、功績を賞するに躊躇しなければ、部下は力をあわせ、敵国を破ってくれます。
人を用いる方法は、厚遇するのに爵位を与え、高揚するのに財を与えるようにすれば、すなわち優秀な人材が勝手に集まってきます。接するに礼遇し、奨励するに義を以て接すれば、すなわち優秀な人材は身を投げ出して働くのです。

多少、厳しい「実務教育」をされても、良いのかもしれない。それは礼節と高給があればだ。

それが無いのに、「やりがい」だの「習慣」だのいわれても、無理だし不可能だ。その不可能が露出してきただけなのである。

まあ教育現場ですら、それに気が付いているかどうか・・・怪しいと思う。


儒はこの時代の主要な学問であるから、こうしたイベントに兵士を参加させることは、兵士の教育に熱心であったことを示している。
 孔子はかつて「民を教えずして戦わせる、これを棄てるという」と述べた。兵士を教育してから戦わせることが肝要なのである。祭遵は、孔子の用兵を行っていたのである。
 人にもし立派な振る舞いをさせたいのなら、まず立派な人物として扱い、立派な人物であるという自覚を与えることである。相手を悪人であると見なして応対すれば、相手は悪人として振る舞うし、有能な人として応対すれば有能に振る舞う──これは心理学でいうピグマリオン効果として知られているものであり、集団に対したとき明確にあらわれる効果である。
 すなわち、祭遵は兵士を立派な士人として扱うことにより、兵士に志と自覚を与えその質を高めたと考えられるのである。だからこそ、祭遵の指揮がなくとも自らの意志をもって戦うことができたのであろう。


三略でも

このように苦楽を共にすれば、部下は結束して離れることがなく、労を惜しまず働きます。それはつまり普段から恩恵を施し、普段から思想を一つにしているからなのです。ですからこのように言います「恩を与え続けて怠らなければ、一つのことで万人の味方を得られる」


そもそも

左伝 昭公 25年
「君子たるもの、己を尊重してこそ他人を尊重できるし、礼のある交際ができる。」

己を尊重して、同様に他人も尊重する・・てのが大事だよね・・・


日本人の「礼儀作法」が、なんか薄っぺらいのは、きっと「己を尊重」してないからだろう。。。


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