まあ、まともなことだな。

内田樹の研究室 より



上記文抜粋
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成長と統治コスト

2021-06-10 jeudi

『複雑化の教育論』の中で、高度成長期に最も統治コストが嵩んだことを論じた。統治しにくい状態になると、経済は成長し、文化的発信力も高まる。だから今の日本のように「統治しやすい状態」になると、経済は停滞し、文化も力を失う。その「さわり」のところを少しだけ抜き書きしておく。

 この30年間は中産階級の没落と、労働者階級の貧困化として進行しました。それは当然なんです。統治コストの削減は必ず「中産階級の空洞化」をめざすからです。これは世界中あらゆる国の出来事に妥当します。
 近代史をひもとけばわかりますけれど、中産階級が勃興すると、民主化闘争が起きます。市民たちがある程度経済的に豊かになると、権利意識が芽生えてくる。言論の自由、思想信教の自由、政治的自由を求めるようになる。やがて、市民革命が起きて、近代市民社会が成立する。これは決まったコースなわけです。王政や帝政に替わって民主制が登場してくる。
 革命というのは、倒される側の政体からすると、「統治コストが最大化した状態」のことです。なにしろ、行政組織にも軍隊にも警察にも、トップの命令が下達されなくなるんですから。統治コストが統治者の負担能力を超えると、体制は倒壊する。民主化の進行というのは市民の政府に対する要求がどんどん増大してゆくことですから、既存の政体からするとそれは「統治コストの急増」ということになる。
 日本の場合を考えるとよく分かります。高度成長期というのは、日本の国力が急激に伸びた時期です。経済力も、国際社会におけるプレゼンスも、文化的発信力もすべてが伸びました。でも、もうお忘れかも知れませんが、この時期、日本社会の統治コストは戦後で最も高かったんです。六〇年代から七〇年代にかけて、「一億総中流」が達成されて、市民の暮らしが年々豊かになってきた時期に、日本は最も革命的でした。市民運動も労働運動も学生運動も、まさにこの時期にその絶頂期を迎えました。革新自治体が日本中にできました。政権担当者のコントロールが最も利かなくなった時代は日本の高度成長期と符合します。このことをほとんどの人は忘れていると思います。でも、これは重要な法則です。国民が豊かになり、より多くの自由を求め、権利意識に目覚めると、統治コストは嵩む。社会的流動性が高まると、国民を管理することはむずかしくなる。でも、市民が自由に動き出して、モビリティが高まる時期に国力は一気に増大する。僕はその時代をリアルタイムで生きていましたから、よく分かります。
 1966年から70年、全国学園紛争の頃ですね。日本中の大学がバリケードで封鎖され、授業がなくなり、69年には安田講堂が「陥落」して、東大の入試が中止になった。70年の11月には三島由紀夫が個人的な「クーデタ」を画策して、割腹自殺をした。その5年間の経済成長率は10・9%。戦後最高なんです。皮肉なものです。
 政治的騒乱がそのピークに達していた時に、日本人は同時にものすごい勢いで経済活動を行っていた。それはこの時期に十代二十代を過ごしていた人間としてよくわかります。人々が政治的に熱くなっている時に、人々は同時に経済的にも、文化的にも熱くなる。日本中の大学が「ほとんど無法状態」であった時に、日本の経済はとんでもない角度で急成長していたのです。この事実から何らかの法則性を引き出そうとした人がいたかどうか、僕は知りません。管見の及ぶ限りはいないようです。でも、「市民的自由が謳歌されている社会は、統治者にとっては管理しにくいものだろうが、市民にとってはたいへん暮らしやすいものである」ということがわれわれの世代は実感として身に浸みている。
 統治コストが高い社会は活動的であり、統治コストが低い社会は非活動的である。そんなのは考えれば当たり前のことなんですけれども、組織管理コストを削減することが「絶対善」だと信じ切っているシンプルな人たちにはそれが理解できない。「角を矯めて牛を殺す」ということわざに言う通りです。わずかな欠点を補正しようとして、本体を殺してしまう。
 60年代の後半というのは僕が中学生から予備校生にかけての時期ですけれど、市民的自由が日に日に拡大して、国家の統制がどんどん弱くなってきていることが肌身にしみた。国家だけではなく、あらゆる制度的な統制が緩んでゆくのが、子どもながら分かった。中学三年の時より高校一年の時の方が日本社会は自由になっていて、高校一年よりは二年の時の方がさらに自由になっていた。
 だから、70年代はじめに学生運動が終息したあとに、政府はとりあえず学生たちの政治的自由を制約するための施策を次々と繰り出してきました。一番先にやったのが「学費値上げ」でした。国立大学の授業料を一気に三倍に上げた。
 僕が入学した1970年は国立大学の入学金が4000円、半期授業料が6000円でした。だから、一万円札1枚出して入学手続きが終わった。50年前ですから物価は今よりだいぶ安かった。ざるそばが60円、コーヒーが70円、ロングピースが80円という時代です。でも、僕がやっていた学習塾のバイトは時給500円でした。ですから、2時間働くと、一月分の授業料が払えた。
 授業料が安いと何が起きるかというと、「苦学」ができるようになります。「苦学生」というのは、自分で働いて学費を出している学生のことですが、僕の学生時代にはいっぱいいました。時給500円というのはかなりいいバイトでしたから、バイト仲間はほとんど生活費を自分で出して、授業料も払い、中には両親に仕送りをしてる人さえいました。
 だから、地方から来た学生たちも、東京にいても家から出て暮らしている学生たちは親の管理下にないわけです。いつ起きて、いつ寝て、何をしているのか。勉強しているのか、デモに行っているのか、バイトしているのか、デートしているのか、親にはぜんぜんわからない。だから、学生運動があれだけ盛り上がったわけです。親の監督が届かないから。六〇年代末の全共闘運動の広がりを支えたのは、授業料がすごく安かったこと、経済成長のおかげでバイト代がどんどん上がり、過激派の学生たちが楽にバイトで暮らすことができたからです。高度成長が全共闘運動の経済的な基盤だったんです。
 それに気がついた知恵者が政府部内にいたんでしょうね。学生たちがあんなに活動的でいられたのは、「金がある」せいだ、と。だったら、金を取り上げよう。そこで授業料をいきなり三倍に上げた。
 でも、その時点で国立大学の授業料を三倍に上げる必然性なんかまったくなかったわけですよ。だって、高度成長期で、税収はじゃんじゃん国庫に流れ込んでくるわけで、月額1000円の国立大学授業料を3000円に増やしたからといって、国の懐具合には変化がない。でも、あえてそうしたのは、学生たちが苦学できないようにする必要があったからです。学生たちを親に経済的に依存させて、親の管理下に置く必要があった。
 そのあとも、ひたすら授業料を上げ続けた。すべての学生たちに恵まれた就学機会を提供することが教育行政の本務だとしたら、それに逆行したわけです。親たちにとって学費がひどく負担になるという状況をまず創り出した。そうすると、親としては学費が「教育投資」ということになる。出した金はなるべく迅速かつ確実に回収したい。そのためには本人の意向は二の次で「とにかく実学」ということになる。今の世の中の価値観やマナーにジャストフィットした人間に自分の子どもを叩き直すことが親にとって喫緊の課題になる。せっかく払った授業料が無駄にならないように、うるさく出席状況や成績をモニターするようになる。これは別に親の側のマインドセットが変わったわけじゃなくて、おおかたは金のせいなんです。自分の懐が痛まないうちは、子どもが何をしようとさして気にならなかったのだけれど、自分の懐からかなりの金額を支出せざるを得ないというところに追い込まれると、「おい、オレの出した金を無駄にするなよ」という気分が醸成される。「単位取ったのか」「ちゃんと卒業できるのか」「就活しているのか」という以前はあまり言わなかったこと(言ってもわりと小声で)が声高に言われるようになった。
 こうやって学生たちの日常生活を猜疑心の強い親に監視させるという仕組みを作ったのが「学費値上げ」だったのです。そして、この政策はみごとに功を奏して、学生運動は一気に火が消えたようになりました。もちろん、他にもさまざまな歴史的理由があったわけですけれど、一番効いたのは「学費値上げ」でした。
 警察であれ公安であれ、公的機関を使って過激派学生を管理しようとしても、コストがかかり過ぎる。何十万もの過激派学生を監視するだけの人的リソースなんか政府にはありません。だから、親に子どもを監視させるという「隣組」システムを導入した。これが日本人のメンタリティにジャストフィットして、おかげで学生運動の鎮圧に成功した。
 今は国立大学の入学金は282,000円、授業料が年間535,800円です。入学金と半期授業料だけで55万円を用意しなければなりません。50年前の55倍です。僕の時だと、ほとんどの受験生はお年玉を貯めた「豚の貯金箱」を叩き割れば1万円くらいは出せた。いま合格発表時に55万円の現金を持っている受験生はまずいないでしょう。だから、進学先の決定は「金主」である親に一任するしかない。
 進学先の決定権が自分にないというのは大きいことです。「苦学」できる環境なら、親が「そんなことを学んで何になる!」と激怒するような専門分野を選んでも、「自分で学費出すから、好きにさせてよ」と言えた。でも、もうそれが言えなくなった。それによって「不本意入学」する学生が激増した。自分には興味がないけれど、親が「そこじゃないと金を出さない」と言うのでやむなく進学したという領域で学生が知的ブレークスルーを遂げるということはまったく期待できません。それどころか、子どもたちは「自分の進路選択が正しく、親の判断は間違っていた」ということを証明するために親に「金をドブに捨てた」と後悔させるように無意識的にふるまうようになる。つまらなそうな顔で通学し、最低限の勉強しかせず、最低の成績で卒業する。でも、それは「無意識的に」していることですから止めようがない。実際には驚くほど多くの大学生がそうふるまっている。ほんとうにもったいないことだと思います。それくらいだったら、本人が「やりたい」ということをさせておけばよいと思うんですけれどね。
 とにかく授業料値上げによって、日本の高校生は進路決定権を失い、大学生は「苦学」という選択肢を奪われました。たしかにそれによって大学生は自由度と覇気を失い、学生運動は一気に下火になり、大学はたいへん管理し易い場所になりました。でも、それによって同時に日本の学術的な生産力は深い傷を負ったのでした。
 もう一度繰り返しますけれど、組織の管理コストを削減しようとしたら、メンバーたちが自由きままに行動することを禁止しなければならない。それは短期的に見れば、組織的な「バグ」がなくなって、コントロールしやすくなるのでよいことのように見えるかも知れませんが、長期的にはその集団の生産力を深く損うことになるのです。


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抜粋終わり

>とにかく授業料値上げによって、日本の高校生は進路決定権を失い、大学生は「苦学」という選択肢を奪われました。たしかにそれによって大学生は自由度と覇気を失い、学生運動は一気に下火になり、大学はたいへん管理し易い場所になりました。でも、それによって同時に日本の学術的な生産力は深い傷を負ったのでした。
> もう一度繰り返しますけれど、組織の管理コストを削減しようとしたら、メンバーたちが自由きままに行動することを禁止しなければならない。それは短期的に見れば、組織的な「バグ」がなくなって、コントロールしやすくなるのでよいことのように見えるかも知れませんが、長期的にはその集団の生産力を深く損うことになるのです。


見方を変えると、「自分で考えて動く」ことが無くなる・ってことは「管理」をしやすくなる。

同時に「自分で考えない」「忖度するしかない」の、軽快な組織の動きや、イノベーションは起きない。

組織や上長への自発的な貢献・献策などしなくなる。「考えず従順であるのが、ベスト」だから。


>統治しにくい状態になると、経済は成長し、文化的発信力も高まる。だから今の日本のように「統治しやすい状態」になると、経済は停滞し、文化も力を失う。その「さわり」のところを少しだけ抜き書きしておく。

そういえば、軍事的に最弱だった「宋」って王朝が、意外と歴史上二番目に「長命」だったのは、文化力が強かったこと。
その一因に、開祖の趙匡胤が「言論を理由に、官僚・学者を殺すな」って遺言してそれを「皇帝が守るべき事」として、歴代受け継いでいたこともある。
それが「文化力を高め・経済力を高めた」のは間違いない。



まあ、天皇は、そもそも「日本の統治に責任持たん」ので、言論も自由も糞も無く、信者は批判者を迫害する。まあ、所詮はカルトの本尊である。

追記

https://news.careerconnection.jp/news/social/118166/ より

上記文抜粋
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「道徳の教科化」が若者たちに無力感をもたらす 『教育は何を評価してきたのか』 が示す危機感
2021.5.30

小学校では2018年から、中学校では2019年から「特別の教科」となり、「子どもに偏った価値観を植え付ける」などの懸念で物議を醸した「道徳」。現在も、ツイッター上では教科書の内容や評価の付け方に、しばしば疑問の声が上がっている。

今年4月、あるツイッターユーザーが小学校の道徳教科書を示し「おかあさんはりょうりじょうず」といった言葉でジェンダーバイアスを植え付けることに疑問を呈していた。これを教育社会学者の本田由紀氏が引用リツイートし、

「これに関連して、拙著『教育は何を評価してきたのか』では、「道徳の授業が好き」な中学生ほど性別役割分業意識が強いという分析結果を示しています。因果でなく相関ですが」

というコメントを寄せていた。

道徳が好きな中学生ほど「父は外で働き、母は家庭で家事をする」といった価値観が強いのはなぜだろう。道徳教育が子どもに与えた影響に興味を持ち、『教育は何を評価してきたのか』 (本田由紀/岩波新書/2020年3月19日発行)を手に取った。(文:篠原みつき)

「垂直的序列化」と「水平的画一化」が日本人を生きづらくする
人々の一般的なスキルは国際比較において高い水準にあるにも関わらず、賃金がそれに伴っていない日本。若者の自己肯定感も他国に比べて低いという。本書は、こうした日本の低迷や閉塞感の原因は、「垂直的序列化」と、「水平的画一化」が強い教育の構造にあるとして、戦前から現在に至るまでの教育システムの変遷を、膨大な資料をもとに分析。人を評価する際に当たり前に使われてきた「能力」「資質」「態度」という言葉に疑問を突きつけ、日本の教育が抱える問題点をあぶり出している。

なお、「垂直的序列化」とは相対的で一元的な「能力」に基づく選抜・選別・格付のことだ(著者はこれを「日本型メリトクラシー」と呼ぶ)。しかも近年では、「生きる力」や「人間力」といった、学力面以外の評価基準(「ハイパー・メリトクラシー」)も重要視され、新たな序列化が生じているという。

「水平的画一化」とは、ある団体に対して特定のふるまい方や考え方を求めることで、戦前の「教育勅語」が皇民を作り上げようとしたケースが典型例だ。近年では教育についての法律や公的な目標において「能力」「態度」「資質」という言葉を重要視し、人々の精神に影響を与えようとしているという。本書ではこれを「ハイパー教化」と呼び、「道徳」の教科化や、「ブラック校則」「二分の一成人式」なども、形を変えた水平的画一化だと警鐘を鳴らす。

道徳の教科化で男女不平等に?
「道徳」について書かれているのは、第6章と最終章だ。道徳が「特別の教科」になったことで、学ぶべき項目が「正直、誠実」「節度、節制」など、指導の観点とともに細かく定められ、個々の児童生徒の評価がなされるようになった。著者はこれに、次のような危機感を示している。

「学習指導要領では「道徳」の授業では「考え」「議論する」ことを求めているが、実際には「指導の観点」に適合するような「態度」を示すことが、授業及び評価というルートを通じて明示的・暗示的に強く求められているのである。これは、児童生徒の心のあり方を一様に規定する水平的画一化の最たるものと言える。(p188~189)」

つまり、子どもが良い評価を得るために、教師の求める考えに(集団で)合わせてしまう、合わせない子は評価されないという、かねてより危惧されていることが起こるのだ。現場の教師の力量次第といった面が大きいが、多様性が叫ばれる中、そもそも「望ましい考え方・態度」が基準として明示されていることに違和感を覚える。

本書は、すでに子どもたちが道徳教育の影響を受けつつあると示唆していた。都内のある区の公立中学校10校の生徒約1800人を対象とした調査で、次の4つの意識が、どんな生徒に強いか検証されている。

「国を愛することは大切だと思う(愛国心)」
「ルールを守らない人は厳しく罰した方が良いと思う(ルール順守)」
「自分の考えよりも先生や先輩の指示に従うべきだと思う(上位者への服従)」
「”女性は家庭で家事や育児を行い、男性は働いて家計を支えるのが普通だ”と思う(性的役割分業意識)」

結果として、「校内成績」が高い生徒は「ルール順守」意識が強く、「クラス内影響力」が高い生徒と「道徳の授業内容が好き」という生徒は、「愛国心」「ルール順守」「性別役割分業意識」のすべての意識が強いと分かった。つまり、どちらかといえば、教師から高く評価される子どもに、その傾向が強いと言えそうだ。

背景として政権による右傾化が指摘されており、これら4つの意識は言わずもがな、過度なナショナリズムや盲目的な前例踏襲、男女不平等や女性の社会進出の停滞など、さまざまな弊害をもたらすと著者は指摘する。前述の、ツイッターでジェンダーバイアスを懸念した人も、同様の危機感を持っていただろう。

何よりも問題なのは、これらの意識が、若者たちに閉塞感や無力感をもたらしている恐れがあることだ。著者はこうした弊害を打破するために、「水平的多様化」が優勢となる解決策を具体的に示している。少しでも実現することを望むばかりだ。

模範的な子どもを育てようとすれば、どこかに歪みが生じる

本書を通じて、教育は時代や政権・経済に左右されると分かることも興味深い。子どもたちにどういう教育を施すかという方針には、良かれ悪しかれ、その国の社会が「どんな人間を求めているか」が表れる。しかし誰かにとって都合の良い、模範的な子どもや有能な人材を画一的に育てようとすれば、どこかに歪みが生じるものだろう。親に限らず、他人を教育・評価する立場にある人は、本書が訴える諸問題を一度は認識しておくべきだと感じた。


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抜粋終わり

>「国を愛することは大切だと思う(愛国心)」
「自分の考えよりも先生や先輩の指示に従うべきだと思う(上位者への服従)」


てことは

https://twitter.com/tassotakuya/status/921721856821833728

>「愛国とは声高に口にしないものだ。ふだんは、権力をもつ奴らに毒づいているぐらいが丁度いい。」


てことなど、理解もできない豚や猿が、日本の教育を指導しているってのがよくわかる。


ようするに

「天皇は、日本人を豚や猿にする、人型日本人抹殺最終兵器」

なんだよ。


指導者や大人たちが、豚や猿程度だから、

部活が大変なことに…「レギュラーは練習OK、補欠は自宅待機」 生徒を分断する異常ルールを生んだ「質より量のブラック文化」



てなる。


天皇を殺して 日本人を守ろう。


天皇の無い 青いを空を取り戻す。

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