ひとつだけこの父を責めるべきは「社会・政治を知らな過ぎた」ことである。「知らないこと」は悪の大きな原因たり得る。

より

上記文抜粋
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【家族の貧困】「息子が就職したのはブラック企業だった…」うつになった息子を介護する、父親の後悔~その1~

親は「普通に育てたつもりなのに」と考えていても、子どもは「親のせいで不幸になった」ととらえる親子が増えている。本連載では、ロストジェネレーション世代(1970代~80年代前半生まれ)のロスジェネの子どもがいる親、もしくは当事者に話を伺い、 “8050問題” へつながる家族の貧困と親子問題の根幹を探っていく。

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自分が夢だった東京の大学を出したのに…
北陸地方に住む健司さん(仮名・65歳)は、実家に帰ってきて10年になる息子(40歳)の行く末を案じている。

「引きこもりではないんだよ。朝7時に起きて、朝食を作って、玄関の掃除をする。家事を手伝って、庭の掃除をして、犬の世話と散歩をする。私の仕事を手伝って、畑仕事をして、夕飯を食べて寝ているから」

穏やかで健康的な理想の息子と言える。ただ、彼は、この10年間、一切の仕事をしていない。息子は高校時代まで、地元でのびのびと育っていた。

「息子は幼いころから成績が良くて、“神童”なんて言われていた。絵を描かせても上手で、声もキレイで、運動神経もよかった。中学校の時は女の子がラブレターを持ってウチにきたこともあったんだよ。スポーツ系の部活も頑張って、県大会で準優勝した。県立トップの進学校に進んでね。彼の将来は光り輝いていて、一点の曇りもないと思っていた」

健司さんも、息子と同じ進学校を卒業して、東京の私立大学に進学した。

「ウチの高校は、“国立大学至上主義”なんだよね。僕は私立大学だったから、同窓会でも肩身が狭かった。中途半端な私立大学に進学して、東京で就職したんだけれど、30歳の時にオヤジが倒れて、故郷に戻ってきて会社を継いだ。従業員20人の生活がかかっていたし、当時は親の跡を継ぐのが当たり前だったから。東京には未練があったけれど、仕方がないと思って帰ってきた。まあ、それでカミさんとも結婚できたし、一男一女を授かって、いい人生だよ」

息子は高校時代から学業優秀だった。健司さんが憧れていた、東京の国立大学に進学する。

「あの時は嬉しかったね。ホントにうれしかった。あの時は男泣きに泣いてしまったよ。息子もよく頑張って、いい成績を取っていたのに就職氷河期だろう。理系ではない国立大学は就職に弱い。思うような企業に内定が出なかった。大学院に進んでもいいんだよ、と言ったら、“そこまで勉強が好きではない”という」

【国立大学を卒業しても、就職できたのはブラック企業だった…次ページへ続きます】

東京で働くという、自分の夢を押し付けたのか?

健司さんは、東京で仕事がしたかった。だから、進路に迷う息子に「オマエは東京で勝負しろ。会社は俺の代で終わらせる」と言い切った。

「今思えば、息子は私の会社を継ぎたかったもしれない。幼いころから、大人の言うことをなんでも聞く、聞き分けがいい子だった。私は息子を田舎に埋もれさせたくなかった。それが、大きな間違いだったのではないかと思う」

息子が就職できたのは、旧態依然としたブラック企業だった。大手企業の子会社だったけれど、社員を使い捨てのように使う会社だった。

「優秀な人は頭角を現して辞めていくけれど、息子みたいな指示待ち人間には辛かったんだろうな。言われたことはなんでもやるから、指示通りに仕事して、何日も寝れないことがあったらしい。始発で出社して、終電で帰ることができればいい方で、会社の床で寝ていたこともあったようだ」

そんな生活を8年間も続けていればボロボロになる。

「盆暮れ正月に帰ってこなくても、“男だから仕事や遊びに頑張って当たり前”だと思っていた。妻は気にしていたけれど、母親と息子がべったりくっついているのはよくない。だから口を出させないようにしていた」

そんなある日、息子が勤務する会社から電話がかかってきた。2日間も出社していないという。

「とるものもとりあえず息子のアパートに行ったら、息子がすべてを垂れ流しにして床に倒れていた。疲労と心がやられて、立ち上がれなくなっていた。家も汚部屋っていうの? ものすごく汚くて、ひとまず入院させて、会社と交渉をした」

息子は会社でいじめられていた。膨大な業務量を与えられ、同僚には無視をされ、上司に罵倒されながら仕事をしていたという。

「詳細な日記と録音があったから、訴訟しようと思ったけれど、あれは弁護士費用もかかるし、企業相手だと勝ち目はない。これは泣き寝入りしかないと思った。ただ、まとまった額の退職金が出た。息子は2週間ほど入院して、退職した。その後、実家に帰ってきたんだけれど、1年くらいはほとんど寝たきりだったよね。妻は“この子は手がかからなかったから、今、子育てをやり直している”と嬉しそうだったけれど、私は男が何をしているんだという、忸怩たる思いがあった」

【まさか、療養生活が10年も続くとは思わず、自分たちが死んだらどうなるのかと悩む日々は続いていく~その2~に続きます】

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抜粋終わり

社会の事を知ってよく考えてりゃ、そこそこの会社の社長さん・経営者なら「ブラック企業なら、大企業でも逃げて帰れ」って言えてたはず。

まあ、学校から「ブラック部活・ブラック校則」だらけなので、わかりにくいですけどね。


みんな「社会の事」を考えないようにして、「あれは運が悪い」と逃げていると、その魔の手が襲う・・。

上記文抜粋
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明治時代とは?

「江戸時代と違って、生まれながらにして職業や身分が決まっていたわけではない、自己責任だ」

という理屈と、

「でも、お前は佐幕藩の負け組生まれだ。北海道開拓でもやっていろよな」

そんな差別が、同時に通る理不尽極まりない時代だったのです。

貧乏は自己責任「通俗道徳」恐ろしや

「お前が貧しいのは、努力が足りないからだ!」

そんな自己責任論があります。

それとセットで

「俺が成功したのは俺が頑張ったからだ!」

ということも語られるわけです。

しかし、人間とは努力だけで成立するものではないでしょう。

生まれながらにして病弱であるとか。

運悪く事故に遭うとか。

あらゆる不運はいつでも待っていて、ちょっとしたキッカケから転落する可能性は、誰にでもあります。

そこで行政が救済してくれればよいものを、明治時代は逆に痛烈な「通俗道徳」がまかり通っていた時代でもあります。

「通俗道徳」とは、

【努力をしてよいことをしていれば、報われる。報われないであがいている連中は努力が足りないからだ】

という考え方です。

これは明治期日本特有のものではなく、当時のイギリスでも似たような考え方がありました。

「救貧院」が、まさしくそうです。


「貧乏人は自己責任。生きていけるだけありがたく思え」

ってなもので、貧者救済を目的とした「救貧院」では、最低最悪の労働が強制されておりました。

植民地では、さらにえげつない理屈が通ります。

「貧乏な植民地の連中を助けたら、子作りをしてますます増える。突き放せ。死んでもそれまでだ。働ける奴なら救ってやってもいい」

こんな理屈のもと、植民地の人々は救われることもなく、命を落としてゆきました。

「貧乏人を救ってどうするのか? あいつらをだらけさせるだけだろう」という考え方は、江戸時代より悪化した様相を呈しています。

江戸時代は、災難が起きるとシェルターが設置されました。

幕府や藩だけではなく、資産のある商人が設置することもあったのです。

『こんなありがたいことをしてくれるのは誰なのか?』と、庶民も知りたがり、当時の瓦版には「施し名前番付=ランキング」もあったほど。


しかし明治以降は平等だという建前ができます。

さらにはお手本とした西欧諸国でもひどい有様でしたから、事態が悪化したとしてもおかしくはない。

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抜粋終わり

「江戸時代と違って、生まれながらにして職業や身分が決まっていたわけではない、自己責任だ」
という理屈と、
「でも、お前は佐幕藩の負け組生まれだ。北海道開拓でもやっていろよな」
そんな差別が、同時に通る理不尽極まりない時代だったのです。

今も大してかわらんよ。。。

障碍者など特にそれだよね。

あと背乗りではない在日とかもそうだよね。

そうそう「貧困家庭」や「DV被害者・児童虐待被害者」も、天皇とその国家とセレブに切り捨てられる対象ですよね。

まあ、そういう下衆い社会でないと「天皇」は存続できないのですは。

一切の政治責任を天皇が逃れるのは、日本人がアホで卑しくないと無理ですからな。

社会や政治に関心がない。のは、悪ではないが、奴隷であり、悪の源の一つなのでもある。


天皇家を 殺し尽くして 日本晴れ

天皇の無い 蒼い空を取り戻す

慈悲と憐みに富む社会になりますように



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