古文の教育は必要でも、日本の学校教育は不要である。
古文を読むことで、過去の日本の先達の「英知」にアクセスできる。
そもそも漢籍は、孫子は今でも戦略論の最前線。老荘は、欧州でも哲学として研究が熱い。
考える{OS}をアップデートさせる、古文・漢籍を学ばせないのは、それでもって日本人を「愚民化」をより促進させるためと思っても間違いない。
だが、その肝心の「古文・漢籍教育」は、どうだったのか?
てなると、「今さら古典など読む気にならん」って人をあきれるほど生み出すのに成功しただけだった。
「古文不要論」は、「即使えない」ってアホの戯言もあるが、
そういう「アホ」を学校教育が、大量生産するのに、見事に成功した「精華」
なのである。
私は孫子・荘子とか「翻訳」で、学生時代から読みまくっているし、今でも論語や伝習録や左伝も読んでいる。
でも、だからって、学生時代の「古文」の授業に感銘もなかったし、そもそも成績も悪かったよな。
それで社会に出て「たいして」苦労はしてない。
まあ「原文を読めた方がいいよね」とは思うが。
それを、さも「信心で修行で苦行」と、受験のために「やらされた」人たちが、
「そんなのは無用・不要」と思う人が沢山出ても、そりゃ、自然な話なのである。
やればやるほど、学年があがればあがるほどに「向学心」が失せて、根絶やしになっていく日本の「学校教育」
でエリートは、安倍晋三やそれにおべっかを使う「東大法話」の使い手になり、
庶民層は「古文の有効性すらわからん」ようになる。
で、学校では、「いじめ」とすさまじい「絶対服従調教」を仕込んで、「学び舎」で、子供の「脳」が破壊され、挙句に死んでいく。
脳の破壊 と 絶対服従 のための「道具」に過ぎなくなった「学校」の「古文の教育」は、無益どころか「有害」にすぎなくなっているので、
「古文不要論」のも、そういう意味で出てくる。
が、肝心なのは「脳を破壊し・絶対服従を仕込むための日本の学校教育」自体が、不要・無用だったてことだ。
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