つまるところ「工作員~天皇も工作員」の「おもちゃ」だったのが戦後日本。

上記文抜粋
・・・・・・・・・・・・

今回からは日本破壊工作機関「第二臨調」のメインプレイヤーだった瀬島龍三のKGB/CIA二重スパイ説に焦点を当てる
この説を唱えている者はほとんどいないが、いろいろな書籍等の情報を繋ぎ合わせると、そうとしか言いようがない結果が導き出される。

瀬島の存在は「Bチーム」との挙動とは直接関係ないが、「二重スパイ」は「Bチーム」の役どころと重なる。

このシリーズの前回までの記録はこちらで。


◇ 瀬島龍三はKGBスパイだった ~ラストボロフ事件

ソ連の証人要請で一時帰国し、東京裁判に出廷する瀬島。日本の戦争犯罪を立証する向きでソ連侵略計画を証言した。

瀬島龍三はKGB工作員であったことが確実だ。
それどころかアメリカの2重スパイの疑いもある。

警察庁外事課(ソ連担当)出身で、中曽根時代に内閣安全保障室の初代室長を務めた佐々淳行が雑誌・正論で「瀬島龍三を尾行した結果、ソ連の『協力者(スリーパー)』だったことがわかった」という、80年台を振り返った記事を書いている。
同様の記述は佐々の「インテリジェンスのない国家は亡びる(2013,海竜社)」にもある。
https://gendai.media/articles/-/65321
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R000000004-I024866235

シベリアに11年間抑留されていた元陸軍参謀・瀬島龍三ら元日本兵らは、拷問と飢餓、裏切りと殺し合い、洗脳を経験し、天皇に唾を吐きスターリンに忠誠を誓わされるなか、転向させられたという。

しかしながら実際の瀬島は、数千人のハバロフスクの捕虜団長の任に就いたこと、また東京裁判に出廷し日本軍のソ連侵略計画を証言したことで特別待遇を受けていた
そのことにより零下40度にもおよぶ屋外での重労働から解放され、十分に食べ物も衣服も与えられたていたという。
(共同通信社「沈黙のファイル 瀬島龍三とは何だったのか」1999, p296, p400)

瀬島から直接話を聞いた慶大教授の加藤寛は「将官待遇だったから過酷な労働はしなかったようだ。ソ連は団体の長や委員長には待遇に差をつけるため、事実だと思う」と語った。
(保阪正康「参謀の昭和史」 1991, p256)


シベリア抑留者がソ連で洗脳され、帰還後集団で東京・代々木の共産党本部を訪れて入党する動きもあった。
49年1月の戦後3回目の総選挙で共産党は300万票近い得票を集め、前回の4議席から35議席に躍進した。
「党躍進の背後でソ連の資金援助があった」とする元党員の告発もある。
(拓殖大学教授・名越健郎「冷戦期における与野党の違法外国資金問題」,2020,p94)


シベリア抑留時の1948年、瀬島と一緒にモンゴルのウランバートルにあった「第7006俘虜収容所」においてKGB工作員として訓練されたのが、外務省アジア局調査員・元関東軍情報参謀(満州・奉天の第三方面軍情報部主任参謀)の志位正二だった。

志位は日本共産党の志位和夫の叔父でもある笑。
なんと志位は1954年2月5日に自首し、ソ連の工作員であることを認めている。
そのため、瀬島がKGB工作員であったことはこの点でも確度が高まる。
(共同通信社 1999,p230)
参考: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E4%BD%8D%E6%AD%A3%E4%BA%8C

志位が自首したのは、対日工作を行っていたソ連の諜報員ラストボロフ中佐が1954年にアメリカに亡命し、CIAに再就職、36名の工作員リストを公開した「ラストボロフ事件」がきっかけだった。

警視庁公安部の部外秘報告書には、シベリア抑留中の1948年4月、ソ連の担当将校に「将来、ソ連に協力する意思はないか」と聞かれた志位が「米ソ対立の中立を望む日本人として、日本の独立と平和のためならどの国とも協力する。しかし天皇に関する限りは貴方とは意見が違うがそれでもよいか?」と将校に答えた旨が記される。
そこでスパイとしての契約を結び、半年後に帰国を許された。
まもなくしてGHQ参謀第二部・地理課に勤務し、51年9月からラストボロフと接触し情報を提供する(約2年間で40回)ようになる。
情報参謀だった志位の二重スパイ行為であった。
(共同 1999,pp230-234)

ラストロボフ事件では、外務省から多くの機密情報がソ連に渡っていたことが明らかになった。
…ラストロボフの目的は日本国内でソ連への協力者の獲得、日本共産党への資金援助などのテコ入れ、そして最終的には政財界を網羅するような情報網を作り上げることにあった。
当時、外務省職員や旧軍人など、少なくとも16人が工作に関係しており、多くは太平洋戦争中にソ連に滞在していた日本人グループであった。
(日本大学教授・小谷賢「日本インテリジェンス史」2022,pp47-50)


なお、警視庁外事課(国際的なスパイ監視を担当)の主任だった佐々淳行によると、志位は逮捕後になぜか不起訴となり、そして奇妙なことに釈放から数年後、ハバロフスク上空を飛ぶ飛行機の機内で心不全で死んでいる。
(佐々淳行 「亡国スパイ秘録」 2019,p,46, p262-268)

ソ連側に暗殺された可能性もあるということだ。

拓殖大教授の名越健郎によると、「GHQの共産党監視作戦で中心的役割を果たしたのは、G2に所属する第441防諜部隊(CIC:後にCIAが任務を後継)だった。
CICは警官や公安関係者など多数の日本人エージェントを擁し、当時は特にシベリア抑留からの帰還者を調査していたが、共産党本部にもスパイを送り込んでいた」とされ、米CIC/CIAは日本の警察機構と協力してソ連のスパイを監視していた。
(名越健郎,2020,p124)



◇ 瀬島KGBスパイ説 ~対日工作の責任者コワレンコの証言


「ラストボロフ事件」について、ラストボロフの上司にあたりソ連の対日工作の責任者だったイワン・コワレンコ(ソ連共産党国際部副部長)が証言を残している。
コワレンコは、シベリア抑留され、後に引揚者になった旧帝国軍人を中心に最大8000人あまりをソ連のエージェントとして日本に送り込んだ超大物だ。
(佐々淳行 「亡国スパイ秘録」2019,p42)

以下は、共同通信によるコワレンコの1994年12月のインタビュー内容の一節となる。

「[モスクワ郊外にスパイ養成所があり、ラストボロフが日本に来る前にエージェントの面接をしていたという話は] ほぼ間違いない。将校たちと面接していた。面接した将校の中からエージェントを選んだのかもしれない。エージェントは希望者の中から選ばれた。雇われたエージェントはソ連に協力することを約束してサインして日本に帰ったケースが多い。…エージェントの条件は頭が良く、帰国後に高い地位に就ける人だ。出世の見込みがある人を選んでいた。日本の政府や省庁のなかで重要な地位を占めることができる人を選んでいた」
しかしコワレンコは「瀬島はエージェントになったのか?」との質問には「たぶん断ったと思う。エージェントの提案を受けていれば11年間もシベリアいることはない」と答えてている。
(共同 1999,pp402-404)

インタビューが行われた94年当時は瀬島はまだ存命であり、瀬島は竹中平蔵がごとく自らが民営化したNTTの取締役を務めている。
もしソ連(ロシア)とアメリカの共通の利益が「日本の衰退」であるとするなら、ネオリベ改革を断行した瀬島はヒーロー扱いではないだろうか。
引退したとは言えど強烈な愛国者であるコワレンコは瀬島の功績を認めていたため、瀬島=KGBエージェント説を否定したのかもしれない。
それにコワレンコは大物スパイだ。嘘をつくのが仕事だ。

常習的な嘘をつくのは瀬島の場合も同じだ。
1946年、瀬島と一緒に東京裁判に向かった二人のうち一人は東京に到着するや否か服毒自殺をしている。東京裁判でソ連に有利な証言をさせられることを恥じてのことだ。
瀬島はソ連に都合の良いように東京裁判で虚構を証言した。
また、瀬島は、東京裁判から帰った後、すぐに軍法会議にかけられ25年重労働の刑を負ったと話すが、瀬島の証言による時期と内容はウソだったことがソ連の公文書とコワレンコ証言により明らかになっている。
(保坂 1991,pp43-46)

後述するが、ソ連による瀬島の刑は東京裁判とは関係がなかった。
スパイは常に嘘をつくのだ。

次の内調からとされる文書も面白い。


ラストボロフ事件が明らかになった直後の1955年、内閣調査室から怪文書が流された。
執筆者は不明となっていたがが、内部の者の執筆であることは間違いない。

怪文書は、当時、内調嘱託で元大本営戦争指導者の稲村佐孝大佐が、関東軍総司令部に出張中に配線となり、ソ連に抑留され、そこでアクティブ(ソ連抑留者のなかの民主化運動「共産主義運動」のリーダー)となり、共産党員に転向していた、という内容だった。

しかも、種村は他の日本人10人と共にモスクワに送られ、第7006捕虜収容所で特殊訓練を受けた、と書かれていた。…この訓練所の教官がラストボロフだったという。

「ここに収容された者は俘虜であってもソ連市民と同待遇を与えられた。この収容所にいた日本人は早計11名であるが、指名確認できたのは種村、志位、浅枝、瀬島龍三であったという」”
内調は当時ソ連からの引揚者が、ソ連側と通じていないか執拗に調査していた。

…収容所内の民主化運動リーダーだった浅原正基は、帰国してからの手記(中央公論・昭和31年10月号「デマ、中傷に抗して-シベリア天皇の手記-」)で、民主化運動華やかしき頃の瀬島を同士として讃えるかのように、こう書いている。
ソ連証人として関東軍の罪状を勇敢にあばき[*東京裁判での証言のこと]、またシベリア民主運動の高揚期にはハバロフスクの第13分所の将校ラーゲルにおいて、自ら民主運動参加を表明した経歴を持つ瀬島中佐…[*民主主義運動とは共産主義への転向のこと]」
(保坂 1991,pp47-49)


この保坂による「内調からの怪文書」は、史実に照らし合わせても事実であると信じるに足る資料だろう。

志位の証言、そして内調の流出文書でも瀬島はラストボロフに訓練を受けたとされているのだ。

◇ 米国に亡命したKGB工作員レフチェンコの証言


ラストロボフ事件から20余年後、同じように対日工作を行っていたソ連のKGB諜報員レフチェンコ少佐が1979年にアメリカに亡命し、日本のエージェントのリストを公表した(レフチェンコ事件)。
このレフチェンコはラストボロフと共に、ソ連で瀬島の訓練をしたという。
83年に事件が明るみになり、瀬島のコードネームが「Krasnov(クラスノフ)」ということも判明した。
https://en.wikipedia.org/wiki/Stanislav_Levchenko

ラストボロフがモスクワ郊外で日本人スパイを訓練していたという話は上述したが、コワレンコは瀬島がエージェントだったこと否定し、「レフチェンコのリストは嘘」だと証言している。
(共同1999,p406)

なお、レフチェンコは、瀬島がソ連の対日エージェント活動のボスであったコワレンコと親密だったと証言しているが、そのことはコワレンコのインタビュー等でも立証されている。
コワレンコは自身の罪を軽減するために嘘をついたと思われる。

レフチェンコらを通じた情報提供者には自民党の元閣僚、社会党の政治家、学界、財界、ジャーナリストらが名を連ね、KGBは一人4万~200万円を払っていたという。
日米間の離反や日ソ関係の修復などの世論工作も行っていた。
(小谷 2022,p106)


CIA資料より。レフチェンコが「75年から79年までKGBの工作員として日本で活動していた」と証言している。ラジオ番組出演時の記録だ。
https://www.cia.gov/readingroom/docs/CIA-RDP90-00806R000100130018-7.pdf




◇ 瀬島龍三のKGB/CIA二重スパイ説


瀬島がKGBのスパイであったことはほぼほぼ間違いないが、レフチェンコ本人と、その上司で事件を捜査したソ連の対日工作責任者コワレンコの証言等によって奇妙なことが浮かび上がる。

まず、レフチェンコのリストには、クラスノフ(瀬島)は「財界と実業界で著名な人物で、日本のビジネス・リーダーの間に逆情報を流しうる」とある。
(レフチェンコの自伝『On the Wrong Side: My Life in the KGB』1988より)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%95%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6

逆情報とは?? ソ連に都合の悪い情報ということだろうか?

それとも単に事実と異なる逆の情報を流す工作を行っていたということだろうか?

このあたりはよくわからない。

また、レフチェンコの英語版Wikiには、工作員リストを笹川陽平、ジャーナリストの黒井文太郎(ワールド・インテリジェンス編集長)らと共有したとされる。
黒井の当時のメモ(http://wldintel.blog60.fc2.com/blog-entry-75.html)が見つかっているので、おそらく笹川陽平の話も事実なのだろう。
それにしてもなぜCIA笹川良一の息子、陽平なのか。

【捕捉】
余談だが、よく書籍や報道などで、笹川良一がCIAエージェントとして扱われない場合があるが、笹川がCIAエージェントであったことは間違いないだろう。私個人は確定的に扱っている。
担当がCICからCIAに移ったため混乱があるのだと思われる。

①米参謀部・対敵諜報部隊CICが「笹川良一を情報目的で利用した」
 (名古屋大学大学院教授・春名幹男「秘密のファイル CIAの対日工作」,2000,上巻p284)

②「GHQの防諜隊[CIC]のそれ[米側による自民・民社への支援活動]を継承した在日CIA
 (拓殖大学教授・名越健郎「冷戦期における与野党の違法外国資金問題」,2020,p14)

 「52年の日本独立後、GHQは撤収し、G2やCICは、CIAに吸収されて任務を継続した」
 (同上 名越 2020,p124)

③「ゲーレン機関で有能なエージェントになるクラウス・バルビーに相当するのが児玉誉志夫、笹川良一ら反共右翼、という役回りである」(*加藤哲郎は、CIAにリクルートされた元ナチスのバルビーと笹川を並び評している
  (一橋大学名誉教授・加藤哲郎「米国国立公文書館機密解除資料 CIA 日本人ファイル 解説」2014, p3 https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB16583328

④「笹川と米陸軍諜報部との関係については、数十年間、疑惑が囁かれていたが、一九九五年に対情報部隊(CIC)の文書が機密解除され、ようやく確認された
  (Mikio Haruna and Antonio Kamiya "U.S. listed Sasakawa as Potential Imformer," The Daily Yomiuri, Jan 14 1995、「対米『情報協力』米側文書に記録、児玉氏ら右翼の大物の実態も確認」読売新聞一九九五年一月十四日)。
 (ジョン G.ロバーツ、レン・デイビス「軍隊なき占領: 戦後日本を操った謎の男」2003、p,208)

⑤「児玉誉士夫と笹川良一の二人はそれぞれ絞首刑を免れることと引き換えに親米的な特殊任務を担った
 (同上 ロバーツ 2003、p,183)

加えて、笹川の舎弟であった児玉誉士夫がCIAエージェントであったことは確定しており、笹川良一の名をFOIA(「Freedom of Information Act」米国の情報公開法に基づいた開示文書閲覧サイト https://en.wikipedia.org/wiki/Freedom_of_Information_Act_(United_States))で探すと、児島とセットになった記述を含め約40件ほどヒットすることから、極めて確度は高いと判断できる。



また、笹川は、児玉や岸信介(CIAエージェント)と、実質的なCIAエージェントだった統一教会の文鮮明と共に「国際勝共連合」を組織し、CIAの実働部隊である「WACL(世界反共連盟)」の傘下にも入っている。

上述してきた通り、「笹川=CIAエージェント説」あまりにも傍証が多すぎるのだ。
なお、CIAに開示されていない文書も多く存在するため、岸信介と同様に笹川の秘密工作の多くも伏せられているのだと推測できる。

WACLについては以下シリーズを参照:


cargo『ネオナチの系譜 シリーズまとめ』ナチスやネオナチについては、現在までに12本の記事を書いた。今後は〔その17〕まで続ける予定だ。ナチスとは何だったのか、ネオナチとは何なのかを理解する。第二次…

ameblo.jp



レフチェンコのWikiには、笹川陽平の父親・笹川良一の部下で同じくCIAエージェントだった児玉誉士夫とは親密で、仕事を共にしたともされる。
(*なお、児玉は「CIAの手先となって保守勢力に影で資金を流した」とティム・ワイナー[NYタイムス,1994年10月9]に名指しでスパイ認定される)

これはおそらくデヴィ夫人が嫁いだインドネシアのスカルノ大統領関連の話などではないだろうか。この件は児玉と瀬島が先方と仲介している。
瀬島は、児玉とインドネシアや韓国との戦後賠償金ビジネスにのめり込んでいる
また、瀬島は児玉と武器ビジネスを行っていた疑いも強い。

そして、レフチェンコのWikiには、「児玉誉士夫が1984年1月17日に死去すると、児玉の仕事を瀬島が引き継いだかのように、アメリカ政府やCIAと親密な関係になった。それゆえ、米ソの二重スパイ説が疑われた」とされている。
https://en.wikipedia.org/wiki/Stanislav_Levchenko

瀬島は「米ソの二重スパイ説が疑われた」のだ。


本日はここまで


・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・
抜粋終わり

戦後日本は、工作員天国だった・・・瀬島龍三も国家の最高機密に参画する「工作員」

よく考えると、英国の毎度留学~洗脳に行く皇室・天皇も当然に、工作員ですよね。

明治から、延々と「工作員天国」だったのが、日本列島。

天皇家からして「反日工作員」なのですよね・・・

天皇の無い 蒼い空を取り戻す

慈悲と憐みに富む社会になりますように


いいなと思ったら応援しよう!