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メンヘラの生き残りのための兵法・漢籍 李衛公問対。


上記文抜粋
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なんたって先のことは見ないふりする「今ここ文化」だからな。

◼️「今=ここに生きる」ムラ社会の自己中心主義

日本社会には、そのあらゆる水準に於いて、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。現在の出来事の意味は、過去の歴史および未来の目標との関係に於いて定義されるのではなく、歴史や目標から独立に、それ自身として決定される。

日本が四季のはっきりした自然と周囲を海に囲まれた島国であることから、人々は物事を広い空間や時間概念で捉えることは苦手、不慣れだ。それ故、日本人は自分の身の回りに枠を設け、「今=ここに生きる」の精神、考え方で生きる事を常とする。この身の回りに枠を設ける生き方は、国や個人の文化を創り出す土壌になる。〔・・・〕
社会的環境の典型は、 水田稲作のムラである。 労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は、共通の地方神信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。 この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、 それでも意見の統一が得られなければ、 「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。

これをムラの成員個人の例からみれば、大枠は動かない所与である。個人の注意は部分の改善に集中する他はないだろう。誰もが自家の畑を耕す。 その自己中心主義は、ムラ人相互の取り引きでは、等価交換の原則によって統御される。 ムラの外部の人間に対しては、その場の力関係以外に規則がなく、自己中心主義は露骨にあらわれる。 このような社会的空間の全体よりもその細部に向う関心がながい間に内面化すれば、習いは性となり、細部尊重主義は文化のあらゆる領域において展開されるだろう。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)


◼️大破局は目に見えない農耕社会民

農耕社会の強迫症親和性〔・・・〕彼らの大間題の不認識、とくに木村の post festum(事後=あとの祭)的な構えのゆえに、思わぬ破局に足を踏み入れてなお気づかず、彼らには得意の小破局の再建を「七転び八起き」と反復することはできるとしても、「大破局は目に見えない」という奇妙な盲点を彼らが持ちつづけることに変わりはない。そこで積極的な者ほど、盲目的な勤勉努力の果てに「レミング的悲劇」を起こすおそれがある--この小動物は時に、先の者の尾に盲目的に従って大群となって前進し、海に溺れてなお気づかぬという。(中井久夫『分裂病と人類』第1章、1982年)

ま、言ってもムダなんだよな、《自分の身の回りに枠を設け、「今=ここに生きる」の精神》には。だから私はもはや最近はあまり言わないようにしてるんだけど、飢えだけには注意しとかないとな。

一個のパンを父と子が死に物狂いでとりあいしたり、母が子を捨てて逃げていく。私は疲れきっていた。虚脱状態だった。火焔から逃げるのにふらふらになっていたといっていい。何を考える気力もなかった。それに、私は、あまりにも多くのものを見すぎていた。それこそ、何もかも。たとえば、私は爆弾が落ちるのを見た。…渦まく火焔を見た。…黒焦げの死体を見た。その死体を無造作に片づける自分の手を見た。死体のそばで平気でものを食べる自分たちを見た。高貴な精神が、一瞬にして醜悪なものにかわるのを見た。一個のパンを父と子が死に物狂いでとりあいしたり、母が子を捨てて逃げていくのを見た。人間のもつどうしようもないみにくさ、いやらしさも見た。そして、その人間の一人にすぎない自分を、私は見た。(『小田実全仕事』第八巻六四貢)

最晩年の祖父は私たち母子にかくれて祖母と食べ物をわけ合う老人となって私を失望させた。昭和十九年も終りに近づき、祖母が卒中でにわかに世を去った後の祖父は、仏壇の前に早朝から坐って鐘を叩き、急速に衰えていった。食料の乏しさが多くの老人の生命を奪っていった。(中井久夫「Y夫人のこと」初出1993年『家族の深淵』所収)


こういうのも「今ここ文化のムラ人」はまさかと思ってるんだろうがね。

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抜粋終わり


日本人・・・特に「天皇」は、ファンタジーを信じるしかないので、死滅するのです。。。

にしてもこれを想起する。


(3)
 太宗が質問しました。
「軍隊は、分けて使うこともあれば、合わせて使うこともある。どちらを使うかは、そのときの状況に応じて、臨機応変に決めていくことが大切だが、むかしの戦例をみたとき、これをだれが一番うまくできたのか?」
 李靖が答えました。
「符堅は、百万人もの兵士をひきつれていながらも、謝安のひきいる三万人の軍隊に敗れました。これはよく合わせることはできても、よく分けることができなかったからです。
 いっぽう、光武帝は呉漢に命じて公孫述を討伐させましたが、このとき呉漢は、軍隊を二つに分け、一隊を副将の劉尚にまかせました。そして、呉漢と劉尚は、互いに二十里ほど離れて布陣したのですが、公孫述が呉漢の陣地を攻めたとき、劉尚は兵を出して呉漢軍と合流し、公孫述の軍勢を攻撃しました。これにより、公孫述は大敗しました。このように勝てたのは、分かれていながらも、よく合わせることができたからです。
 太公望は、こう言っています。『分散すべきときに分散できない軍隊は、縛られた軍隊である。集合すべきときに集合できない軍隊は、孤立した軍隊である』と」
 太宗が言いました。
「まったく、その通りだ。符堅は、よく兵法を理解していた王猛を宰相としていたので、中国の中心部を獲得できたが、王猛が死ぬや、謝安との戦いに敗北してしまった。これは軍隊を縛って分けることができなかったためだろう。いっぽう、呉漢は、光武帝から軍隊の指揮を一任され、なんの制約も受けなかったので、公孫述を打ち倒し、その支配地域を占領できた。これは各軍を孤立させることなく、合わせることができたからであろう。光武帝が成功し、符堅が失敗した、この事例は、後世のよい手本とできる」

「今ここ」だけで、「過去現在未来」の流れから目を背ける。。

て、天皇信者の典型だよね。

「今ここを生きる」って大事だよ。でもそれは「今は、過去現在未来」ってことで、万即一・一即万で、今と過去・現在・未来とつながっている。

はずなのに日本人は「今」の「ハッとした」瞬間に一瞬を感じても、それが「悠久の流れは、一瞬に繋がっている」てことは無い。

その場のことに熱中して、永遠から目を背ける・・・。

太公望は、こう言っています。『分散すべきときに分散できない軍隊は、縛られた軍隊である。集合すべきときに集合できない軍隊は、孤立した軍隊である』と

まさに「縛られた」日本人。まあ「天皇」という邪教のファンタジーに呪縛され呪われているのだ。






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