ホンモノは、意外とわからない。偽物は陳列されているけど。
本物は、意外とわからない。
て思う。
本物って、一見して「キラキラしてる」わけでない。
大体マスコミで宣伝されるのは、まず「偽物」
本物は、普通には「特徴」めいたことを言わないし、「いかにも」て出さない。
自分で知りたければ、自分で調べたらいい。
「西洋でも東洋でも、すぐ手に届くところにあるような情報は、一般大衆受けがするような廉価版(つまり混ぜ物ばかりの、似て非なるモノ)ばかりです。」
端緒として「廉価版」は有効かもしれないけど、端緒・入門は、それに過ぎない。
本当に「知ろうとする」人には、「廉価版」は、大切だが、「いい加減につまみ食い」をしようとする人たちには、大概は「無駄遣い」になる。
結局「根っこ」を鍛えようとしないと、なんも役に立たなくなる。
「根っこ」ってなにか?て言われたら・・・
まあ難しいけど、「日々の考え方」とか「日々の生活」に、「それを動かすOSとしての思想や宗教」に「知識や知見」
だろうか。
>で、そういう理念はあれど、生き方の「具体的なスタイル」これが、巷に見本がなさすぎます。なのでアドラーでは「お稽古」を重ねるわけですね。
日々、精進。
「諸君が努力をする際には絶対にむやみに進歩しようとしてはいけない。
~学ぶ者が、聖人に一足飛びに飛躍する道理など無い。起き上がって転んだり、進んだり退いたりするのがあたりまえの努力の次第なのである。
昨日はちゃんと努力できたのに、今日になってできないからといって、むりにとりつくろって破綻のないようなふりをしようとするのは、これこそがむやみに進歩しようとすることであって、さきの努力をさえも、すっかりだめにしてしまうから、これは小さな過失ではない。
たとえば、路を行く人が、けつまずいて転んだなら、おきがってまた歩くようなものだよ。転ばなかったふりをして人を欺くことはないのである」
王陽明の努力に関するコメント{伝習録下 四十三}
日本がダメになったのは、「指導者がダメになった」のがけた違いに大きい。
王陽明の「路を行く人が、けつまずいて転んだなら、おきがってまた歩くようなものだよ。転ばなかったふりをして人を欺くことはない」
て発想で、スポーツの指導をしている人などまず見ない。で「昨日できて、今日出来ないのはお前が悪い・努力がなってない」と教育的虐待。
まあこれも「戦前・戦中の日本帝国軍」の発想そのもの。
それが「異常である」ってわかる人は、帝国日本に「特攻隊」なり「反日思想の持主」として殺された。
天皇 て「偽の帝王」の国だからな。
前にも載晋人さん書いておられましたが、みんなで強く仲良くなって、遊ぶほうが楽しい。けどそういう面白さは、忍耐が必要。ついつい相手を負かすほうの「安易な遊び」に流れてしまう。そうならないために信念と智慧の力が必要ですね。
忍耐と強さ・・・この強さってのは難しい。
この例に出した光武帝劉秀は、けた違いの豪傑でもあったし。
「草原で、いきなり巨大な虎やクマなどの猛獣にあったら、なにはともわれ逃げ出さないといけない。戦場で、ちょうどそういう猛獣・怪獣が現れたような」
と表現しているのを読んだことが有るけど、
それにほどに、人間離れした「恐怖する」ほどの武勇の持ち主。
彼によく似た「言論の自由」の保証を国是にした宋太祖・趙匡胤も
「張飛の性格で呂布の武勇」と思われるように描写されていると言われている。
まあ、化け物じみた武勇の持ち主。
だが、同様な「武勇の持ち主」は、中国史でも散見される。
でも彼ら劉秀・趙匡胤が、何故に「奴隷解放・言論の自由の保障」のような寛容な政治・社会を作れたのか?
てなると、忍耐もあるし、忍耐を支える「自信と強さ」もあるかな。
その強さは「武勇」ってだけでなく「意思・慈しみの強さ」ってのもある。
宋名臣言行録で司馬光が「范鎮こそが、最高の勇者だ」といった理由は
「力だけなら匹夫の勇に過ぎない。彼は皇帝の後継者問題で、怪しげなことが起きた時に、皇帝に対して、何度も質問状を出して、それを糺そうとしました。
皇帝の「後継者問題」となると、「反逆者」として自分はおろか一家一族にまで類が及ぶもの。それを皆が黙っているのに、一人敢然と意見を述べて、その身が無事だったを見て、多くのほかの大臣・官僚が非を糺すようする意見を述べるようになりました。
まさに「不測の淵を冒した{危険を冒して不明な場所を踏破する}」わけで、勇者でなくて、だれができるのでしょうか」
「空気を読んで、それを犯さない」のが「神の真理」みたいな近現代の日本では、すぐれた腕力や「武勇」よりも、
「道理をもって糺し、空気や雰囲気の異常さを糾弾する」のは遥かに強い「勇気」が必要なこと。
こういうことは徳川家康も高く評価して「諫言するものが最大の勇者」としている。
そういう「勇者」を、まあ殺しまくり「KY」として、否定してきた日本に、
勇者など一人も居ない。
だが、逆に言うと、そういう「道理を貫き通し、空気を踏みにじる」って強さがあれば、別に劉秀や趙匡胤みたいな「超人的武勇」など無くても、
その強さ・忍耐力が得られるのだ。
あと大事なのは彼らは「自分の力は多寡が知れている」って認識してたこと。
それだから、寛容にもなる。寛容にならないと、「自分の不足」は補えない・自分のミスは是正できない。
老子に
「いったい、慈しみの心は、
それをもって戦えば戦いに勝ち、
それをもって守れば守りが固く、
天も彼を救おうとして慈しみをもって守護してくれる。」
慈しみがあるから強い。と・・
そういうのに倣えば、其れなりに忍耐も強さも得られると思う。
て弱い私がいうのもなんだけど。
「忍耐」も「強さ」も、つまるところは「慈悲」に起因するところもある。
薄情で空気を読んで「弱いものいじめて食い物にする・踏みにじるのが強さ」それが「セレブで、強い日本人」であるのが帝政日本です。慈悲とは無縁ですはな。そもそも明治以降仏教を天皇家は捨てているから、当然か。
>基本的に弱者に厳しい弱肉強食の世界を「天皇」によって「天皇の下における(収奪の)平等」として正当化しているのが帝政ですからね。
そういう「弱い{だから弱い者いじめをする}社会」に、忍耐も寛容もあり得ない。
我々はそういう「修羅の人でなしの島」に生きている。それも確実な現在の日本の一面である。
にしても、天皇はじめ、偽物ばかりが「セレブ」なのが、この列島です。
はっきり言って、地獄のサバイバルが、日本列島なのですは。
まあ「悪貨は良貨を駆逐する」で「天皇とセレブが本物を殺す」
本物は 陳列されないし、陳列されるようでは、本物ではない。
とはいえ「陳列されたもので生きろ」て教育されている、
今の我々は、困難で、
それだけで「教育虐待」だな。
「病を病と知ることで、その病から免れ得る」と老子。
今の自分や社会の「狂気」を認識するだけで、多少「修羅の人でなし」ではなくなる。
まあ、生き延びましょう。
なんかうまくまとまらないけど。
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