天皇は売国奴 という事実に気が付かないと、日本人が終わる。
より
上記文抜粋
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ツイートまとめ テーマ:日本人が両建に嵌められる原因の考察:二元論的構図の刷り込み・信者的思考・概念的思考の絶対視・頭の中に植民地を作られる事・憑依型戦術の策源・秘教と魔術の狡猾な世界征服戦略
〇「両建」が認識されにくいのは、単純な二元論的構図の方が分かり易いからであろう。特に「何かを叩いてストレスを解消したい」「正義を隠れ蓑に暴力衝動に酔い痴れたい」などの不純な動機を蔵する者にとって構図理解などは二の次である。そういう手合いが出来るだけ単純な構図を好むのも必定と言える。
〇「正義」は中毒性がある。「正義」中毒と二元論的構図はセット。対立する両陣営のいずれかに加担して両建抗争に興じると、脳内麻薬みたいなものが分泌されるのか何なのか知らないが、とにかく気持ちが良いのだと思われる。そこで両陣営の両建を指摘されると、冷や水を浴びせられた気になるのであろう。
〇「世の中の真の権力構造を追及する」といった「面倒」で「地道」な作業(面白い作業と思うが)は、誠実で真に知的な人にしか好まれない傾向がある。対立事象に加担してお祭り騒ぎに興じたいウェブ暴徒みたいな手合いが、かかる地道な探求を好まないのも当然と言える。逆に二元論的構図は好都合である。
〇特定の両陣営が対立抗争する現象は国内外を問わず世の中で無数に見られるが、「両建」を認識していると、「いずれかの陣営に加担して争いに参加しよう」という欲求や衝動にブレーキがかかるようになる。冷静に全体の構図を観察し、両陣営相互の人脈的繋がりや目的を慎重に分析するようになるのである。
〇何かを盲信する信者・“正義”中毒者・何かを叩いてストレス解消したい暴徒などに好まれるのは、単純な二元論的構図である。麻薬中毒者は薬の成分や麻薬の流通機構などに興味はないのである。それに対し、麻薬の成分や流通の背後関係を調べ、「麻薬は止めなさい」と言うのが両建を認識する追及者である。
〇荘子に「兼忘」という語があったと記憶する。「両極端を兼ねて忘れる(両極端にとらわれない)」という意味だと解釈する。「兼忘」の語は、二元相対の両極端に誘う対立事象に処する際のヒントを与えてくれる気がする。諸子百家の果てしない対立抗争を観察する中で、かかる発想が生まれたのかもしれぬ。
〇同じく荘子に「環中」なる語あり。環(わ)の真ん中の位置にいる事で全方位的に適切な対処が可能になるとの意と解釈する。スポーツで「体幹が大事」と言われたり、武術で「中心を取る」事が重視されたりする事もこの理に通じると思われる。思考上の「環中」から逸れて周縁に引っ張られると両建に嵌る。
〇社会の操作は「単純な二元論的構図」を設定する事から始まる。これは「議題設定(アジェンダ・セッティング)」などと呼ばれる。議題設定は、影響力のある組織・集団・個人などによってなされる。まずは政府・メディア(テレビ・新聞など)だが、最近は「インフルエンサー」というのも台頭してきた。
〇世の中の対立事象や炎上騒ぎを注意深く観察すると分かるが、メディアやインフルエンサーが火を付ける事で始まっている事が多い。世の中には無数の事象が起きているが、どの事象にフォーカスするかで、人々の関心・思考・言動を誘導する事が出来るのである。スピン・コントロールもかかる原理に基づく。
〇「メディアやインフルエンサーを疑うべき」と言っているのは、「彼らの流す(個々の)情報が全て虚偽だから」という訳ではない。それよりも「議題設定によって人々の関心の方向が誘導・操作される」という事が大きい。最も関心を向けるべき事柄から目を逸らされ、重要度の低い事柄に関心が消費される。
〇社会的影響力の大きい存在は➀何を語り➁何を語らないかで世の中の動きを左右する。「議題設定」は➀に相当する。最初に枠を設定し、人々の思考の謂わば「土俵」を設定する。枠から外れた言説や人には「デマ」「陰謀論者」等のレッテルを貼り排除する。よく出来た仕組みだが、カラクリはバレている。
〇以前「「両建」が認識されにくいのは、単純な二元論的構図の方が分かり易いから」と書いたが、両建の認識を妨げる主な要因には「信者的思考」というのもあると考える。誰か・何かを盲信して絶対視している人は、その誰か・何かが両建の一角である客観的な根拠を示して説明しても決して受け入れない。
〇「信者的思考」は、宗教の信者はもちろんの事、特定の政治家・政党の支持者やインフルエンサーの信者などにも見られる。誰か・何かを盲信し絶対視している者は、その誰か・何かを相対化するような情報をシャットダウンするようになる。これが「両建」が中々認識されない事の主な原因の一つだと考える。
〇逆説的ではあるが、「信者的思考」の「信」という語の字義を考察する事を通じて「信者的思考」の批判が出来ると思われるので、試みにやってみる事にする。「信」という漢字は、「信じる(信者・信仰・狂信・盲信など)」という読み・意味以外に、「まこと(信頼・信用・信義など)」と読む事も出来る。
〇「まこと」という日本語には「誠実」「真実」「事実」「本当」「偽りでない」等の意味がある。この意味での「信」は「真実に真摯に向き合う事」や「誠実さ=人や物事に真摯に向き合う事」と解釈出来る。論語の「信なくんば立たず」という場合の「信」や「仁義礼智信」の「信」はこちらの意味であろう。
〇幾ら客観的な証拠を示しても全く聞く耳を持たない頑迷な態度が「信者的思考」に陥った者の顕著な特徴だが、真摯に真実に向き合い探求しようという態度が少しでもあれば、少しは聞く耳を持つはずである。「信者」の「信」は「盲信」の意であり、「真実に向き合う」の意は全く含まれていない事が分かる。
〇「まこと」という意味の「信」は日本古来の表現だと「真心(まごころ)」に相当すると思われる。「真心込めて作る」「真心のこもったおもてなし」など「真心」は優しい場面で使われる事が多いが、悪人や悪事に「真心」で相対する場合は、厳正なる批判的思考と断固たる追及の態度となって顕れると思う。
〇「信」という漢字に含まれる2種の意味を突き詰める事によって、全く正反対の帰結になり得る所が言葉の面白い所である。➀「信じる」という意味で突き進むと、下手をすると「盲信」「軽信」「狂信」などに陥り、自律的思考や批判的思考が失われてしまう。「信じる事が大事」とか「疑ってはならない」という道徳訓があるとすれば、人を騙したい連中にとってこれ程好都合がものはないであろう。人から信頼・信用を得られるかどうかは、日頃の誠実な言動の積み重ねによる。日頃不誠実な振る舞いをする者が「信じろ」「疑うな」と言っても無理な話である。➁「まこと」という意味が重要になる所以である。
〇論語の「民信無くば立たず」とは、「民が為政者を信じる事が大事」ではなく「為政者は民に信頼されるように真摯に誠実に努める事が大事」という意味だと思われる。惑後遺症にも戦後最大の超過死亡数にも全く真摯に向き合わない、不誠実極まりない政府が「信用しろ」と言っても土台無理な話なのである。
〇まとめる。「信」の字義は主に2つあり。➀「信じる」。➁「まこと」。➀で突き進むと、盲信に陥り批判的思考が失われる危険あり。➁を「真実に向き合う」「人や事物に真摯に向き合う」という意に取れば、批判的思考の基盤になり得る。物事を批判吟味するにはまずは物事に真摯に向き合う必要がある故。
〇「信」という漢字の類縁語に「忠」がある。「忠」にも「まごころ」という意味がある。「夫子の道は忠恕(まごころと思いやり)のみ」という場合の「忠」がそれである。「忠」という語は「君主に盲目的に従う」「国家にひたすら尽くす」という意味で取られる事が多いが、本来の意味は上記の通りである。
〇「忠」が「まごころ」「真心を尽くす」「人や物事に誠実に接する」という意味だとすると、誰か・何かに隷従するのは「佞(ねい)」である。例えば、友人が間違った事をした場合に真心を込めて注意する事を「忠告」という。逆に、友人に媚びて、間違った言動に同調するのは「佞」である。こびへつらい。
〇信者的思考に陥り、誰か・何かを盲信している者の態度はまさに「佞」である。誰か・何かに媚びへつらっている。人と人の信頼関係というのは本来美しいものと思うが、教祖と信者の関係がどこか汚らしい感じがするのは、そこにあるのが「信(信頼)」でなくして「佞(媚びへつらい)」であるからだろう。
〇類縁的な意味の「忠」と「信」を合わせた「忠信」という成語もある。江戸時代の学者である伊藤仁斎がこれを重視した由である。仁斎は自らの学の根本に「忠信」を据えたという。仕える主君をもたない町人の仁斎が言う「忠」とは、勿論「主君への忠義」ではなく「誠実さ」「まごころ」の意味であろう。
〇伊藤仁斎の「忠信」は当時の町人社会に於ける人と人との交際を念頭に置いたと思われ、その意味として「人に誠実に接する」という事が考えられる。しかし、幕府の官学だった朱子学を批判し、文献実証主義的な学問の方法論を確立した所から見ると、「真摯に真実を探求する」という意味をも読み込みたい。
〇「水滸伝」で腐敗した朝廷と戦う「梁山泊」の砦に「忠義堂」があるのは「忠義」の一般的イメージからすると矛盾のように見えるかもしれないが、「替天行道(天に替わって道を行う)」という自分たちの大義をまごころ(忠)込めて実践するという意味と解釈出来る。権力者への盲従は忠に非ず佞とされる。
〇荘子の大宗師編に「道には信と情あり」とあり。ここで言う「信」も「情」も「まこと」「真実」という意味だそうである。「道」と言えば、荘子にとっては最高の道理であり「真実」である。この意味の「信」も➁の意味であろう。また、「情」が「まこと」「真実」を意味するというのも興味深いと思う。
〇「道」の形容として「信」と「情」を並べる意味とは。古代の漢文の解釈は非常に難しいが、真実に向き合う人には「情」があるという意味だと、個人的には解釈したい。真摯に真実を探求する追及者には、人としての「情」がある人が多いと思う。「情」とは人情や思いやり、時には義憤でもあるであろう。
〇「信」や「忠」の考察を通じて、言葉は字義の解釈次第で全く異なる帰結になり得る所が興味深いと思った。それは危うい事でもある。言葉の意味を好き勝手に付け替えて人心を誘導する術策を「名付けの魔術」と呼んでいるが、これに惑わされない為にも言葉の意味を批判的に吟味する事が重要であると思う。
〇補足。伊藤仁斎が自らの学の根本に据えた「忠信」は、実体論的ではなく関係論的な理念だと考える。つまり忠信は関係規定態。即ち➀「人」に対すれば、相手の尊厳を大切にする誠実で思いやりのある態度となり、②「学問」に対すれば、対象を厳正に批判吟味して事理を明らかにする学的営為となる..と。
〇前回考察した「信」や「忠」と並び「真面目」も一考の余地がある言葉である。世界の悪党が求める「真面目な日本人」像とは、「騙され易い」「素直に言う事を聞く」「従順である」などという悪人に好都合な人物像であろう。要するに「カモ」である。
「犯罪組織が求めている「真面目な日本人」とは、「簡単に騙される、お人好しで世間知らずな」人物像であろう。惑の廃棄処分場の如き扱いを甘受している(させられている)日本は、世界の悪党・犯罪者からよいカモとみられているのかもしれぬ。あまり舐めるなよと申したい。批判的思考が自他の身を守る。」https://twitter.com/kikuchi_8/status/1647555327943122944
〇「真面目(まじめ)」も「信」「忠」と同様に「誠実」「まごころがこもっている」の意味がある。一方で、「真面目」には「しんめんぼく」「しんめんもく」という読み方もある。こちらの読みでは、「真価」「本来の姿」「本領」という意味になる。真面目(しんめんぼく)が「騙され易い」では悲しい。
〇悪党・裏権力連中は「日本人は真面目で従順で騙され易い」という負の固定観念通りの国民性に日本人を仕立て上げ、日本人に真面目(しんめんぼく)を発揮させないようにしているとも言える。彼らが恐れる日本人の「真面目」とは、キリシタン教義の矛盾や宣教師の野心を見抜いた類の批判的思考であろう。
〇根本的には真面目(人や物事に対して真摯で誠実である事・真心がある事)は良い事と思うが、表面的な「真面目」さはかえって仇になる事もある。例えば、「政府を信じて真面目に惑沈を打つ」など。こういう「真面目」さは悪意ある者の養分にしかならない。批判的思考という形で「真面目」を発揮したい。
〇「正直」も然りである。「正直」という言葉は「嘘を付かない」という意味で捉えられているが、近代以前はニュアンスが若干違ったらしい。単に「嘘を付かない」という形式論以上に、「心根が真っ直ぐ」「素直で正しい」といった精神態度の方に力点があったようである。「正直」を形式的に捉えすぎると、
〇「バカ正直」という事にもなる。「正直者がバカを見る社会」は、狡猾で悪意のある「不正直者」に簡単に騙され、「不正直者」に無意識の内に協力してしまっている「正直者」によって作られている面もある。「正直者」が悪辣な「不正直者」に騙され続けると、「正直者がバカを見る社会」が続く事になる。
〇昔から日本人は「至誠」という言葉を好む。人や事物に真摯に接する「至誠」は大事だと思うが、「至誠は必ず通じる」と思い込むのは非常に危ういと思う。以前も書いた事だが、裏権力連中が掲げる偽善的な理念(世俗的ヒューマニズム・SDGsなど)を日本人の倫理感覚の延長で解釈すると、本質を見誤る。
〇「地球の為には地球人口を大幅に削減する必要がある」「地球の為に大規模な間引きを」という大量●●を肯定する冷酷無情な思考が「世俗的ヒューマニズム」の正体だと分析する。西欧の“エリート”が持つ主義・思考は、「情」を大切にする日本人の伝統的な道義観とは全く異質である。彼らに至誠は通じぬ。
〇「至誠」は「真摯に物事を考える」「誠実に人や事物に向き合う」など自分自身の姿勢として持するものであって、悪意ある連中に必ずそれが通じる、即ち「至誠に至誠で返してくれる」と決めてかかるのは非常に危険である。愚直過ぎる正直者は狡猾な不正直者に赤子の手を捻るが如くいい様に利用される。
〇人を騙す悪意ある連中に対しては、批判的思考をフルに発揮してそれなりの対応をするのが、「真心こもったおもてなし」というものであろう。東京五輪(国際秘密結社の祭典)以来の「おもてなし」という謳い文句からは、「真心」ではなく外夷(裏権力)に媚び諂る「佞(ねい)」の卑し気な響きを感じる。
〇完全な思い付きであるが、「忠(まごころ)」は「中+心」の構成なので、「中の心」「(物事の本質に)中る(あたる)心」という事で、道理や事実に適合する中道・中庸の精神を「忠→まごころ→真心」の実質と解釈するのも面白いと思う。日本人が大事にする「真心」に批判的思考を読み込む解釈である。
〇「仁義礼智信」という「五常」の並びは孟子にはなく、前漢の董仲舒以来のものとの事である。これも思い付きだが、「信」(まこと・誠実・まごころ)に「智」が隣接するのは、「信」が只の「クソ真面目」「バカ正直」の類ではなく、「智(批判的思考)」を伴う真心であると暗示しているようにも思える。
〇「仁義礼智信」で「信」と「智」が隣接するのは、事実を誤魔化さず真摯に真実に向き合う(信)からこそ、自ずと事理に即した批判的思考(智)が出てくるのでは...と文献的に何の根拠もない個人的な解釈をしてみた次第である。誠実さや正直さを大事にしながらも簡単に騙されないようになるべきと思う。
〇「道理や事実に適合する中道・中庸」というのはあくまで思考・判断をする上での物差しみたいなものであって、自分の思考・判断が常に道理や事実に適合していると思い込むとしたら、それは独善である。騙され易い人ほど「自分の判断は正しい」「自分は騙されない」と思い込んでいる場合が多いと思う。
〇「真心」「誠実」「正直」「真面目」など日本人の美質とされてきた気質がかえって世界の悪党集団にいい様に付け込まれる弱点にもなっている。「クソ真面目」「バカ正直」ではない、悪意と騙しを見抜く智恵即ち批判的思考を伴う誠実さが重要だと考える。それが「まじめ」ならぬ「しんめんぼく」となる。
〇「真実に沿おうとする事」と「自分は真実に沿っていると思い込む事」は似て非なるものである。大事なのは前者である。「信者的思考」の人は「自分は真実に従っている」と思い込んでいるはずである。「教祖」が言う事を全て「真実」と思い込む事で「信者」となる。かくして両建の一角に組み込まれる。
〇「両建」の論理的な本質は、人間が言葉を使って物を考える二元相対的分別・概念的思考の実体視・絶対視にあると見る。したがって、如何なる考え方・思考・思想・哲学と言えども、それを「絶対の真実」と思い込むなどして絶対視すれば、両建の一角に組み込まれる危険がある。それが「信者的思考」の弊。
〇言葉が他の言葉との関係で意味が決まる関係態であるとすれば、言葉を実体視・絶対視する事自体がそもそも道理に合わないと言える。本居宣長の「うい山ぶみ」という国学入門書に「語源の探求はほどほどにすべし。言葉は様々な文脈との関係性でその意味を探るのが有益。」という趣旨の事が書かれている。
〇宣長が「語源の探求はほどほどにせよ」と書いた事は、かえって「言葉の本当の意味」という実体論的な「語源」探求をしている国学者が多かった事を示している。この傾向の延長に平田派の音義説が出たと推測。音義説などが典型だが、実体論的な言語観にとらわれると、かなり両建にからめ捕られ易くなる。
〇音義説とは、五十音など国語の各音にそれぞれ本来の語義があるとする語源論の一種である。こうした音義説の前提があって、明治以後に日猶同祖論が流入すると、「○○という日本語の語源はヘブライ語の××」といった言説が出てくる訳である。言葉を実体視すると、二元相対的な両建に嵌り易い事が分かる。
〇フリーメイソン思想の特徴は「始原を求める思考」という説がある。「始原を求める思考」とは、「世界の根源」などの究極の実在を求める実体論的な思考である。始原を求める思考は古今東西どこの文化圏にもみられるので、始原を求める思考があるからといって必ずしもフリーメイソン的だとは言えないが、
〇フリーメイソンが「始原を求める思考」をもっている事は事実だと思われる。そもそも「世界を一つにする」というワンワールド主義自体が「一つ」に収斂させていく思考である。「語源」という「始原」探求に熱を上げる平田派国学者の流れが、日猶同祖論に引き付けられ、而して石屋に絡めとられる道筋は、
〇言葉による概念的思考を実体視・絶対視する所から両建に引っ張り込まれる危険性を如実に示していると思う。古語の意味はその言葉が使われた文脈や時代的な背景との関係性に着目して探求すべきという宣長の忠告を聞かず、語源探求に執心した結果、平田国学の徒の流れは英国系石屋の罠に落ちたのである。
〇「この言葉の語源は絶対に○○だ」と絶対視して思い込むのも、「信者的思考」の一種である。一旦そういう思考に嵌ると、「日本人は猶太人」という話にまで飛躍するのにあまり時間はかからぬであろう。日猶同祖論の中でも、特に語源論に関しては、江戸後期の平田派国学の音義説が素地となったと見る。
〇「両建に嵌められる原因の考察」の続き。両建に嵌められる原因の一つに「特定の思想体系を丸ごと受け入れる」という事があると考える。哲学・宗教・主義・イデオロギーなど、特定の思想の体系を丸ごと受け入れると、その体系を相対化して見る事が出来なくなるので、両建構造に嵌められ易くなると見る。
〇個人的には、日本や東洋の伝統的な思想哲学学問(国学・儒学・仏教・老荘など)を参考にしたり引用したりする事があるが、それは自分の判断で批判的思考に役立つと思った部分を参考にしているに過ぎない。それら既成の各思想・学問の体系を丸ごと受け入れている訳ではない。この点がたまに誤解される。
〇役に立つ情報とそうでない(場合によっては有害な)情報を取捨選択する「情報のフグ料理人」の腕前が必要と以前から述べているが、これは思想・哲学・学問即ち「先人の智恵」を拝借する場合にも当てはまる。自分なりに事理に照らして妥当な部分を参照するという独立的思考を心掛けているつもりである。
〇ただし、各思想の体系を客観的に理解する事は重要である。各思想の体系を客観的に理解していないと、裏権力の思想分析が出来ない。特定の思想体系を客観的に理解する事とその体系を自分の信条として丸ごと受け入れる事は異なる。体系を鵜呑みにすると、独自の批判的思考が失われ、思考が硬直化する。
〇両建に嵌められた者の思考は「体系を丸ごと受け入れる」と「体系を丸ごと拒否する」の二者択一になりがちである。例えば、「バチカンがニューエイジ批判をしている」からといって「ニューエイジ批判をする者はバチカンの手先だ」と短絡するニューエイジ信奉者がいた。後件肯定の誤謬で論理的にも誤り。
〇「ニューエイジ批判」といっても中身は様々であるのに、「ニューエイジ批判=バチカン」と決め付けて「ニューエイジ批判は全て同じ」と思い込んでいる訳である。「思想体系を受け入れる・受け入れない」の二者択一の頭になっている事が分かる。こういう状態だから簡単に両建に絡め捕られるのである。
〇特定の思想体系を丸ごと受け入れた者が両建に絡め捕られ易くなるとすれば、裏権力側からすると、人々を両建に絡め捕る為には「体系」を製造すればよいという事になる。実際に彼らは、哲学・宗教・主義・イデオロギーなどの各種思想の体系を作り続けている。そのテクノロジーの根本が「秘教」だと見る。
〇裏権力の思想工作では、思想体系を作る場合もあれば、各国各地域の伝統的な思想を改竄する場合もある。作り出す場合も憑依改竄する場合も、裏権力の目的に合致するように思想体系を設計・構築する点では同じである。思想の体系を受け入れた者が、裏権力の意図通りに思考・言動をするようになる仕掛け。
〇思想体系は人間を内面から規定し、その思考・言動を規制する。故に裏権力が製造した思想体系にとらわれると、思考が根底から支配される。裏権力は人々を両建の枠組みに囲い込む為に、複数の思想体系の中からどれかを選ばせようとする。どの思想体系を選んでも両建支配構造に絡め捕られる仕組みである。
〇この手の思想工作を得意としているのが英国系の裏権力人脈である。幕末維新期以降に日本に流入した各種思想ツールは元を辿ると英国に発生源があると見ている。ワーテルロー戦争で活躍した英国陸軍元帥の子息のアドルフ・ウッドフォードという人物らが1880年代に設立したフリーメイソン・ロッジがある。
〇アドルフ・フレデリック・アレクサンダー・ウッドフォードらが設立したクワトゥオル・コロナティ・ロッジ(Quatuor Coronati Lodge)はフリーメイソン研究を行うロッジとされている。ウッドフォードは亡くなる直前にウィリアム・ウィン・ウェストコットに暗号文書を渡した。これが後に黄金の夜明け団
〇創設に繋がる。ウェストコットはウッドフォードから託された暗号文書を読み解き、ウッドマン、メイザースらと「黄金の夜明け団(ゴールデン・ドーン)」と称する魔術結社を作った。この魔術結社は猶太教カバラとエジプト魔術に大きな影響を受けたとされ、近代以降のオカルトの源流的な存在と言える。
〇「20世紀最大の魔術師」などと称されたアレイスター・クロウリーも黄金の夜明け団に入団した(クロウリーの入団が後の団体分裂の原因になった)。また、神智学を唱え神智学協会を創設したヘレナ・ブラバッキーというウクライナ出身の女性はGD団創設者のウェスコットやメイザースと友人だったとされる。
〇前記の界隈に近代の結社・魔術・秘教(オカルティズム)の要素が結集している観がある。要するに。クワトゥオル・コロナティ・ロッジ~黄金の夜明け団~神智学協会という、この辺りの英国系フリーメイソンのラインに、国際秘密力の思想工作・憑依型戦術の策源がある可能性が高いと睨んでいるのである。
〇国際秘密力にとっての「秘教」「魔術」は「宗教」よりも高い位置を占めていると思われる。彼らにとって宗教・イデオロギーなどの各思想体系は人々を操作する為の「道具」であり、「秘教」がそれを作り出す学術なのだと推測する。人々を両建に囲い込む「思想体系」を作り出すテクノロジーが秘教・魔術。
〇秘教・魔術の下に生み出されたものが、政治的な地理学から発達した「地政学」と、政治的な心理学としての「洗脳科学」だと見る。英国系の裏権力人脈が世界征服戦略を実行する際には、主にこの三種類の学術をフルに行使していると見ている。三つの学術は並列ではなく根源にあるものこそが秘教であろう。
〇幕末維新期以降、日本及び日本人は「敵」の正体も分からず、国際秘密力の「憑依型戦術」によって為す術なく一方的にボロボロにやられてきたと言っても過言ではないと思う。英国系石屋の「クワトゥオル・コロナティ-GD団-神智学協会」の辺りに憑依型戦術の策源があるのではというのが吾人の仮説である。
〇アドルフ・ウッドフォードらが創設したフリーメイソン・ロッジは「フリーメイソン研究」を行う専門ロッジとされるが、暗号で書かれた魔術的文書をウェストコットに託した事から見るに、研究・関心の対象は石屋の歴史だけだったとは思えない。秘教・魔術の類をも研究対象としたと見るのが妥当であろう。
〇英国諜報機関は、英国国教会・フリーメイソン・魔術結社と一体の構造と推測する。英国諜報機関の祖とも言われるジョン・ディーは魔術師・占星術師であった。日猶同祖論を唱えた佐伯好郎が英国聖公会信者で、その言説を後押ししたのがゴルドン夫人がビクトリア女王の女官だった事には何の不思議もない。
〇人間の思考は単独では機能せず、必ず特定の条件の下で作用する。例えば、母国語・習得した言語・知識や情報の量・物の考え方・何らかの思想信条・社会の風習や習慣・世の中の風潮など。裏権力は個々の思考を一々操作するのではなく、思考が作用する条件・枠組みを支配する事で思考を操作するのである。
〇「裏権力は個々の思考を一々操作するのではなく、思考が作用する条件・枠組みを支配する事で思考を操作する」故に、操作されている人の主観では「操作されている」とは思わず、むしろ「自分で考えている」と思っているであろう。思想の体系を盲信すると、そういう状態に陥る。それが洗脳の怖さである。
〇「Adolphus Frederick Alexander Woodford」なので、「アドルフ」ではなく、「アドルフス」「アドルファス」などと表記すべきでした。訂正致します。
〇高位メーソンの林董が推進した日英同盟の締結後、聖公会信者の佐伯好郎やビクトリア女王の女官で英国貴族のゴルドン夫人が日猶同祖論を主張。神智学や英国心霊主義が流行し出すのもこの時期。有名な福来友吉の超心理学実験もこの時期に行われた。心霊主義に傾倒する浅野和三郎が入信した大本教が台頭。
〇日英同盟という地政学戦略と英国系オカルティズムの流布が軌を一にしたように同時期に進行した。東亜に於ける地政学戦略の中に日本を組み込み、日本人を裏権力の手駒に仕立て上げる為に特製の思想ツールを仕込む。新日英同盟や英国のTPP加入など当時と似た情勢になりつつある今こそ歴史に鑑みるべき。
〇国際秘密力は人を操る事にかけては用意周到過ぎて悪い意味で感心する。世界の各国民の思考・言動が全て彼らに都合がよいように、彼らの目的に合致するように設計・構築しようとする。我々日本人には思いもよらない発想である。だからこそいいようにやられてきた。だが、今後はそうはいかぬと申したい。
〇「裏権力は個々の思考を一々操作するのではなく、思考が作用する条件・枠組みを支配する事で思考を操作する」と書いた。基本はそうだが、そう言い切れたのはせいぜい20世紀前半くらいまでと見るべきであろう。現代に於いては、特に今後は「個々の思考を直接一々操作する」という事も想定すべきである。
〇裏権力はむしろ「個々の思考を直接操作する」事を可能とする技術の研究開発に注力していると見る。2種類の技術を想起する。①電磁波照射。兵士の脳に直接電磁波を浴びせて戦意の低下など何らかの心理的効果を得るなど。➁脳へのマイクロチップ埋め込み・脳とコンピュータの接続など...が想定される。
〇「裏権力は思考が作用する条件・枠組みを支配する事で思考を操作する」という事は間違いなく言えるが、「個々の思考を直接操作する事はない」と思い込むと盲点が出来るので補足しておいた。それを可能とする技術があるなら、裏権力は間違いなく使うと思われる。今はむしろそちらをも十分に警戒すべき。
〇その事を踏まえた上で話を戻す。「大英帝国」(英国系裏権力人脈はロスチャ・王室・石屋・諜報部・英国国教会等の複合体と分析)の植民地政策には2つの手法ありと見る。①軍隊を送り込んで物理的に直接土地を支配する。➁標的国の主に指導者層(知識人も含む)を取り込み傀儡とする。間接支配の手口。
〇印度などが①の手口で植民地支配されたのに対し、日本は②の手口で侵略され今に至っている。第二次大戦後は②の手口が主流となった(ただし、21世紀以降は対イラク侵略など①の手口が再び台頭した)。①の手口が物理的に植民地支配するのに対し、②は人の「頭の中」に植民地を構築する手口だと言える。
〇「頭の中に植民地を作る」とは、裏権力に都合が良い思考パターンを植え付ける事を指す。例えば、最高学府に影響力を行使し学問を支配すると、そこで学んだ者は必然的に裏権力傀儡として育成される事になる。幕末に英国に秘密留学した長州藩士は、いち早く脳内に植民地が作られた者たちだったと言える。
〇さらに遡ると、戦国期に襲来したイエズス会もこの手口を使った。武士の戦闘能力が非常に高い故、彼らは軍隊を直接送り込んで支配する事は諦めた。それに代わって実行したのが、「大名や武士をキリシタン化する」という手口である。この手口はある程度図に当たり、長崎がイエズス会領になるなどした。
〇非常に強い日本の武士を洗脳してキリシタン化すれば、それがそのまま非常に強力な手駒になるという訳である。当時の指導層には、十分とは言えないが、こうした手口を見抜き排除する見識があった。一方、現代の政治屋にはそれが全くないどころか、進んで手先になるキリシタン大名の如き者ばかりである。
〇政府中枢を占める政治屋や役人が日本国民ではなくグローバル資本の利益や目的を最優先にするのは、「頭の中」が「植民地化」しているからである。というより、頭の中が植民地化した傀儡を要所に配置して日本を支配していると言った方がよい。これが第二次大戦以後の「植民地支配」の主流の手口である。
〇政府が「日本政府」と称しているのに日本国民ではなく国際勢力の利益誘導ばかりするのは、政府を動かしている連中の「頭の中」が植民地化しているからである。「植民地頭」の傀儡・走狗を権力の中枢に配置するのが、現代の「植民地支配」の実態である。毒惑・緊急事態条項・戦争準備の背後にある構造。
〇走狗ではなく本格的な裏権力エリートの養成は、年少の頃から行われるようである。英国だと寄宿舎に入り厳格な教育を受ける由である。そこから大学まで進み、特定の指導教授の下に入る。その中から「見込み」のありそうな者をピックアップし、裏権力のインナーサークルに入れるという流れだと推測する。
〇それに比べて、日本の傀儡(政治屋など)は、そこまで厳格に仕込まれているとは思えない。ある程度の思想的洗脳、利益誘導と暴力による恐怖支配で操作されていると思われる。使い走りの扱いで、インナーサークルには入れてもらえないと推測する。日本人はビルダーバーグ会議には招待されない由である。
〇ジャパンハンドラーズの何某が「馬〇しか日本の総理はやらせない」と言ったとか言わなかったとかだが、その発言が事実か否かに関わらず、日本に於ける傀儡選定の基準はまさにそれだと推測する。中国人はビルダーバーグ会議に呼ばれるのに日本人は呼ばれないというのは、日本支配の傀儡の性質を物語る。
〇「(明治以来歴代天皇のガーター騎士団入りなど英国王室と密接な皇室及びその周辺以外の)日本人はインナーサークルに入れない」というのが、裏権力の基本方針だと見る。これは日本人の底力を恐れているからこそだと考える。低レベルの傀儡に権力をもたせ、日本人を低迷状態に置き支配する手口と推測。
〇戦国時代にイエズス会が「コレジョ」で日本人を「教育(洗脳)」したように、学校でのSDGs刷り込みは幼少の頃より「頭の中の植民地」を作る為と見る事が出来る。故アロン・ルッソ氏は「フェミニズムの目的は子供を家族から引き離し、学校を家族代わりとして子供を洗脳する事」という趣旨の証言をした。
https://twitter.com/kikuchi_8/status/1637420275481583620
(了)
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抜粋終わり
日本人を、偽ニホンザルにすべく教育が、一環として「天皇」を中心に行われてきたのが、帝政日本
より
部活・体育から「考えない人間」を作るのに成功してきた天皇カルトである。
逆の言い方をすると
「裏権力~日本人虐殺勢力は、英国王の走狗たる天皇・皇族とその閨閥である」
なのである。
菊池さんからしたら、思い切ったことを書いたものです。
でも、事実ですよね。
この引用の全部も読んでね
天皇の無い 蒼い空を取り戻す
慈悲と憐みに富む社会になりますように