売国王天皇の帳簿


より


上記文抜粋
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★★★異国の丘

天皇の参謀、瀬島隆三はシベリア抑留となった一人です。

このシベリア抑留をうたった歌があの有名な異国の丘です。

  今日も暮れ行く異国の丘に  友よ辛かろ切なかろ

  我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ  帰る日も来る春も来る

  今日も昨日も異国の丘に  重い雪空 陽が薄い

  倒れちゃならない 祖国の土に  辿りつくまでその日まで

 作曲家の吉田正氏は抑留時代にこの歌を作りました。

 あの三波春夫もシベリア抑留組です。

 

 シベリア抑留組はこの他にも、バイオリニストで黒柳徹子さんの父親

 黒柳守網さん、俳優の三橋達也さん、読売巨人軍の水原茂さん

 総理大臣を務めた宇野宗祐さんなどもいます。

 シベリア抑留組は武装解除した日本兵の、家庭への復帰を保証した

 ポツダム宣言に違反する劣悪な生活環境により、10人に1人が命を落とした

 と言われています。

 これらの人たちの満州、朝鮮などで降伏した日本人の多くは

 ダモイ (帰るぞ)と言われて貨車に乗せられました。

 そしてそのまま強制収容所に送られたのです。

 このポツダム宣言に違反したシベリア抑留はなぜ起きたのでしょう。

 

 ★終戦処理会議の極悪人たち

 シベリア抑留を決定したのは、終戦処理会議のメンバーです。

 赤紙一枚で戦場に送られ、やっと戦争が終わっても帰国させず

 シベリア送りとなって何十年、、、、

 この許しがたい日本政府の行為の事実は、日本の外交文書に明記されています。

  

 終戦処理会議の連中も許しがたいが、この在外邦人現地にて共存、、、、

 つまり日本人を帰国させないということに許可を与えたのは昭和天皇です。

 天皇が拒否さえすれば、この政策は遂行できませんでした。

 天皇の内閣は、そのトップの軍人の帰還だけを考え、

一般の多くの兵士たちを切り捨て御免、、、、

の閣議決定したのです。


 天皇も内閣の連中も、

海外にいた300万人を超える日本人を切り捨て御免にした


 悪党です。

 参謀の瀬島隆三もその切り捨て御免になった一人です。

 瀬島は満州にいた皇族の竹田宮恒徳の身代わりとなってシベリア抑留にされた。

 皇族の身代わりとなったのは瀬島だけではない。

 1940年9月日独伊三国軍事同盟締結を前にして、

 陸軍参謀総長、閑院宮と海軍軍令部総長、伏見宮を天皇は罷免した。

 その後任に杉山元と永野修身がなっています。

 

 その理由を木戸幸一日記に書かれています。

 「戦争に負けた場合のことを考慮し、皇族が陸海軍の統帥機関の

  長であることを避けたのである」

 昭和天皇は、皇族の戦争責任が自分自身に及ぶのを恐れたのです。

 だから戦争末期、皇族たちを次々と罷免したのです。

 それでは終戦処理会議の極悪非道の政策を決定した極悪人たちを

 見てみましょう、、、、、

 総理大臣      東久邇宮稔彦

 外務大臣      重光葵のちに吉田茂

 国務大臣      近衛文麿

 陸軍大臣      下村定

 海軍大臣      米内光政    

 参謀総長      梅津美治郎

 軍令部総長     豊田副武

 内閣書記官長幹事  緒方竹虎

 

 シベリア抑留11年の歳月が流れたあと、瀬島は1956年8月に

 祖国日本に帰ってきます。 

 シベリアから帰っても日本政府は彼らに保障していません。

 なぜなら国家が補償すれば天皇の犯罪が、問われることになるからです。

 シベリア抑留兵たちが、補償金をもらえるようになったのは、昭和天皇や

 終戦処理会議の極悪人たちが死んでからです。

 

 
日本人はソ連の横暴を説く前に、


昭和天皇はじめ、終戦処理会議の極悪人たちの

 非人間的行為をこそ非難するべきです。

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抜粋終わり


売国王・人身売買の買弁=天皇


天皇とその閨閥・財閥を殺しつくして  日本人を守ろう。





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