「身も蓋も無い現実」から目を背けてると・・
「身も蓋も無い現実」から目を背けて、
「バラ色の夢」を目覚めても見続けていると、
身もふたもない未来を、迎えて
バラ色の死と破滅を迎える。
幻想や「建前」に自分を洗脳してしまうと、
幻想や建前を、現実に出来ずに、
それに酔って死ぬ。
綺麗な現実を作りたければ、その根っこの泥を直視しないと話にならない。
それをしない人を「純情」「素直」っていうのだから、
まあ「バラ色の死」が、日本に訪れているのだろうね。
>あっちもこっちも狂ってますので、なにがもはや「ふつう」かわからん、というより発狂してるほうが「大多数つまり普通」というのが社会の現状。
今は隠れ念仏・隠れキリシタンのように、見えない処で、対処しながら、
「馬鹿の振り~」
だろうか・・・・・・・・・・・・
漁父がそれを見て尋ねて曰(い)った
あなたは三閭大夫(さんりょうたいふ)さまではございませぬか
何でまたこのような処に
屈原はいった
世間は皆濁っているのに
私ばかりが澄んでいた
人々は皆酔っているのに
私ばかりが醒めていた
だからこそ放逐されたのだ
魚父はいった
聖人は物事にこだわらず
世間につれて移るという
世の人が皆濁っていれば
なぜご自分もその泥をかき濁し
その波を揚げようとはされませぬ
衆人が皆酔っていれば
なぜご自分もその糟(かす)をくらい
その糟汁をすすられませぬ
なぜそのように深く考え高尚に振舞い
みすみす放逐を招かれたのか
屈原はいった 私はきいている
髪を洗ったばかりの者は必ず冠を弾(はじ)いてかむり
湯浴みしたばかりの者は必ず着物を振るって着ると
どうして潔(きよ)らかな身体をして
汚塵をこの身に受けられようか
いっそ湘水(しょうすい)の流れに身を投げて
魚の餌食(えじき)となろうとも
どうして潔白なこの身体に
世俗の塵埃(ちり)を受けられよう
魚父はにっこりと打笑い
船ばたを叩いて歌って去った
「滄浪(そうろう)の水澄めば
冠の纓(ひも)が洗えよう
滄浪の水濁れば
それで足を洗えばよい」と
そのまま去ってもう何も語らなかった
・・・・・・・・・・・
屈原や 漁夫ほどには達観できない。
屈原のように死ぬわけも行かないし、そこまで絶望もしてはない。
でも漁夫ほど上手くは生きれない。
「自分の墓の上に梓の木を植えよ、それを以って(夫差の)棺桶が作れるように。自分の目をくりぬいて東南(越の方向)の城門の上に置け。越が呉を滅ぼすのを見られるように」と言い残し、自ら首をはねて死んだ。
伍子胥は、死んで亡国を見た。
別に国家・社会に、それほどの恩義も義理もない我々は、生きて発狂国家~帝政日本の死滅を見れたら、牧谿の幸いだろう。
国や会社は、人の作ったもの。天皇も同じく。
人間が死ぬのだから、国家も天皇も「滅亡」と言う終わりは来る。
でも、人の営みは、人が有る限りに続く。
人造のモノは、自然に勝てない。
十楽の 浮世の中を たづぬべし 天皇さへも さすらひぞある
それをわすれて、はや150年。
年貢の納め時が来ているのだろうね。
75年前の負債を払う時が来ている。
大した結論もなく、情緒的になりましたけど。