「平和建設」は、大変。なのに理解できないのが「天皇」とその信者。さすが馬鹿の本尊「天皇」
より
上記文抜粋
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信長は「鉄砲嫌い」だった…鉄砲を利用して「平和」を実現した徳川家康の「ほんとうの功績」
徳川家康は、稀代の政治家としての評価は高く、その功績は国内ではなく、海外ではよく知られている。
海外では政治家の信長や秀吉の評価はゼロに等しいが、「イェイェッサマ」(『大英百科事典(ブリタニカ)』の家康さまの呼称)は、歴史に残る未曾有のことをやってのけた、と画期的な評価をしているのだ。
その事実を最もよく知るのが、徳川家康とゆかりのある地、静岡の県知事である川勝平太知事である。学者の顔を持つ彼が翻訳した、米国の学者ノエル・ペリンの著作『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』(紀伊国屋書店、その後、中公文庫に収められる)をもとに家康の知られざる功績を解説する。
【前編】『日本人は知らない…じつは海外で「徳川家康」が信長、秀吉より評価されている「納得の理由」』
桶狭間の戦いの陰に隠れた合戦
1543年の鉄砲伝来から約100年間、火器の使用と開発に熱中したが、その後、江戸時代を通じてほとんどの日本人は鉄砲のことを忘れてしまった。
同書では、「1560年になる前から、大きな合戦では鉄砲の使用が始まっていたとみられる。というのも、同年、完全武装の武将(佐久間盛重)は鉄砲傷がもとで生命をおとしている」とある。
その注には「武将佐久間盛重は丸根城を陣頭指揮していたが、1560年6月22日、同城は徳川家康に攻略された。この時、家康は『火縄銃の集中攻撃をたくみに利用した』。鉄砲の伝来から17年後のことである」と鉄砲によって勝利した家康の姿を紹介した。
大河ドラマでは、18歳の家康が、尾張の清須城後略を目指す、駿府の今川義元方の武将として、「金陀美具足」を着用、初陣した様子が描かれた。ただ、丸根城の戦いは省略されてしまった。
と言うのも、丸根城の戦いは、その半日後、雨の中、26歳の若武者、織田信長による4千の騎馬隊が、2万5千の今川本隊目掛けて奇襲攻撃で勝利した「桶狭間の戦い」の前哨戦だったからである。
「人間50年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり、一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」。戦いを前に、幸若舞『敦盛』を舞う信長の悲壮な姿は日本人の心を打ち、信長を主人公とするドラマの定番となった。
鉄砲の威力を知った徳川家康
一方、欧米の戦史研究家たちの間では、1560年に日本でも鉄砲が本格的に使われた戦いとして、桶狭間ではなく、家康の丸根城の戦いを注目した。
織田方の丸根城は完全に締め切られ、家康の攻撃には弓矢などで奮戦、万全の防備で手も足も出なかった。
盛重は家康側の劣勢を見て、城から打って出て突撃を命じる。突然の総攻撃に家康の本隊はずるずると後退していく。家康ら先鋒の後ろに、わずかの数であるが、鉄砲隊が用意されていた。
運よく1発の銃弾が盛重に命中、馬から転落する。それを見て、すぐさま手負いの盛重に向かい、仕留めた。
敵方の大将首が振り回されると、形勢は一気に逆転、家康は初陣で丸根城を陥落させた。
1発の銃弾が戦局を逆転させてしまったのである。1543年、ポルトガル人から種子島に1丁の鉄砲が伝えられてから、初めて鉄砲が主役となった戦いというのが西洋社会の評価である。
伝来した鉄砲は、種子島家ですぐにコピー生産が始まり、京都、大坂へ伝播していく。17年後、駿府の今川方の家康にどのくらいの鉄砲が伝わっていたのか明らかではないが、家康は鉄砲の威力を十分に知ることになった。
鉄砲嫌い、槍好きの信長
1575年5月、33歳の家康は、8つ年上の信長と連合軍を結成、長篠で武田勝頼と戦った。
武田軍の鉄砲約4百丁、家康・信長軍は、その9倍、約3500丁の鉄砲で迎え撃ち、鉄砲隊を3つに分けて、武田騎馬隊をせん滅、勝利につなげた。この戦いの死者は約1万6千人に上り、ほとんどが武田方であったとされる。
大量殺戮兵器・鉄砲が、戦国時代の戦いで主役に躍り出たのである。また、足軽たちの鉄砲隊が主役となり、刀剣弓矢、乗馬という武士たちの日ごろの鍛錬による戦い方を時代遅れのものにしてしまった。
連合軍の総大将、信長は鉄砲嫌いだった、と同書は指摘する。
「近頃、鉄砲が大流行だが、弓矢、刀、槍などすべてそれなりに利点がある。戦場で最も頼れるのは槍である」。
ことあるごとに信長はそう言い続けたという。
足軽たちが軽々と操作する鉄砲は卑怯な武器であると考えた信長は、1582年、京都・本能寺で明智光秀の夜襲に遭い、最も頼れる武器、槍で応戦したが、めくら撃ちの銃弾で左腕が撃ち抜かれると、自刃して果てた。
家康は信長と違い、「卑怯」な武器・鉄砲に頼り、戦いの主役は鉄砲であるという信念を持ちづけた。家康が信長と全く違うのは、武士でありながら、火縄銃を上手に扱うことができたことだ。
69歳の家康が駿府城内から、非常に重い火縄銃で櫓上の鳶を仕留めたという記録が残っている。
青い目のサムライ、三浦按針と大量の鉄砲
1600年5月、関ヶ原の戦いの約半年前、家康は、オランダ船リーフデ号で大分県臼杵海岸に漂着したイギリス人ウイリアム・アダムスを大坂城に呼び寄せた。
リーフデ号には、大砲19門をはじめとする武器、砲弾、火薬類など大量の火器類、さらに鋼鉄製の西洋甲冑などが大量に積み込まれていた。家康はリーフデ号を堺港に曳航させ、すべてを5万両で購入、アダムスらを厚遇した。
関ヶ原の戦いを前に、火器類の使い方を指導したアダムスは、その後、家康の外交顧問となり、青い目のサムライ、三浦按針として活躍する。
リーフデ号の積荷にあった非常に重いが、銃弾に耐える西洋甲冑と軽くて動きやすい日本の甲冑をうまく使い、家康は、和洋折衷の新しい甲冑「南蛮甲冑」を開発した。自身が南蛮甲冑を着用しただけでなく、関ヶ原の戦いを前に、黒田長政ら有力大名に南蛮甲冑を贈り、戦いの準備をした。
リーフデ号からもたらされた大量の鉄砲、火薬類だけでなく、国友、堺などで製造させた日本中の鉄砲類が大量に持ち込まれ、当時、世界でも例のない大規模な銃撃戦が関ヶ原で繰り広げられ、家康は勝利した。
1605年将軍職を2代秀忠に譲り、家康は駿府(静岡市)に移り住むと、鉄砲鍛冶の名人、清堯(きよたか)を呼び寄せ、火縄銃を製造させている。また、細川忠興に仕えていた鉄砲名人、稲富一夢を砲術指南役として召し抱えた。
その2年後、1607年、『稲富流鉄砲伝書』が駿府で発刊されるとほぼ同時に、家康は‟鉄砲狩り‟(幕府による鉄砲管理)を始めた。これが、鉄砲を捨てるきっかけとなった。
近江国友の鉄砲鍛冶年寄4人が駿府に召し出された。家康は、鉄砲は幕府の許可の下に製造可能とする旨を申し伝え、各藩などから鉄砲の注文を受けるには、まず幕府の許可を受けるよう命じた。
当然、幕府は各藩からの鉄砲製造を許可せず、国友の鉄砲鍛冶の仕事は極端に減り、結局、昔ながらの刀鍛冶に戻るしかなかった。
「鉄砲を捨て、刀に戻れ」は国友だけでなく、すべての鉄砲鍛冶に及び、幕府を除いて、海外からの輸入も禁止された。鉄砲鍛冶がいなくなると、再び、刀剣弓矢による、チャンバラの世界に戻るしかなかった。
1637年の島原の乱を最後に、幕末までの230年間、鉄砲が主役となる戦いは消えてしまう。
信長が望んだように、武士階級は昔ながらの槍や剣術修業に邁進する幸福な時代に戻った。関ヶ原の戦いで使われた鉄砲が1丁も現存していないのは、家康の‟鉄砲狩り“で一掃されてしまったからである。
大量殺戮兵器・鉄砲のない世界がいかに平和な時代だったのか、17世紀末に日本を訪れたドイツ人の医師エンゲルベルト・ケンペルが「国内には不断の平和が続き、かくて世界でもまれに見るほどの幸福な国民である。海外の世界との交流は一切断ち切られて完全な閉鎖状態に置かれている現在の日本ほどに、国民の幸福がより良く実現している時代はない」などと述べ、その他、多くの西洋人の証言が集められている。
家康のやってのけたことを少しでも大河ドラマに盛り込めば、番組としてのレベルは大きく上がっていたはずである。いまからでも遅くないのだが…。
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抜粋終わり
四民平等でなく身分差別も有ったし、飢饉も問題だった。
でも、それ以前とそれ以降の「戦争だらけ」でなく、ましてや「天皇が国を売り払った戦争」やその後の植民地化も、無かったのが、江戸時代だった。
天皇は、そもそも「平和建設」に成功したことが、無いと思われる。
「平安時代」は、もしかしたら唯一の成功例かもしれないが。それも前半の半ばには藤原氏が実質的な支配者に成っていたし。
そんなのもあって、まともな政治や社会学的な知見が、日本は、圧倒的に足りないってことだろう。
いくら成仏・宗教や技術論・芸術論が優れてても、社会を安定し繁栄させる「統治論・政治論」が、ガラパゴス的な化石状態で、「統治論」がそもそも無い「天皇」や「神社神道」で、国家を運営するとか言う「明治維新~明治クーデター」が成功してしまう事態が、日本が「ガラパゴス的後進国{社会学・政治学限定の}」てのは間違いない。
まあ、化石では、現実の社会を回せない。
しいていえば「古きを温めて新しきを知る」っていっても「古き」の温め方を誤ると、食うことも使うこともできない。
冷凍食品の解凍方法を誤れば使えないし、乾物も戻し方を誤れば食えない。
それが理解できないのが「天皇信者」という、後天的知的障碍者なのである。
天皇の無い 蒼い空を取り戻す
慈悲と憐みの富む社会になりますように。