どう使われるか
ミハイル・ブルガーコフ著、「犬の心臓・運命の卵」(新潮社)を読んだ。二つの中編?小説が入っている本だ。前情報はほとんど無くて、本屋に並んでいた背表紙が気になって手に取ってみると新潮社のstar classicsというシリーズの一冊だった。このシリーズ他の新潮文庫の海外翻訳と少し表紙の質感が違う。普通はスベスベした感じなのだが、このシリーズは少しでこぼこした感じの質感だ。O・ヘンリーのシリーズとかこんな感じだよなと思いながら手に取ったことは何度もあるけれど、実際に読んだことはない。いつか読むんだろうな、と思う。
こっからネタバレあり。
本屋で手に取ったとき、とりあえず表紙がかわいい感じのイラストだったから裏のあらすじを読んだのだが…。とりあえず、ここに引用する。
どうだろうか。このあらすじだけでもかなり面白いのではないのだろうか。本屋でこのあらすじを見たとき一瞬何を言ってるのかわからないくらいぶっとんだ話だと思う。
そして実際に読んでみてやはりぶっ飛んでいた。私は新潮文庫の海外翻訳は海外文学の名作の作品が多いように感じていたのだが、これはハヤカワ文庫とかに入っていてもいいんじゃないかと思うくらいSF感が強く感じられた。個人的には、読み終えた感覚はSFを読み終えた感覚に近い。
どちらの話も生物、動物について扱っている話なのだが、作者が大学で医学部を卒業している。また、この作者の代表作は「巨匠とマルガリータ」というのを読んだ後にして、「あー、そのタイトル聞いたことある!」となった。「いつか読もうかな」が「いつか絶対に読むぞ」に変わった。
ぶっとんだ作品としても面白いのだが、これらの作品が当時のソ連を風刺していた点が多いというのも現在評価されている理由の一つだと思う。実際発禁処分も受けている。
本書に含まれている両作品とも科学者が改造、発明した、ひとやものが大問題になるのだが、開発者や発明者に責任はあるのか、ということがテーマにもなっていると巻末の解説に述べられていた。もちろん簡単には決められないことなのは承知のことだが、創造したもの問題があったとしても創造者がその全責任を重く受け取る必要は個人的にはないのではないか、と思う。生み出されたものがどんな人にどのように使われるか、のほうが大切なはずだ。簡単なたとえで言うならナイフは確かに人を傷つけたり殺害したりできるものだが、じゃあナイフというもの、またはナイフというものを考えだした人が悪いわけではないはずだ。今の現代の私たちの生活はナイフがあることでその恩恵を受けているのだから。もちろん、全てのものがこのような簡単な例のように当てはまるわけではないと思うけれど、それでもやっぱりものはどう使われるのか、のほうが大事な気がしてしまう。
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