ダイアリー22/08/29 お金で買えないあの頃の気持ちを思えば
家の片付けをしていると、ポルノのライヴグッズの一つ、タオルが目に入った。とりわけ目を惹いたのは、初めて参加したライヴのタオル。もう10年以上前のモノ。当時は2000円のタオルを買うだけで大きな買い物だったなあ、とふと思った。
この秋は、ライヴにミュージカルにと、好きなことが立て続けに予定されている。働いて得たお給料を、自分の幸せにつぎ込むことは、社会人になってよかったと思えることの一つであることは間違いない。
一方で、10年前、なけなしのお小遣いで何とか購入した1枚のタオルを見て、大人になったことの寂しさを感じてしまった。
始めてライヴに行ったのは高校1年生の冬だった。ポルノグラフィティが当時新たにリリースしたアルバムを引っ提げたツアー。
ライヴのチケットは確か当時8000円くらいだったと思う。これに加えて、ファンクラブにも加入したから4000円ほど追加でかかり、1万円超の出費。
貧乏ではないが、決して裕福ではない環境で育ち、バイトが禁止されていた高校に通っていた当時の僕にとって、大きな出費。
お年玉とわずかなお小遣いを貯めに貯めて、何とか行けたライヴ。グッズを買う余剰予算もなく、タオルと、かろうじてキーホルダーを1つ、ようやく買った。
チケットを取れた時は、全身の血が逆流しているのではないかと思うくらい興奮した。ライヴの日は高校の補講があったけど、「家の事情で」と言って午後から休んだ(よいこはマネしちゃダメだぞ☆)。
一人大阪城ホールへ向かい、予想以上に早く着いて手持無沙汰に過ごした時間も、寒い中開場を待っていた時間も、アリーナで自分の席が間違いなくあることを確認した瞬間も、10年経った今でも鮮明に覚えている。
あの頃の僕にとって、貴重な1日。アリーナ1階の後方端っこの席だったけど、ポルノが実在することを体感した日。ツアーは何公演もあり、全国を駆け巡るが、僕にとってその日の、大阪城ホールでのその1日の公演は、他に代えがたい特別な日となった。
翻って現在。学生時代と違い、自分で使えるお金の幅は圧倒的に広がり、チケットを取ること、グッズを買うことは、金銭的な意味で容易くなった。ツアーにも複数回参加できるし、グッズだって好きなだけ買える。何なら宿泊付きで遠征だって可能。
ポルノを応援する気持ち(今は加えてミュージカルを愛する気持ち)は、今も昔も変わらないどころか、年々増しているはずである。毎公演、一つとして同じステージはなく、その日その時にしか得られないものが確かにそこに在る。だからこそ、「その日その時」の回数を増やしたくて、複数回チケットを取りたくなる。
でも、10年前のタオルを見た時にふと、思った。
かけがえのない1日を何度も求めている僕は、その1回が訪れることの貴重さを、ありがたさを嚙みしめることができているだろうか。
無論、応援や愛の一つの形は、お金を使うことである。チケットやグッズの収入が、アーティストたちの次の活動の糧となる。あるいはそこに見返りを求める心はなく、お布施に近い感情すらあるだろう。お金の面で、学生の頃と社会人になってからを比較しても、仕方がないのかもしれない。
一方、コロナ禍で公演中止が至る所で発生するという状況を目の当たりにしてきた。コロナ前でも、1公演にかける主催者側の思いは強かったし、客もその日を楽しみにする気持ちはあったが、より一層、1公演のありがたみ、無事開催できることのありがたみを身に染みて感じているはずである。
つまり、お金を払えば好きなものに触れられるというのは、今まで以上に大変貴重なものになっているのだ。
「ありがたい」は漢字で「有難い」と書く。まさに有ることが難しいのだ。
10年前のタオルを見て感じた寂しさの正体は、この有難さを忘れてはいまいかと、当時の僕が今の僕を見つめて放り投げた感情なのかもしれない。
それだけではない。10年前、僕があの日を「特別な日」と感じえたように、どの公演もが誰かにとっての貴重な公演かもしれない、ということを当時の僕が耳打ちをする。
例えば僕にとって、複数回行ける公演だったとして、隣の席のその人にとっては、「その日しかない」貴重な公演かもしれないのだ。仕事上、予算上、時間の都合上、その日しか行けない。あるいは、その公演が誰かの初めてかもしれないし、誰かの最後かもしれない。
そう思えば、ありがたさを感じるだけではなく、複数回行ける者の、今までも参加してきた者の、「務め」が出てくるようにも思う。自分にとってだけではなく、同じ会場にいる誰かの思い出が最高のものとなるように。
たまたま隣になった人が清潔感がなかったら公演に集中できないだろう。ファンと思しき人が会場周辺で騒いでいたら怖いだろう。
逆に、困っているときに助けられたらそれもいい思い出になるだろうし、この公演のファンは礼儀正しいなとか、思われたいものである。極論かもしれないが、ファン・客層はそのアーティストや作品を映す鑑でもあると思うのだ。
偽善、自己満足、そんな言葉も浮かんできそうなことかもしれない。100人いて100人が一人たりとも不快に思わないなんて理想郷は、文字通り理想の世界でしかないかもしれない。
でも10年前に僕が最高の思い出をつくれたように、同じものを好きな人には、同じように最高の思い出をつくってほしい。努々、最悪な思い出などにはなってほしくない。
そう思っている僕を、10年前の僕はどう思うだろう。
「また小難しいこと考えてはるわあ~」とでも思うだろうか。
そう思っている僕を、10年後の僕はどう思うだろうか。
少し黄ばんだタオルを見て、また同じことを思うだろうか。